大馬鹿もん - 2/3

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 ふてくされた顔をしてグラスを傾けたミトの手から、クロコダイルは酒を奪い取った。口をつけてみれば、いささか強めのラム酒であった。それでも傍には樽が一つ空になって転がっている。尤も、酒場の主人はそれもまた慣れたものといった様子で、さして気に留めることもしない。客がもの程度の酒では倒れないことは先刻承知であるかの様子である。
 コートを椅子に掛け、大柄の女よりもさらに頭一つは大きな男は椅子を引いて腰を下ろした。椅子の足が床を叩く。
「まずい酒飲んでるじゃねぇか」
 懐から葉巻を一本取出し、吸い口を切り落とすと火をつけてふかす。一連の慣れた動作は流れる水のようである。クロコダイルの言葉にミトはそうだなと是を返した。もう樽を開けることはないらしく、机の上に乗せられている酒瓶を手に取ってグラスの口につけると傾けた。瓶の内部に空気が入り、中の透明な液体がグラスに落ちる。
「食えない部下を持つと、どうにもな」
 誰かを指す名称であったが、それが一体誰なのか、クロコダイルは瞬時に判断がつかず、軽く眉間に皺を寄せる。それに気付いたミトは、ああと言葉をこぼして部下の名を口にした。
「ギック中佐だ」
「ああ」
 その名を聞いて、クロコダイルも納得する。したり顔で性格の悪い女好きの海兵を思い出した。くりっと刈り上げた頭は帽子を被ることが多く、滅多に見ることはなかったけれども。
 クロコダイルがそう考えていると、酒を傾けているミトは言葉をつらとこぼした。
「まっすぐで」
 手の中に広がる酒へと視線をやる。愁いを帯びた瞳が揺れる。
「重たく感じるよ。あいつらにやれるものは何一つないというのに」
 ミトの独白にクロコダイルは口をはさむことなく、ただ煙を揺らした。ふかした紫煙がくゆりと酒場の喧騒にまぎれて消える。
「無駄死にも犬死もさせるつもりはない。私の部下である以上、それはさせない。だがな、どうにも」
 やめちまえ。
 そう、口にしようとしたが、クロコダイルは喉元でその言葉を止めた。小皺の寄った目にもう一本二本とさらに皺を増やし、灰のついたままの葉巻を傍にあった灰皿にそっと丁寧においた。ごつい指輪が大量に嵌められている指先が離れていく。
「どうしてだろうな。ここでこんなことになるとは思わなかった。少し、心地よさすら覚える。恐ろしいよ」
「別にいいじゃねぇか。悪いことじゃねえ。海兵として生きていくのも、ありだとは思うが」
 目の前の女にそれはひどく酷である事実を知りながら、クロコダイルはそう口にする。
 瓶を逆さにしても酒が出てこなくなり、ミトは空になった酒瓶をテーブルに戻した。新しい酒を頼むことはせず、グラスに半分程つがれている液体をくいと飲み干して代わりにする。クロコダイル、と知己の名を呼び、薄く笑う。酒で笑うその表情はどこか諦めの色さえ見られた。
「私はそれを許容できない」
「ああ」
「分かるだろう」
 薄暗く澱んだ瞳が女の眼窩に収まっている。
 クロコダイルはミトのその飲み込まれそうな程に泥沼のような瞳を机を挟んで覗き込む。ガラス玉をはめ込んだだけにも見えるその眼球は相変わらず負の感情しか渦巻いていないようにクロコダイルには思えた。それを改めて言及するほどクロコダイルは愚かでも無知でもなかったがが、その代りにそう言った女の顔に煙を吹きつけた。ミトはそれを避けようとはしなかった。
 てめぇも大概だ、一体何度目になるか分からない言葉をクロコダイルは舌に乗せ、その背中を木で作られた椅子に預けた。大きな体を支えたために、椅子は背もたれ側にぐっと傾き、不安定になる。
「ああ」
 ただの一言が、ミトが感じた以上に重たいとクロコダイルはそう思った。重たい。全く、重た過ぎる。どうせ相手が答えなど求めていないということも、男は知っていた。だがしかし、けれども。答えずにはいられなかった。
 クロコダイルは葉巻から放していた掌で冷たい貴金属の鉤爪の表面を撫でた。直接的な温度が伝わり、指輪をはめている部分が段差に当たり、かちんと冷たい音が響く。こいういう独白を女がする瞬間、クロコダイルは常に一人で澱んだ海水を足でかき分けて歩くミトを、岸の向こうから眺めているような感覚に襲われる。岸からの声など届くはずもない。女の耳に触れるのはただ緩やかな波の音だけである。
「全く、手におえない奴らだ」
 飲むかとミトはクロコダイルに空の杯を差し出した。店主へと声をかけ、もう一本、先程テーブルの上に置いた酒と同じものを頼む。
「でも、嫌いじゃないよ。私の大切な部下だ。恨まれそうだ」
「かもな」
「それでも構わないと思っているあたり、随分薄情な人間だ」
 クロコダイルは答えない。運ばれてきた酒をグラスへと注ぎ、一口飲む。味は悪くもないが、やはり酒場の酒の味であることは否めない。クロコダイルと、そう呼ばれ、飲んだ分だけ酒をグラスに継ぎ足しながら、クロコダイルはし視線をそちらへと動かす。ミトは酒のつまみを口に放り込んだ。
「私は、本当にひどい人間だよ。お前にも、誰にも。私に関わってくれている生きている人全てに対して、ひどいな」
「…今更だろうが、ンなこたぁ」
「そうだな。中でも、お前には本当にひどい」
「分かってんなら」
 やめろと。そう言いかけて、同様にクロコダイルは口を噤む。酒を口の中に放り込む。
「すまん」
「謝ってんじゃネェよ」
「うん」
 そうだよなぁ、とミトはクロコダイルの手からグラスを奪い、大きく傾けた。残っていた酒は全て女の胃の中へと消える。おいしいなと泣きそうな笑顔を浮かべたミトの頭をクロコダイルは拳を作って軽く小突いた。他になんと対応すればいいのか、クロコダイルには分からなかった。