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「荷物はここにおけ」
そう言って通された部屋は広い広い、一人で使うには有り余るほどの大きな部屋だった。 はぽかんと両側に開かれた扉の前で立ち竦む。ぼけっとしていると、後ろから男がせっついて中に押し込んだ。
「どこでもいい、とっととしろ」
「あ、はい」
成り行きで結局ついてきてしまったものの、これ以上迷惑はかけなくないという気持ちが胸を占めている。礼を言ってから、ここを後にしようと東眞は決めた。 だだっ広いその部屋、ドアのすぐ傍、すぐに出て行きやすい位置にボストンバックを置く。そして扉の方に振り返る。そうすれば、ふわふわの思わず引っ張りたくなるような羽根飾りを頭につけた(くすぐったくないのだろうか)男はついて来いと横暴なまでな仕草を示した。
ここでは言われるままにするしかないので、黙ってその後ろについていく。少し早歩きでないとついていけない程、歩く速度が速い。駆け足でないとついていけない、ということはないが。
そうやって無言で歩いて、こちらも目がくらむ程の大きな広間のようなところに出る。部屋にはやはり大きなソファが二つとテーブルが一つ、しかもそのどれも高価そうな雰囲気がある、があった。しかし机の上に置かれている酒瓶がその綺麗な場所をざっと崩しているような気もしないでもない。
「あの」
「座れ」
「はい」
どす、と羽根飾りの男は前のソファに腰をおろした。ふぅと息を吐く。東眞は向かい側のソファにゆっくりと音を立てないように座った。
良く見れば赤い瞳をしているのだな、と今更ながらに東眞は気付く。
言葉がないその沈黙の中で、暖炉の火だけがぱちぱちと音を立てていた。流されるようにここまで来たことをぼんやりと思いだしながら、東眞はようやっと普通の発言をしようと口を開いた。
「あ
「ボス!悪ぃなぁ!逃がしちまったぁ!」
の、と言いかけたその声は大きなだみ声でかき消される。目の前に座る男はぎろりと効果音が付きそうなほどの目線で銀色の髪の男を睨んだ。その男はそれに気付かずに東眞に気付き、から、と笑う。
「さっきは悪かったなぁ、勘違いしちまったぞぉ。でもよぉ、てめぇもボスの女ならそうだと言えぇ」
言う暇もなく攻撃してきた男の言葉では断じてないだろう。しかし、東眞はのんびりと笑いながら、いいですよ、と言った。 それからもう一度会話を試みる。
「ご迷惑かけてしまってすみませんでした」
「唯の暇つぶしだ」
そこまですっきりはっきりと言われてしまうと身も蓋もないなぁと東眞はまるで他人事のように感じながら、頭を下げた。
「それと有難う御座いました。長居するわけにもいきませんので、これで失礼します」
「待て」
「?」
立ち上がりかけた東眞に男は制止をかけた。
「てめぇは俺の女だろう」
「…あれはその場限りの虚言だったのではないのですか?」
「暇だ、付き合え」
「…ですが、これ以上ここにいるとまた迷惑をかけます」
「願ったり叶ったりだ」
退屈で仕方がなかった、と男は言った。そして、その赤い瞳で東眞を睨みつけるようにして唇をゆっくりと動かす。
「テメェが選べる答えは一つしかねぇ」
困った、と東眞は眉尻を下げた。しかし目の前の男に腕でかなうとは到底思えない。そもそも武術の類など本当に身を守る程度のことしか習わされていない。どうしようかと悩んでいると、また部屋の空気を震わせるような大声が響いた。
「う゛あはははは!こりゃ仕方ねぇ、てめぇ厄介な男に好かれちまったなぁ」
「黙ってろ、どカス」
ぎん、と鋭い視線が向けられたが、銀色の髪の男は動じる様子すらない。それどころか腹を抱えて笑いだした。それに痺れを切らしたのか、ひょん、と東眞の顔のすぐ隣をグラスが一個飛んで行った。それから背後で固いもの同士がぶつかる音が響いて、その少し後でグラスが割れた音がした。
「…」
恐る恐る振り返ってみれば折角の綺麗な銀色の髪を酒で濡らして、ぎりぎりと歯噛みをしている男が立っている。半ば条件反射的にハンカチを差し出すと、悪ぃなぁ、とどこか気まり悪そうにそれを受け取った。
東眞はちら、とそちらを見てから、もう一度羽根飾りの男に目を移す。非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだが、折を見て出て行こうということにしてこの場はお願いします、と頭を下げた。
「それで」
「?」
「どういう経緯だ」
そこまで言われて、東眞は何を問われているかに気付く。そして隠してどうにかなるものでもないだろうということも薄々感づいていたので正直に話すことにした。
「マリッジブルーです」
「「……」」
後ろと前の男から非常に気不味そうな空気が流れてくる。
「顔も見たことのない人と結婚が決まりまして、それでここに来ました」
話をどこまでも突き詰めるとそういう話になるので、東眞は一切のものを省いてそれだけを述べた。しかし羽根飾りの男は組んだ足の上に肘を乗せて、手の上に顎を置いた。
「全部話せ。一切合財全部、だ」
ずり落ちた眼鏡を手で直して、東眞は一寸迷った後に口を開いた。
「私は日本のやくざの養女です。さっきの人は私の義弟にあたる修矢といいます。修矢は本家の跡取りとなる男です。私の父は所謂やくざの組員でして…とはいっても、ほとんど一般家庭と変わりないのですが。ですが父母が事故で死に、運良く桧組で育てられることになりました。先週お父様が、私を育ててくれた方が、新しい組との今後の協定のために私の結婚を決めました。大学を卒業したら式を挙げるのだと」
「やくざってのは日本のマフィアってやつかぁ?」
銀色の髪の男はソファの凭れの所に腰かけ、東眞から借りたハンカチを返した。
「マフィアがどういう形態を取っているのかは知りませんが、おそらくは似たようなものだと思います」
「ふぅん」
「話の腰を折るんじゃねぇ、黙ってろ」
鋭い視線を向けられて、銀色の髪の男は身を一度竦ませて分かったぜぇと頷く。東眞はまたゆっくりと頭でことを整理しながら話を続けた。
「三月には私も卒業です。顔も知らない人の所に嫁ぐことになります。今まで育ててもらった恩義を考えれば、この話お断りするわけにはいきません。ただ」
「ただ?」
「母の故郷に――――――…もうきっと私は日本から出ることはかなわないでしょうから、来たかったんです」
「偉い地位につくんだろぉ?何でこれねぇんだぁ?」
男の質問に東眞は小さく笑って答えた。
「足の腱を斬られ、生涯屋敷から出ることを許されないからです」
「…何でそんなことすんだぁ…?」
僅かな躊躇いの後の質問に東眞はゆっくりと返事をする。
「私がそのために結婚するからです。子を孕み、後継ぎを残すその器となる、そのために」
「だからって動けなくする必要なんてねぇだろぉ」
「逃げだされては、困るでしょう」
淡々とまるで他人事のように述べた東眞に男は言葉を失くす。それに気付いたのか、東眞は隣を向いて、微笑んだ。
「ですが、関東を占める組です。私がこの縁談を受ければ私を育ててくれた方たちへの恩も返せます。修矢は私がこのまま逃げることを心配していましたが、日本には帰ります。帰って、
「帰って腱を斬られて一生薄暗い部屋の中か」
「う゛お゛ぉい、ボス…」
遠慮のない言葉に東眞は一旦瞳を伏せて、それからまた前を見た。
「そうなりますね。受けた恩は必ず返す、それが…私達の生きる世界での決まり事。誰にも変えられない、決まり事です」
赤い視線と黒い視線が逸らされることなく交わる。重たすぎる沈黙の後。
「ぶはっ…!」
「?」
突然笑いだした。止まることなく、嗤う。そして一通り嗤った後に、男はにぃと口元を吊り上げた。
「気にいった」
そう東眞に告げた。
「XANXUSだ」
「あ、あの?」
「東眞だったな」
展開についていけないまま、はぁと何とも間の抜けた返事をする。XANXUS、という男はからりと氷の浮いたグラスをゆすった。表情はまた不機嫌そうなものに変わっている。
「てめぇは今から俺の女だ」
何度目か分からない言葉が、その口から発された。