海をあたう - 4/6

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 溺れた海の中で。既に存在しないはずの意識の中で。
 たまらない、表現しようのない程の究極的な孤独を感じた。気泡が上へと弾けて消える。志半ばで死ぬわけでもなし、全てを納得して死んだ。死んだ、はずなのに意識があるのも大層おかしな話ではある。走馬灯は死ぬ一瞬前に見るものであって、死んだ後に見るものではない。ならば、これは三途の川か。ワの国にはそんな話があると、以前船長に聞いた覚えがあった。船長。船長とは。オヤジか。片眼鏡の海馬鹿か。
 気泡がまた消える。体は重たく、冷え切っている。これが死である。マルコにひどいことをさせてしまった。勝手に死ねばよかった。引き金など引かせなければよかった。しかし、苦しかったのだ。言葉にはできない苦しみだった。海の中で溺れ死ぬよりひどい。空気の塊の中で圧縮されて死ぬのだ。息をすればするほどに、首を絞められているような感覚に襲われていた。逃げたのだ。自分は。苦しみから。そして、それを親友に背負わせた。だから、謝った。そして感謝した。だが、ひどい。ひどいひどい。あんまりである。
 あんな顔を、させるつもりなどなかった。すまない、マルコ。けれども、お前が引き金を引いてくれなければ、おれはもっと苦しんだ。永遠かと思える程の苦しみの中で溺れて死んだことだろう。けれども。しかし。だが。だがしかし、しかしながら、が、だけど、されど、とは言うものの、だけど。けど。
 引き金を引かせた直後、意識が途切れるほんの一瞬前、視界が真っ赤に染まるほんの刹那。
 お前から響いたコエが。頭にこびりついて離れない。
 すまねぇ。
 謝るなよ。お前が悪いんじゃない。弱かったおれが悪いんだ。お前じゃない。悪いのはお前じゃない。あんな、あんな笑みを、させたかったわけじゃない。何がそれを招いたか。そんなことは、分かり切っている。知っている。おれの弱さだ。おれがおれが、おれが、おれが、
 おれが、お前におれを殺させた。
 仲間思いのお前が、それにどれだけ苦しめられるか。想像できなかったわけじゃない。お前を思う気持ちより、ただ痛苦から逃れたい気持ちが勝っただけだったのだ。より苦しめて死なせるより、その苦しみを一瞬で終わらせることを選択肢の方がどれだけ、苦しみに悶える人間にとって楽か、お前は知っていた。けれども、知っていることと実行することは別なことも、おれは知っていた。仲間思いのお前にとって、その死の引き金がどれだけお前を苦しめるか、おれは、知っていたのに。
 何故。
 お前にそれをやらせたのか。
 おれはひどい男だ。ひどい人間だ。畜生だ。人非人だ。
 サッチが殺された時も、お前は大層泣いたじゃないか。悲嘆にくれたじゃないか。サッチが使っていた部屋を、空になったその部屋を眺めて項垂れていたのに。おれをサッチと間違えることだってあったのに。分かっていても、仲間を一層、仲間というよりも家族を一等愛していたお前は、その悲しみも深いことを。おれは知っていたのに。何年も何年も、戦い遊び楽しみ泣き笑い、時を過ごしながら、それを知っていたのに。
 なぜおまえにやらせてしまった。
 マルコ。

 

「それは」
 押し倒され、胸座を捕まれていた男はその手を振り払った。
「人違いだ」
 一拍の間を置いて、否定しなかった名前を男は否定した。しかし、女は引かない。一度口にした名前を繰り返した。
「違わない、お前はヴィグだ。かつて、モノクルのレオルが率いた海賊団に所属し、壊滅後、白ひげ海賊団にその名を加えた男だ」
 一歩も引かない女に男は眉間に深い皺を寄せ、米神に青筋を立てて口調を荒立てる。見開かれた瞳の奥に、互いの姿が映し出される。それは、互いに知った姿ではあったが、違う中身であった。
「違うって言ってんだろうが!」
「違わないと言っているんだ!」
 怒鳴った声が混じり合い、不協和音を奏でる。男は上半身を起こし、胸座を掴み返した。いい加減にしろよ、と怒鳴る。しかし女は揺るがない。憎たらしいほどにまっすぐな視線を男へと注いだ。それは、突き刺さる氷の刃のように男の心に亀裂を生じ、内部から凍らせた。背筋が冷えるような、責め立てるような視線だった。
 喰いしばった歯がぎしぎしとなる。私は、と女の口から苦しげにすら聞こえる声が響いた。
「私は、お前を見間違わない!絶対に、何があっても!お前が記憶を本当に失っているなら、それも仕方がないと思った。ここでの暮らしをお前が納得して望んでいるなら!それもまた、お前の、別人となったお前の新しい人生だと思った!だが、お前は覚えている!ならば、お前は他の誰でもない。私の知っている、私が覚えている、私の記憶の中で生き続けている男だ!」
「…ッ知らねぇと、言ってるだろうが!記憶喪失だか何だかくだらねぇ御託並べて、突っかかってくるんじゃねぇよ!」
「抜かせ!」
 激しい剣幕で叫ばれ、目尻に散った滴に男は息を飲む。言葉が、出てこない。開いた口から何かがあふれそうに見えたが、それは言葉になることはなった。女は立て続けに喋る。言葉など、まるで渦のように喉から溢れ、男の耳に降り注いだ。
 くしゃりと歪んだ目元を隠すように女は再度掴んだ胸座を引き上げて、両手の拳に額を添えた。声がくぐもる。
「お前の番だ。次は、お前の番だ。私は、海に帰ってきたぞ。随分と長く待たせたが、私はきちんと帰ってきた。お前には」
 引き寄せられた胸座に当たる額がずると持ち上がり、その涙でしっとりと濡れた瞳が下から男を見据えた。ぞっとするほどに、こちらの感情などお構いなしに無遠慮に叩きつけてくる視線に男は顔を歪めた。それ以上、女の言葉を聞きたくないとばかりに、そのがっしりとした両肩に手を添えて引きはがそうとしたが、女の力の方がいささかに強かった。
 お前は、と声が震える。止めろ、と男は小さく声を漏らした。
「帰る場所があるだろう」
 そんな場所など、ない。
 女の声は胸を抉り付けるようにして、男の頭に響いた。帰る場所などないのだ。しかし、女は男の顔色などお構いなしに言葉を重ねていく。
「待っている人がいるだろう。お前が帰れば、どれだけその生存を喜ぶかしれない、お前の家族がいるだろう!」
「知った口をきくな!」
 再度掴まれた胸座から女の腕を引きはがし、男は反対に女を押し倒した。お前に、と声が喉を通過していく。
「何がわかる!お前がおれだと、おれがお前だと!寝言は寝て言え!おれは、ヴィグじゃねぇ!そいつは、」
 そう。
「そいつは、死んでなくちゃ、いけねぇんだよ…!」
 生きていてはいけないのだ。
 は、と男は肺の中に吸い込んでいた息を一気に吐き出した。深い呼気がなされる。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔が、女の視界一杯に広がった。女は、ミトは、男を、ヴィグをその網膜にきっちりと映し出した。その表情はあまりにも辛そうで、見ているこちらまで心の臓がぎしぎしと音を立てて軋んだ。
 何がわかる、男は同じ言葉を繰り返した。ミトの頬にヴィグの眼から溢れたしょっぱい液体が落ちて流れた。
「そんなわけが、ないだろう。マルコが、お前の生存を喜ばないはずがないだろうが…!お前が帰れないのは、ただ、マルコに対する負い目だけだ。だが、マルコだって分かっていたはずだ。私だって同じようにする。苦しんでほしくないというのと、苦しみたくないという気持ちが一致しただけじゃないか。撃たせたことを、気に病むのはお門違いだ!」
「だから、お前は何も分かっちゃいないと言ってんだ。お門違いはお前の方だ」
 ヴィグはミトの背を地面に押し付けた。二つ重なった手から体重がかかり、ぐっと鎖骨のあたりを圧迫する。男の喉がごくりと上下に動いた。
 海に帰ってきた妹分を下にして、男は一度瞼を下ろした。この女の、頭を撫でてやるだけの、よく帰ってきたと抱きしめてやるだけの権利は既に自分にはない。クロコダイルがあの時傍にいたことを考えると、あの男には返しきれないほどの恩ができたことを振り返る。しかし、自分は海に帰れない。帰ってはならないのだ。自分が帰るための海は、ない。
 帰れるはずもない。ぐと奥歯を強く噛みしめた。帰れ、構うなと言ったところで、目の前の女が素直に言うことを聞かないことは、男は痛いほどによく知っていた。知りすぎていた。いいか、と諭すように男は女に言葉を落とす。
「おれが生きていると、あいつは助けられたはずのおれの命を奪ったことになるんだ。分かるか?おれは、どうあっても助けられなかった人間でなくちゃ、あいつの行為も厚意も、全部無意味なことになるんだよ」
「詭弁だ。現実はそうならなかった!それが全てだ!お前は海に流されなければ命を救われなかった。マルコがお前を撃たなければお前はもっと苦しみぬいて死んだ。だから!」
「それで行為が正当化されるものか!いいか!引き金を引かせたのはおれだ。だがな、実際に引き金を引いたのはマルコだ!あいつがどういう男か、お前が知らねぇはずもないだろう。そんな言葉で、あいつが自分を責めない理由にはならない。だから、おれは死んでいなくてはいけない。助かってはいけなかったんだよ!ヴィグは、死んだんだ!」
「馬鹿だ」
 押し倒した妹分の両の眦から涙が零れ落ちる。お前が泣く姿は、船の誰も好きではなかったのに。
 ヴィグは唇を強く噛んだ。ミトが言いたいことも、どうしてと泣く姿も、全て分かる。分かるけれども、ヴィグという人間は、マルコにとって死んでいなければならないとそう思うのである。引き金を引かせた己にできるのは、それくらいである。お前は馬鹿だと、涙声がひどく耳に染みて、傷口に響くようであった。
「生き返って、いけないはずなんてない…!なら、私はなんで泣いているんだ。お前が生きていて嬉しかったから、泣いているんだ。お前が生きていて良かったと、思えたから泣いているんだ…!私が、お前を撃っても同じように涙を流す」
 うえ、と泣いているその涙を拭うことはせず、男は項垂れた。違うんだと、小さく呟く。
「…お前と、マルコは違う。あいつは、お前みたいに割り切れない。喜んでくれるだろうが、それと同じくらいに自分を責めるだろう。おれは、もう誰も苦しめたくはない。誰が苦しむ姿も見たくない。これ以上、おれにとって大切な家族を損ねるようなことはしたくない」
「何故分からない…!生きていることこそが、何よりの朗報だろう…!」
「朗報であっても。なぁ、チビ。物事も人間もそんなに単純にはできてねぇんだよ。被害者よりも加害者の方がつらい時もある。気にするなと言っても、それで水に流せるほどに命のやり取りは軽くない。双方が生きていればそれもできただろうが、おれは一度死んだ。許せ」
 上から落ちた声を振り払い、ミトはその瞳一杯に涙を滲ませて、見下ろしている男を睨みつけた。
「許すものか」
「ミト」
「許してなどやらない」
「…我儘を言うな。お前も、おれは死んだと一度は清算したんだろう。おれが死んだ世界で、それでも生きていくことを前に進むことを決断したんだろう。ならば、それに戻るだけだ」
「だが私は知った。知ったからには、無視などできない」
「駄々をこねるなよ。おれはもう、ヴィグじゃない。ヴィグは死んだ。何度でも言う。ヴィグは、死んだ。そうだろう?ヴィグは海賊を嫌ったか?海賊を貶めるようなことを口にするような男だったか?…違うだろう?」
「仲間を思いやるのは、お前だった」
 ぼろりとためた涙が地面に落ちた。お前だったと、子供のような目をして見上げてくる視線から男は視線を逸らせなかった。
「仲間のことには敏感なくせに、自分のことを放っておくのはお前だった!兄貴風吹かせているのはお前だった!人が嫌だと言ってるのに怖い話ばかりしたのもお前だった!でも最後にはきちんと寝かしつけてくれたのもお前だった!」
 あまりにもまっすぐに感情をぶつかってくる女に男は言葉を探せない。
「今だって、マルコのことを気にかけて、自分を殺しているのは、お前じゃないか…ッ!会いたいんじゃないのか!マルコに!仲間に、家族に!お前は会いたいんだろうが!我儘だろうが子供染みているだとか、道理も分からぬだろうが知ったことか!帰れよ、ヴィグ…!帰れ、お前の家族のところに帰れよ…海にいる、お前が守り抜くと言った皆のところに帰れよ…!一人大人ぶって良い子ぶって、お前、自分が損をしてるだけじゃないか!やりたいことを、やってみろよ…!言えよ!帰りたいって!連れてってやるから!」
 一気に言葉を吐出し、ミトは肩を揺らした。しかし、男はゆるりと首を横に振って笑みを添えた。
「ヴィグは、死んだ。それが答えだ。…悪ぃな」
 瞼を落として視線を合わさないようにする。涙を落とす子供の頭をなでようと手を伸ばしたが、それは髪の毛に触れる前にひっこめられた。乗せていた体を持ち上げ、体を跨いで一歩離れる。後ろ髪をひかれるような思いを全身に味わいつつ、男はさらにもう一歩遠ざかった。一歩二歩。三歩目で背中を見せる。僅かな嗚咽が耳に届く。後ろ髪をひかれる。しかし、男は立ち止まらなかった。
 腰を曲げ、地面に転がってしまった野菜やら果物やらを拾い集めて袋に入れる。地面に落としていた視線を上げると、少し離れたところに元王下七武海が一人、クロコダイルが見えた。言葉をまともに交わした記憶があるのは、はるかかなたの記憶。それは既に死人の記憶である。かつてのあの男を知っているのは、自分であってはならない。ふっと一つ息を吐き出して、ヴィグは背筋を伸ばした。子供の泣き声がする。振り返ることは許されない。
 走ってきた男の脇を、男は一歩で通り過ぎる。一度視線が交わったが、クロコダイルは踏み入ることはしなかった。相変わらず、領分を弁えている男であった。その後ろを目に痛いコートを身にまとった男が追うようにして走り去る。ドンキホーテ・ドフラミンゴ。随分と前に賞金首として見たことがあった。今は王下七武海の一角を担っている。腕にぶら下げた袋の重みをまるで振り子のように揺らしながら、男はそこから遠ざかる。その背中に、怒声が響いた。待て、と。振り返らない。振り返ってはならない。
 ミトはクロコダイルの腕に、追う姿を押さえられながらも、腹からその背中に向かって喉が張り裂けんばかりに叫んだ。死人の名前を、呼んだ。足は止めない。繰り返し呼ばれる。それに鳴き声が混じり、嗚咽に変わる。
 遠ざかる嗚咽はやがて耳に届かない位置にまでなった。男は一度足を止めたが、再度歩を進める。ミトの言葉が頭の中で繰り返されるが、それを思っても詮無いことである。帰る場所などとうにない。元より根無し草だったのだから、それが元に戻っただけの話である。
「船長に、殺されるな」
 小さい笑みをこぼし、ヴィグは首を軽く振って腕の荷物を持ち直した。

 

 膝から崩れ落ちた女の体重をクロコダイルは支える。あー、と言葉を知らぬ赤子のような泣声が鼓膜を震わせた。声は断続的なものへと移り変わり、次第に啜り泣くような音に変化する。そして、やがてそれは鼻をすするだけに変わった。
 ぐすと一つ大きく鼻を啜ると、ミトは目元をぐいと強めにこすり、頭に伸ばされかけたクロコダイルの手をはたいて落とした。
「だい、丈夫だ」
「…そうか」
「ああ」
 平気だと繰り返された女の言葉に、クロコダイルは目を軽く細めたがそれ以上追及することはなかった。ただ、腕を掴んでいる大きめの手は小刻みに震えており、クロコダイルは生身の手をその手の上に乗せて引きはがすと、しっかりとつかんだ。微かに聞き取れるような声で、大丈夫だともう一度繰り返される。縋るように掴んだ手は掴み返された。
 ミトは視線をずらし、一方後ろで状況についてこられずに呆然としている男へと視線をやった。
「それで、お前は何をしているんだ」
「何って…心配で?」
「生憎だがな、私はお前に心配されるほど落ちぶれちゃいないよ」
 その言葉にドフラミンゴはひでえなぁと口の端を落とす。しかしそこで思い至ったように首を軽く傾げて、にっと口角を持ち上げて笑った。
「お前でも泣くんだな」
 軽く眉をひそめたが、ミトは気丈に小さく鼻を鳴らしてドフラミンゴの言葉に普段のように平静を保って答える。
「…私でも、とは一体どういう意味か、私は一度お前に問うた方がいいのか」
「おっと、ベッドの中でなら丁寧に教えてやるぜ?」
「脳天ぶち抜くぞ」
 軽口を叩いたドフラミンゴにミトは少々重めの口で返し、薄く舌打ちを混ぜた。そんな毒吐きを一切気にせず、むしろそれを求めていたかのようにドフラミンゴは高く笑った。ひらと大きな手が舞う。
「フフフ!怖え怖え。なァ、晩飯まだなら一緒に食おうぜ。なんならワニ野郎も一緒でかまわねぇよ」
 ちら、とミトはクロコダイルを窺う。それにクロコダイルは送られた視線を返し、逡巡を見せた後、懐から葉巻を取り出して長くふかした。その紫煙は細く揺蕩いドフラミンゴのサングラスにかかる。がしりとした、しかし繊細さも思わせる指が動いてその煙を振り払う。フフフ、と特徴的な笑いが煙に混ざった。
 二本の歯が葉巻を支える。
「…いいんじゃねぇか」
「ほーぅ?ワニ野郎からお許したァ、珍しいこともあったもんだ」
「別にお前と食卓を共にする必要性はないが」
「フフ、フッフッフ!そちらさんの気が変わらねぇうちに、席の予約でもしてくるとするか。おれの部屋はお前の隣だから、まあ、準備ができたら呼びに行く」
「首を洗って待ってろよ?」
 ミトは腕を組み鼻を鳴らして薄い挑発的な笑みを浮かべた。それにドフラミンゴは愉しげに笑い返す。
「そうだな。首より体洗って、ベッドで待っててくれるのが一番だぜ」
「だ、そうだが?」
「ふざけんな」
 口にしていた葉巻を落とし、革靴の底で踏み消す。じゃりと地面とそこが擦れ合った。くるとまっぴんくのコートが一回転し、先に背中を見せて大股で歩きだす。どうやら本気で店を予約してくるつもりらしい。あまり高価な店でないことを祈りつつ、ミトはクロコダイルともう一度隣に立っていた男を呼んだ。ここからでは、この声量はドフラミンゴの耳に届くことはなかった。
 クロコダイルは視線を動かすことで、それに応える。女の視線はこちらを捉えてはおらず、どこか遠くを見ていた。その視線の向こう、今は見えない、否、誰にも見えないその背を追っているそんな印象を受ける。その背が一体誰のものであるかなど、聞かずとも答えは単純明快に理解できるものでもある。取り出そうとした新しい葉巻をポケットに押し戻す。
「この島のログがたまるまで暫くあると思うんだが」
「ああ」
「ログがたまって出港することになった場合、私をこの島に置いて先に行ってくれて構わない。私も後からお前を追う。ここで、やらなければならないことができた。私は、あいつを海に帰す。今度は私の番だ。あいつがしてくれたように、今度は私があいつを引き戻す番だ」
「それを望んでいるようには見えなかったがな」
「そう見えたか」
 ミトの返答に、クロコダイルは片眉を持ち上げて表情を作る。質問には、ああ、と是を返した。その言葉に、ミトは地面に視線を落とし、そしてふいと一転させて空を見上げた。動かされた唇から声が言葉が落ちてくる。
「私には、ヴィグのように他者のコエを聴けるような能力はない。でもな」
 一歩、足が進められる。先に進んだ背中をクロコダイルは眺める。
「あいつがどれだけ仲間を家族を思っているのかくらい、分かるんだ。どれだけ、そこに帰りたいかも、分かるんだよ。だから、我ま」
「船員残して出港する船がどこにある」
 進んだ分よりも大きな歩幅でクロコダイルはミトの前へと出た。大きなコートが流れ、その背をより一層大きなものに見せる。軽い溜息がミトの耳に届いた。
「急ぎの航路でもなし。お前の用事を待つだけの余裕はあンだよ」
「すま」
 ん、と最後まで言わせず、クロコダイルはミトの頭を小突いた。上から落ちてきた視線に、あ、とミトは小さく言葉をこぼす。
「いや、有難う」
 ほんの僅かに笑ったその顔を横目で確かめ、クロコダイルはさっさと足を進めた。ドフラミンゴとの食卓というのはどうにも気に食わないが、約束した手前は足を運ばねばなるまい。それとも、この食事の誘いはあの男なりの慰めだったのだろうかと思いつつ、クロコダイルは横を歩くミトの顔を確かめた。赤い目元は、やはり痛々しいと、そう、感じた。