海賊と海兵 - 2/2

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 突き抜けるような痛みが腕から脊髄へと一気に駆け上がる。喉にあふれかけた声を押さえ、ミトは跳ね起きた。腹には太い男の腕が乗っかっている。掌で額をぬぐうと、冷や汗が皮膚の上に冷たい感触を残す。長い息を吐き、足を引きずり上げると膝の上に額を緩慢な動作で乗せた。心臓の音を抑え込むような、体を抱える姿勢を取る。小さな、しかし確かに感じる脈動は背骨を叩いた。ベッド、船そのものを揺らす波の動きを目を閉じて感じながら、ミトは吐出した息を細く長く、そして深く吸い込む。
 目を閉じれば、暗闇の中に赤が散る。それは光を通した己の血液の色ではない。白い刃が腹部を貫き、体を引き裂く。わざと、肉を斬り絶ち、骨をへし折った。やろうと思えば、一切の傷をつけずに行動不能にまで陥れることも可能な中、自らが選択した行為をミトは目を閉じ繰り返す。縋りついてきた腕を切り取った。そこが自分と彼の分断線であるかのように。越えてはならぬ一線なのだと突きつけるために。腕が舞い、しかし重要なのは腕などではなかったのだろう。切られた、というその事実を眼前の男は受け入れるのに暫しの時間を要したようだった。音もなく唇が小さく動く。a,i,a。三つの母音を緩やかに小さく繰り返す。子音は言わずもがな。掴まれていた腕を上から押さえる。もう彼にはこのように押さえることもできないのだと思いながら。そしてそれを行ったのは他らぬ自分だと胸に落としながら。
 たいさ。
 短く叫ばれた。母を喪った、導を失くしたような声で。しかし。
 ミトは刀を振るう手へと視線を落とした。握ったり放したりしても、腕を切り落としたその感覚だけは確かに残っている。思えば、血の臭いを嗅いだのは至極久々だとミトは思った。普段であれば、体内の腱を切るだけに留めるのであの赤色を見ることは滅多にない。殴る蹴るの船上戦闘はあるものの、鼻腔にまで届く鋭い臭いを嗅いだのは全く久々のことであった。肌に染みるような臭い、そして味であった。食い千切った腕の味を思い出すには容易い。胃の腑に落ちた人肉は、舌に乗せるにはあまりに苦いものだった。
 一つ息を吐いた時、背に暖かな人の温もりを持った手を感じ、ミトは横へと視線をずらす。
「起こしたのか」
 悪かったなと口元を軽く吊り上げる。それに合わせて、大きな体がゆっくりと折り曲げられて女の体の横に並ぶ。ぐしゃりと後ろから前にかけて刈り上げるようにして頭を撫でた。柔らかな髪が指に逆らうようにして間を逆立つ。決して固すぎないそれは、何とも言えずくすぐったい感触をクロコダイルの指に残した。
「まァな」
 先程の返事として、クロコダイルは簡潔に、しかしその要因を曖昧にして答えた。ぐしゃんと混ぜた髪の毛を強めに引っ張り、クロコダイルはミトを自分の方へと向けさせた。顔の片側が軽く引き攣ったその表情をクロコダイルに微かに顔を顰めた。
「なんつぅ面してんだ」
「ひどい面か。私は」
「ひでェな」
「そうか、ひどいか」
 自嘲気味に笑ったミトの頬をクロコダイルは抓り、引っ張った。指先を擦り合わせながら、ミトは喉を引っ掻くようにしながら笑い声を零した。肩を揺らしながら、笑いを長引かせた。最後に小さく掠れるように息をこぼして終わらせ、視線を自身の腕に落とす。その視線が向けた先にあるのは、まだある腕、しかし彼の男にはもうない腕でもある。その腕は、自分が切り落としたものでもあった。そして、それはクロコダイルと同じ左腕でもある。そちらを選んだ理由は単に、彼の利き腕でなかったと、ただそれだけであったのだが。
 布の上に出されたクロコダイルの左手首へと視線を移し、それに指先を乗せる。触れた部分は皮膚が両側に引っ張られており、とてもつるつるとしている。ミトはそこを掌で掴み、息を吐く。軽く吐かれた息はベッドシーツの上に達磨のように床板に転がり落ちた。独白がそれに合わせて口から零される。
「きっと、もっといい解決方法もあったんだろう。お互いが傷つかずに済むような、そんな最善の策も、あったんだろう。でも…私はこの道を選択した。互いが傷つく道を選んだ。そして今でも、私の中ではこれが最善の策なんだ。怨まれることも疎まれることも嫌われることも、全て、承知の上だ。でも、きっとそれは言い訳に過ぎないんだろう」
 言い訳に過ぎないのだ。ミトはそう繰り返す。
「誰から見ても、私はきっとあいつから逃げているように見える。真実を語らず、あいつの中にある海兵の私を打ち砕かず遺して行っている、そんな、都合の良いように見える。だがそれもまた、嘘じゃない。私はそれを否定できない。始めは気づかなかった。あいつが久しぶりだと声をかけて私と対峙した時、こいつは海兵として、そして私を海賊として追いかけているのだと、そう、思った。でも違った」
 クロコダイルは目を細め、ミトの話を遮ることなくただ聞く。相槌を打つこともしなかった。ただ、項垂れている女の髪を指先でいじる。
「あいつは、私を海兵として追っている。私をまだ、上官だと思っていた。クロコダイル。お前はそれを本人の自由だと言うんだろう」
「…そりゃな」
「正しい。だが、私にはできない。それをさせてやることは、できない。だって、あいつは、中佐は、私が関わり、私があいつの生き方を曲げてしまったんだから」
 進んで曲げられていたような気もするがとクロコダイルはミトが海兵であった時分に、その右腕であった男の顔を思い出しながらそう思ったが、口に出すことはしなかった。しかしそれは傲慢だとも同時に思う。けれどもまた、それを腕の中の女は理解していることも、クロコダイルは知っていた。お前でなくとも、いつか誰かをあの男は見つけ、その正義を同じように掲げたであろう。人とはそういうものだ。本質がそれである以上、ああいうタイプの男であればなおさらそれに逆らって生きることなど叶わない。
 だが、ミトから見ればそうではないのだとクロコダイルは気付いている。関係がないのだ。同じように。いつかそのうちなどの仮定の話など全くどうでもいい。現実に起こったことは、あの海兵が懐き、そして信望した。過去は一つであり、そして真実もまた一つしかない。他の事象はあくまでも起こり得る可能性のあった仮定のことに過ぎないのである。
「ならば」
 視線がさらに落とされ、首は角度をさらに下げる。
「あいつを突き放してやるのが、『上官』としての私の仕事だろう。例え、どんな薄汚い方法でも。失望させるような、相手の心をへし折るような所業であったとしても。それが、けじめだと。思う。人と付き合うのは、きっとそういうことだ」
「痛ェのか」
「そうだな」
「そうか」
「うん」
 言葉にするのは相手からの同意が得たいからではない。クロコダイルはミトの性格を現存している誰よりも知っている。誰よりも長い間、見てきた。この女が、たった一人で歩いてきたその泥沼のようなその時も、ずっとクロコダイルは見てきた。見るのが疲れるほどに、傍にいた。弁解も弁明もしないその様はあの男をひどく苦しめることだろう。理解しないのであれば、の話だが。尤も女がこのように悩むのはあの男が、わざわざこの女が去り際に用意した最後の道を無視しているからである。
 頭の悪い生き物は総じて始末が悪い。あの男は自身のことを頭脳明晰などと称していた記憶もクロコダイルにはあったが、飼主の真意を悟れぬ犬など駄犬に過ぎないではないか。それを構う女も女であるが。
 全てを失い、自分すら一度は放棄したところから、ようやくここまで帰ってきたのに面倒な真似をさせる。クロコダイルはギックという名の女の元部下のしたり顔を思い出しながら、葉巻を一本手に取った。寝煙草は火事の下だが、もうすっかり目が覚めてしまって眠れそうにもない。まだ水平線は白んでいないが、そろそろ白み始める時間でもあると、クロコダイルは長年の経験からそれを肌で感じていた。
 煙が一筋視界を流れ、ミトはゴロンと背中からベッドに戻った。身に着けている服が空気を孕み、ぼふりと柔らかな音を出す。
「痛いんだろうな」
「さァな」
「あいつらに泣かれると、弱いよ。大切な、そう。大切な、部下達だったんだ。馬鹿ばかりだった。どいつもこいつも、跳ねっ返りで粗暴で。それでも掲げる正義は皆同じで。だからつまはじきにされがちで。あいつの言うとおりだ。私は、あいつらに何の説明もすることなく置いていった。だから、そうだなぁ」
 ミトは天井を見上げたまま、ほっと微笑んだ。
「あいつらになら、私は断頭台に連れて行かれてもいい」
 その言葉に視線を動かしたクロコダイルにミトは軽く手を振る。
「勿論、そうやすやすと捕まってやるつもりなんてないさ。捕まえられたらの話だ。そう、例えばの話。あいつらは海軍で、そして私は海賊なんだから」
「海兵に戻りたいのか」
「馬鹿だな」
 ミトは肩を軽く揺らす。そして近くにあった枕を手に取り、それを自身の顔に押し付けた。
「私が、海兵だった時なんて、きっと一度もない」
 枕下の顔を見ることはかなわなかったが、それを想像することは容易にクロコダイルにはできた。また、あの時の顔をしているのだろう。口から取り込んだ煙が、苦く舌に広がっていく。吐き出せばそれは白く大気を汚した。
「私は、ただの」
 それを最後まで言わせず、クロコダイルはミトの顔にかかっていた枕を口元まで引き下げ強く押し付けた。声にならないくぐもりが布に吸い込まれる。言わなくていい。クロコダイルはそう思う。言う必要などどこにもない。口にして、形に、言葉にする必要など何一つとしてない。女の部下には立派に見えていたであろうその正義を負った背も、クロコダイルにとってはただ重たいだけのものにしか見えていなかった。息が詰まるような世界の中で、立ちすくんでいるようにしか、見えていなかった。
 息ができなくなる頃合を見計らい、枕にかけていた手を放す。短い息が精一杯に外の空気を肺に取り込む。ごろりとミトはベッドシーツの上を転がり、クロコダイルへと背を向ける。シーツに巻き込まれ、少しばかり捲れ上がった服から覗くのは過去の遺物である。それを目に留め、クロコダイルはその背の傷に指先を触れさせる。反応はない。しかし、一つ、言葉がミトの口からほろりとシーツに染み落ちた。ただ、と続く。
「祈るよ」
 クロコダイルは答えの代わりに長く、煙を吐き出した。

 

 絹を引き裂くような悲鳴が一室から響き、スモーカーは悠長に歩いていたその速度を後悔しつつ、床を蹴った。扉に手をかけると同時に、スモーカーさん!と胸に部下が一人飛び込んだ。そして病室のベッドでは、何食わぬ顔をした男が、開いていたであろう本を手早く閉じて自身の膝の上に戻す。たしぎの顔はゆでだこよりも赤く、何で一人でこいつに面会に来たんだと怒鳴り付けたい衝動をぐっとこらえ、スモーカーは帰れとたしぎを追い返した。深い溜息を落とし、そして傍にあった椅子を引いて座る。
 ギックは手元にあるポルノ誌を右手で捲りながら、平然とした調子で上官に話しかけた。
「やー少尉殿は初々しくて可愛らしい。あれくらい大げさに恥らっていただけますと、こちらとしても本望です」
 かぷかぷとスモーカーはそんな部下に青筋を立てながら、煙を普段よりも多く吐出した。ギックが開いている雑誌は男から見ても過激だと思わざるを得ない。そんなにたまってるのかと突っ込みたくなったが、それをしてしまえば延々と無駄な会話が続くのでやめた。
 義手ですけどね、とギックはページを捲りつつ、しかしスモーカーと視線を合わせることなく続けた。
「明日には届くそうです。復帰には半年ほどかかるそうですが、まあ一月でどうにかしましょう」
「…どうにかなるのか。そういうのは」
「可か不可かの問題ではなく、やるかやらないかの問題です。准将殿…と、そんなまじまじ見つめないで頂けます?勘違いしますよ」
 口を開けば余計なことしか言わない男にスモーカーは辟易した。あの女はよくもまあこれに毎日付き合っていたものだとある意味感心してしまい、そして項垂れる。そもそもこんなくだらない話を断じてしに来たわけではないのである。
 大きな手で白い髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、スモーカーは言葉を探した。しかしそれよりも先に、ギックはその答えを口にした。まるでそれは心を読まれたかのような感触がして、あまり良い気はしなかった。渋面をあらわにしたスモーカーを他所に、ギックは話を始める。
「もう、いいんです。…絶刀のことは、よく、分かりました。おれが間違ってた」
 さらりと何気ないように言われた言葉の中に、かの女を指し示す単語が以前とは異なっていることにスモーカーは気づく。懐かしむ色も、その顔にはもう残っていない。今までが今まででであったが故に、スモーカーは問い詰めるように、しかし静かに部下になった男に問うた。それでいいのか、と。その問いかけに、左腕を失った男は目線を流した。先刻までポルノ雑誌へと注がれていた視線がようやく対峙する。
「よかないですよ。でも、けじめをつけられた。これが答えです。おれは、これ以上庇ってもらうわけにはいかない。きっと今頃、あの海賊はおれなんかより、ずっと痛い思いをしてますよ。そういう、人柄でしたから。ざまあみろです」
 は、と鼻で笑い、ギックはその背中を柔らかな枕に押し付ける。自嘲気味に歪められた顔をスモーカーは煙を吐き出しながら一つ見つめた。視線を動かさないのは、互いが逸らさないからであり、逸らすことを望まないからである。
 右腕がポルノ雑誌を閉じ、それを傍にあった机の上に乗せた。
「全部、分かってましたよ。頭いいですから。何も言わずに行かれた理由も、准将殿に預けていかれた理由も。おれたちは、全員分かってました。他の連中はそれを受け入れた。でも、おれは聞きたかったんですよ。できれば本人の口から。それと、ちょっとした趣向返しでもありました。よくも勝手に行かれましたね、って。いじわるですよ。ほんの、ちいさな。いいじゃないですか、それくらい。ま、大きな代償もらっちゃいましたけど」
 そういい、つるりとした左肘を撫でる。肘から下は、本来あるべきものが既ない。スモーカーは口を挟まず男の言葉を聞く。
「いい加減に甘えるのもやめた方がいいと思い知らされました。今までも分かってましたけどね、ただ駄々こねてるだけなんだってことくらいは。居心地がよかったから、余計にですか。准将殿」
「何だ」
 そう答えたスモーカーの膝の上に、先程までギックが眺めていた本がぽんと軽い動作で置かれる。
「ご無沙汰でしょう?どうぞ」
「…ッ!!誰がだ!」
「はは、男同士なんですから、そんな恥ずかしがらなくてもいいんですよ?そうそう、この病院の屋上なんですがね。貯水タンクが丁度陰になってまして、いいスポットですよ。お教えしときます。いつでもご利用ください」
「…てめぇの私物じゃネェだろうが…ッ!!」
「あ、おれが使用中の時は遠慮してくださいね」
「そもそも使わねぇ!っく、…帰る!」
「お疲れ様です、准将殿。たしぎ少尉殿によろしくお伝えください」
「誰が伝えるか!!」
 怒鳴り散らし、スモーカーは後ろ手に凄まじい勢いで扉を閉めた。そして、激しい音を立てた後、上手く嵌められたことを悟る。しかし、気付いたところで時すでに遅し。ああくそ、と葉巻を咥え直し、スモーカーは口を曲げて病院を後にした。
 一人になった病室で男は窓の外を眺める。その視線の先には海が広がっていた。海が、よく見える病室である。そして、ギックはベッドの脇に置いてある紙袋を手にした。その袋を持ってきた老兵は、海軍大参謀は、ただ無言でその正義を刻んでいるコートをギックへと差し出した。耳の四角の飾りが寂しく揺れていた。それを取出し、ベッドの上に広げる。一度は完全に血をしみこませたそのコートは、クリーニングに出しても少しばかり色を残したようで、暗い色をまだ残していた。桃色ではなく、本当に薄い茶色のようである。遠目に見ればそれは白と大差ない。汚れているように見える。実際汚れているのだが。
 そのコートを右手と、それから左肘で触れる。正義、という二文字の上に右掌を乗せた。ギックは唇をそっと動かす。
「いただきます、大佐」
 呟かれた声は、ただ一人、それを発した人間にしか届かなかった。