海をあたう - 3/6

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 ベッドに一つこんもり白い山。そしてその隣では腹をかいて大口を開けて寝ているサングラスの男が一人。寝るときくらいサングラスを外さないのかという疑問はさておいて、クロコダイルは泥のついた革靴を持ち上げると、ベッドの左側に寝ている男を容赦なく蹴り落とした。体が大きな分、余計に大きな音を立てて落ちる。まるで地震でも来たかのように部屋が揺れ、それと共に、いてぇと不平不満を混ぜた声が上がった。しかしながら、それはされて当然な主張ともいえる。
 白い山の方はぴくりとも動きはしない。目を耳を、外部から流れ込んでくる意識を全て遮断しようとしている様がありありとその目に見えた。小さな子供を見ているかのようだった。
 そうこうしていると、蹴り落とした男の腕がベッドの向こう側からにょっきりと伸びる。そして、床にぶつけたのであろうか、側頭部を押さえながら口をへの字に曲げながら上半身を起こした。薄気味悪い、というよりも人の神経を逆なでするような笑い方をする男の口が舌の動きを伴って声を発する。
「何しやがる」
「蹴り落としただけだが。ああ踏んでほしかったか」
「生憎と、おめぇのそんな趣味に付き合うおれじゃねぇのよ」
「おれとしてもてめぇの胸糞悪ぃ趣味に付き合いたくはねぇんでな」
「そりゃ、両者共々万々歳だぜ」
「そうだな。出て行け」
 下から、眉間に深い縦皺を寄せて葉巻を噛み潰している男をドフラミンゴは見上げながら、フフ、と笑った。全くぶれのないその苛立つ笑い方に米神に青筋が立つ。非常に分かりやすい表情変化をそのサングラスの奥で捕えつつ、嗤う。
「お前もこいつも、二言目には出て行けや向こうに行けって、お前らそんなにおれが嫌いなわけ?傷つくぜ」
「幸いお前が傷心旅行に出たところで、こっちとしては諸手を上げて送ってやれるんだがな」
「おっと、見送りにまで来てくれンのかよ。嬉しいね」
 揚げ足を取るような男の言葉に、クロコダイルは顔を凶悪なものにした。もともとそう人相がよい方とは言えないのだが、意識的にそうすることで、さらに悪くなる。
 こんな男に聞かせてやるような話でもない。クロコダイルはとうとうドフラミンゴを無視することを決め、にたっと笑った男を意識的に視界から消した。認識しなければいないのと同義である。白いシーツを被って丸まってしまっている女に手を伸ばす。触れればわかるような気がした。気がしただけなのかもしれない。軽く揺さぶり、女の名前を呼ぶ。返事はない。一度目、二度目。三度目はシーツを強制的に引きはがした。駄々をこねる子供に付き合ってやる意味などない。
 シーツを引きはがしてみれば何のことはない。声も出さずに泣いていた。強くこすったのか、目尻が赤い。引きはがそうとしたシーツの端は引き破りそうなほどに強く片手で握りしめられていた。ミト、と名前を呼ぶ。見上げてきた顔がこちらの顔を確認してくしゃりと崩れる。何かを言おうと口が一度上下に開いたが、それは言葉とならずに閉じられる。広い肩を縮こまらせて、女は声を失くした。視線はよれたシーツに落とされ、短い髪の毛からは項が覗いた。掛けてやる言葉さえ見つからず、ただ頭の上に手を置いた。両手がぐいとのばされ、胸に顔を押し付けられる。半ば突進に近い攻撃的なそれにクロコダイルは一瞬息を詰まらせたが、怒鳴るようなことはせず、背中にまで回され、胴体をきつく締めてくる腕を大人しく受けた。
 声すらも、上がらない。着ていた服が、ただしんみりと湿り気を帯びるだけであった。ごりごりと額が体に押し付けられる。言葉も声も、今はないのであろう。そんなものには変換できない。声に出して涙に出して、それで全てが解決するのであれば、世界中の人間はそうしている。ただ、そう言った行為は、多少なりとも心情的な負担を軽減はできるだろう。
 あからさまに存在を無視されていたドフラミンゴはそんな光景を眺めながら、寝る直前に見聞きした光景を頭の中に思い出す。マルコ、とくればそれはもうおそらく、白ひげ、否、元白ひげ海賊団一番隊隊長不死鳥のマルコではなかろうかと。ヴィグとは一体誰なのかと思いつつ、彼女がかつて海賊であり、そうやって色々と考えているとどうにも馬鹿馬鹿しく感じられ、ドフラミンゴはとうとう思考を止めた。そんなことは、自分で考えるよりも本人に質問した方が随分と早い。尤も、それに応えてくれるかどうかは定かではない(おそらく答えてくれない可能性の方がずっと高いであろう)以前ほどに嫌われてはいないが、そこまで好かれてもいないし、相変わらず信用はないことはドフラミンゴ自身も十分に理解していた。そのような些事は気に留めるようなことでもないのだが。
 クロコダイルが抱きしめている、というよりも、ミトが抱き着いているだけの光景をサングラス越しに眺めつつ、ドフラミンゴはなぁ、とクロコダイルに声をかけた。律儀に鬱陶しいとばかりの視線をよこして返事をしてくるあたり、この男は随分と豆である。
 頬杖をついた状態で、ドフラミンゴはその長い指でもって自身の頬を人差し指と中指でぽんぽんと叩いた。
「ヴィグって誰だ?」
「…関係ねぇだろう」
「気になるだろう?」
 ずかずかと人の心に土足で踏み込みながらドフラミンゴは言葉を重ねた。ただの探究心である。そして、単に知りたいだけであった。普段そいつそんな風に泣かねぇだろ、と。そもそも、泣いている姿自体ドフラミンゴは見たことがない。電話をしている最中背中が震えてるように見えたが、泣いているかどうかはわからなかった。どちらにせよ、自分の前でこんなにもクロコダイルという男に寄りかかっている姿をドフラミンゴは知らないのである。それは彼女自身のプライドがそうさせたといっても間違いではない。
 そのプライドを捨てて、捨てざるを得ない心身状態とは。その原因とは。
 気になるではないか。
 気にならない方がどうかしている。好きな女のことであれば尚更である。
「気に、なるだろう」
 ドフラミンゴは同じ言葉をもう一度重ねた。気になる。気になって気になって仕方ない。何を言うべきか、面白くない。クロコダイルにだけそういう一面を見せているのが面白くないのではない(いや、そりゃ多少は面白くないが)何故そんなにも辛そうなのか、そんな女を見るのはひどく面白くないのである。
 探究心の塊のような男を視野に入れたまま、クロコダイルはふっとその視線をぎりぎりと背骨を折りそうなほどに締め付けていた女へと戻す。腕の力が緩み、しっかりとした腕がぐいと目元を拭う。距離が置かれ、ずるずるとシーツを引きずったまま(本人は気付いていないのだろうか)洗面所に向かうと水の流れる音が届く。白く長いシーツは扉からはみ出したままである。顔を洗った、否、豪快に頭から水をかぶったのだろう、髪の毛までずぶ濡れであった。無論首にはタオルをかけてぐしゃぐしゃとその水気を取ってはいるが。
「すまん」
 開口一番が謝罪であることは十分に気に食わないが、以前よりも随分とましになったことを考え、クロコダイルはいやとそれを否定した。
「気にするな」
「一張羅に鼻水をつけてしまったな」
「…一張羅じゃねぇよ」
 ずず、と鼻水を啜る女を、その目元は痛々しいくらいに赤いのだが、見て、しかしクロコダイルは小さく胸を撫で下した。鼻水をつけられたベストを脱いで、洗濯籠に放って入れる。
「ひでぇ面だ」
「まぁ、そうだろうな」
 こうやって言葉が交わせ、意識を放棄していないだけ良いとみる。あの時と、あのインペルダウンにいた、全てが瓦解し、ただ朽ちていくだけの存在に成り果てていた時に比べれば十分に見ていられる。無理矢理にだが笑った顔は、それでも笑おうと意識しているだけましなのだ。それすらも放棄していた頃に比べれば。十分に。
 クロコダイルは笑った女の頬に右手を添えた。冷たい指輪が暖かな頬に当たる。指先に皮膚の感触を知る。
 生きている。
 他愛もない、全く下らないといえば、その通りの事実を確認して、クロコダイルは目線を落として手を離した。人を気遣うだけの余裕があれば十分であろう。さて、とクロコダイルはドフラミンゴを蹴り落としたベッドに腰を下ろした。その前では女が胡坐に座り直した。ひどい顔ではあるが、大丈夫のようである。
 老人から聞いたことを取り敢えず伝えようと口を開いたが、それを遮るように、ぎっとベッドが一人分、隣に傾いた。ニタニタと笑うサングラス男が一人。空気を読めとクロコダイルは罵ろうとしたが、この男のこと、空気を読んだ上でここに居座っていることは間違いない。そもそも、先刻までの雰囲気の中堂々と居座り続けられる精神の方がどうかしている。そのどうかしている人間に、何を言ったところで無駄であると、クロコダイルは結論付けた。間違いではない。
 溜息を盛大に続けて、出て行けとばかりに睨んでみたが、効果は一切ない。当然だろう。
 どうせ話を聞いたところで分かる会話でもなし、クロコダイルはドフラミンゴの存在を意識の外にはじいて話を始めた。
「あいつだがな」
 本人だ、と続けようとしたが、それは女の言葉であっさりとへし折られた。
「あれは、違う」
 違うんだ、とミトは首を横に振った。陰りの中から見える、ひどく寂しげな笑みにクロコダイルは顔を顰める。
「あいつじゃない。私の間違いだった」
「おい、聞け」
 伸ばされた手が叩き落される。ひどく疲れた、辛うじて笑っているような顔がそこにあった。折角止めた涙が、また目尻に浮かんでいる。
「あいつは、別人だ」
「本人だ。確認もとった。あいつのナイフの使い方はおれも知っている。第一!」
「あいつは死んだんだ。マルコが、最期を看取ったんだ。ヴィグが生きているなら、ここは夢か幻だ。お前も幻か。クロコダイル」
「しっかりしねぇか。本人だって言ってンだ。記憶喪失の可能性もある」
 記憶喪失を装っている可能性もある、とはクロコダイルは口にしなかった。その言葉に双眸の中にある瞳が大きく揺れる。しかし、揺れた瞳はまたぶれるのをやめ、静かにシーツへと視線を落とした。柔らかな髪がふると横に振られる。胡坐を組んだ接点にある両手が足首をきつく掴んでいた。
 耳を、声が叩く。
「仮に、あれが本人だとして。しかし記憶がないならば、その上で、あいつがここでの新しい生活を見つけて、海賊を…嫌う人になっているなら」
 やはりそれは別人なのだ。
 ミトは唇を噛んだ。血が滲み、じわりと口内に鉄の味が広がっていく。背中が、記憶の中の背が瞼の裏に浮かぶ。刺青のなかった頃、刺青を入れてから。それはまるで浮かんでは消える泡のように流れた。そしてそれらは全て記憶である。今後一切更新されることのない記憶であった。
 死人を追いかけるのは、やめにしねぇか。
 マルコの言葉が頭にこびりついて離れない。幾度もそれは繰り返され、まるで呪文のようにすら思えた。ミトは首を横に振る。
「それは、もう、私が知る、ヴィグではない。それは、あいつが記憶を失ってから作り上げた新たな人間であって、そこに関与する権利を私は持っていない。いくら、あいつの肉体が戦い方を覚えていても、口癖を覚えていても、もう、違うんだ。思い出させる必要性が見当たらない。私にとってもマルコにとっても、既にヴィグは死人だ。私が海賊であって、いくらヴィグを連れて行きたいと思って、連れて行こうと願っても。私はかつてのヴィグを間違いなく幾度もあいつの中に見るだろう。あれが違うこれが違う。それは、双方がただ辛いだけだ。ヴィグではないと言い聞かせたところで、私にとって、あいつの外見はそれそのものだから、やはり駄目なんだろう」
 それならば何故。クロコダイルは思う。何故、そんな顔をするのかと。
 肩を震わせ、両足首を掴んでいるその姿は、今にも走り出してあの男の腕を掴みたい衝動を抑え込んでいるように見えた。死んでいると分かっていると口にするくせに、その視線は生者に向けるそれである。この女の中で、ヴィグという男は未だ死に至ってはいない。呼吸を繰り返し、温かみを持っているままである。
 クロコダイルは足首をきつく掴んでいる片手を掴み取った。視線が上がり、奇妙な笑みが作られる。
「お前の言いたいことは、分かっている」
「言ってみろ」
「海賊らしく奪ってみせろ。そうでなければ、何故こんな顔をしているのか、か。そんな面するくらいなら、とっとと野郎のとこに言って全部ぶちまけて来い、かな」
 おおいに当たっている。それだけ分かっていながら、何故ここにとどまっているのか。そう思えば、女はやはり泣いているような笑っているような奇妙な笑顔で答えた。口にしていない言葉の答えを返されるのはいささか不思議な気分にさせられた。
「言ってどうする。あいつには、既に記憶のないあいつが築いた新しい生活がある。それは、他ならぬヴィグが求めたことだ。そして、記憶を思い出す必要がないと判断した結果だ。思い出したいなら、人はそれなりの行動を見せる。記憶を辿るための努力の一つもするだろうさ。しかし、ヴィグはそうしなかった。それはあいつがここで生きていくことを決めたからだ。そんなヴィグを連れて行ってどうする。マルコたちの下へ行かせて、何があるというんだ。そこにあるのはお互いに対する失望だけだ」
「もしも、記憶喪失でなかったらどうする」
 何だと、とクロコダイルの言葉にミトは目を見開いた。流石にそれは予測していなかったようで、少し混乱をきたしている。
 掴まれていない方の手で頭を押さえ、待て、とそれ以上の情報を送り込まれることを拒否する。そして数分そのままの状態で、深呼吸を一度し、どういうことだとミトはクロコダイルに問うた。未だその瞳に狼狽は残るものの、正常にものを考えるだけの思考は戻った様子で、クロコダイルは自身の考えを語った。
「記憶を失ったなンざ、本人にしか分からねぇだろうが。嘘をついているという可能性はないとは言い切れねぇ」
「それが、ヴィグにとって何の意味があると言うんだ。あいつは、私が知っているあいつは、そんなことは」
 いや。
 ミトはそこで一度思考を中断した。中断した、というよりも、頭の底辺にぽつと浮かんだ考えに呆然とした。それならば、全て辻褄が合うと結論付けられる。全てはおかしくなどない。ヴィグが黙っている理由も、記憶喪失だと偽る理由も、マルコたちの元に帰ろうとしない理由も。全てに。
 反応の消えたミトにクロコダイルは声をかけ、掴んでいた腕を解放し、肩を叩こうとした。しかし、体は勢いよく捻られ、布団のシーツが視界を埋め尽くす勢いで跳ねた。胡坐をかいていた両足が、綺麗に折り畳まれ、スタートダッシュの姿勢を取る。既に背中しか見えない。速い。横顔がちらついた。その視界に、意識の中から自分という存在がすでに弾き出されている事実にクロコダイルは気付く。名前を呼びこちらに注意を向けさせようとしたが、そんな時間すら与えない。折りたたまれた体が、爆発的な加速力を持つ脚力とその技で一気に跳ねる。まるで、野生の獣のようであった。開けられたままの窓へとクロコダイルは注意を移した。
「捕まえろ!ドフラミンゴ!」
 視界に置いて圧倒的な主張をしてくるピンク色に気付き、クロコダイルは咄嗟にその名前を呼んだ。しかし、話の中心からずれていた男はそこまで気を払っておらず、視線を動かすだけで、その怪しげな技を使うことなど脳の端にも置いてはいなかった。ど、とそのすぐ横で大気が足で叩かれる。サングラスが風圧で吹き飛ばされた。役立たずが、と口の中で罵り、クロコダイルは窓の外に見えた背中に手を伸ばす。しかし、その手は宙をかいただけで、帯も足も何も掴むことはなかった。
 舌打ちと短い罵倒を響かせ、クロコダイルは踵を返し部屋の扉を蹴り開けると外に飛び出す。ドフラミンゴはその後を追った。扉の縁に一度頭をぶつけそうになって、立ち止まり、危ない危ないと屈んでそれをやり過ごすと、階段下に消えた黒いコートを視界に捕え、慌ててそれを追いかける。待てよ、ワニ野郎。そう声は小さくなりゆく背中にとんだ。無論、その制止で黒くはためく外套が動きを止めることはなったが。

 

 頭を押さえる。指先に髪の毛がふれた。無性に酒が飲みたくて、その酒をぐびりと喉に落とす。焼けるような熱さのアルコールに男はふーっと長い息を代わりに吐き出した。当然吐き出された息は大層酒臭い。どんと強く瓶を机の上に置いた。まるで夜のように厚い雲が太陽を覆ってしまっていた。部屋が暗い。ただ、嵐の兆候はなく、航海士が気を配っているだけで、各々はそう動いてはいなかった。その証拠として、自分は自室にこもっている。
 明かりはただ、蝋燭一本だけであった。不意に視線を動かせば、酒瓶がなかった。あの男は、酒に逃げるのは悪い癖だと、笑って酒瓶を取り上げる癖があった。
「ヴィグ」
 その名前を口にする。ひどく重たい。
 ミトが間違えるはずなどないのだと、マルコは薄々それを感じ取っていた。しかしながら、同時に腕にしっかりと覚えているあの死人の重さと冷たさが感覚としてこびりついている。忘れるはずもない。引き金の重さ、最期に笑ったあの表情。吐き出された息の血腥さ。何をとっても、忘れられないことであった。
 酒瓶は机の上に乗っているままであった。夢か幻か。引きずっているのは、自分もまた同じだ。
 マルコは机の引き出しを引いた。あれ以来、一度も使っていなかった。と、いうよりも使わない引き出しを選んでそれを押し込んでいた。血に汚れた銃。付着した血液のあたりから錆が走っており、整備しても使えるかどうかは定かではなかった。未練たらしく、友人の最期を預かったこの銃を持っているのは、なんとも情けない話である。人のことを言えない。瞼の上に手を乗せ、背もたれに強くもたれかかった。全体重をかける。ぎ、と椅子が軋んだ。
 マルコ、と男はよく笑っていた。ミトが小さい頃はよくよく悪戯の対象にされ、二人して、あの小さな子供を追いかけまわすことなど両の指では足りない程にあった。自身の船を失い、この船に乗ってから暫くはぼんやりとし、笑顔のない背中だったが、時が経つにつれ、彼にとっての家族はこの船になった。二人で一緒に敵船に乗り込んだこともあった。背中を守りあったこともあった。
 駄目だ。マルコは眉間の皺を深くし、歯噛みした。ヴィグは死んだのである。いくらミトでも見間違うこともある。否、見間違うことなどない。どちらかもうすでに、マルコには分からなくなっていた。ただ、もしも、仮にヴィグが生きていたとして、それならば何故自分たちの船に戻ってきてくれないのかと恨めしく思う。自分のせいかと開けられた引き出しの中に転がる錆びてしまった銃を眺めて、マルコはその考えを頭にした。
 自分を殺した男の顔など見たくもないか。
 たとえそれが本人が望み、ごめんと謝られ、有難うと感謝されたことであっても。仮に生きているとしたならば、恨んでいてもおかしくはない。ヴィグはそんな男ではないと、そう考えが先の思考を打ち消すが、それでも考えてしまうのである。あの時引き金を引かなければ、あの時他の手段を講じていれば、あの時もう少しだけ引き金を引くのを待っていれば。ひょっとしたら、ヴィグは殺さずとも済んだのではないかと。
 全ては仮定の話に過ぎない。
 そして、その行為に至ったのは、ヴィグがこれ以上苦しまぬようにと、そして。うっすらとはあったのだ。これ以上自分の親友が無為に苦しむ姿を自分が見たくないという、あくまでも利己的な考え方が。否定できないその感情は心の底に今でもこびりついて離れない。それはまるで、銃についている錆のようであった。
 マルコは酒瓶の首を手につかみ、酒を喉にまた落とす。ぐびりぐびりと、酒は喉を焼き腹を焼いた。苦しい。
「おめぇ、おれをうらんでるか」
 助けられなかったおれを。気付けなかったおれを。友の心の喪失にすら、気付いてやれなかった自分を。もう少し早く気付いてやれたなら。もう少し、ほんの一瞬。刹那。首を振るう。なんてばかばかしい考えだと。答える声が既にないものなのはマルコも知っていた。ふっと天井を仰ぐのをやめ、太腿のあたりに目を落とす。
 この年になって、酒で寝ちまったら風邪ひくよな。そう、ベッドの毛布を投げた。
 喪ったのは己の過失のせいなのか、それともあいつの過失のせいなのか。しかし思う。自分の過失であると。しかし同時に、責めたところでヴィグが喜びもしないことは知っているし、先に行けよと背中を押すような男であることはマルコ自身が一番よくよく知っていた。
 酒を飲もうと逆さにしたが、中身はすでに飲み切っていた。椅子から立ち上がり、乱雑にシーツに皺が寄っているベッドに正面からダイブする。もふりと視界を一瞬白いシーツが覆ったが、それはゆるやかに木の板の光景に変わった。
 ヴィグは自分を恨んではない。そう思う。思うが、ミトが見た相手が見間違いでなく本当にヴィグならば、やはり会いに来ないのは自分を恨んでいるからではないかと思う。死人を追いかけるのはやめろ。くとマルコは口を歪めた。それはただ、自分のための言葉に他ならない。探したくないのだ。ヴィグが生きているという真実を。ただ強く記憶に残っているのは、あの体の冷たさと重さだけで、時折ひどく不安になる。本当にヴィグは有難うと自分に言ったのか、すまないと自分に言ったのか。単に、ひょっとすると、自分にとって都合のいいように記憶を改竄しているだけではないのかと。
 ベッド下に空き瓶が転がる。体を一転させて、天井を見上げた。あまりにも、天井は高かった。

 

 吐き出したと息と共にその名を叫ぶ。腹の底から叫ぶ。野菜やら魚やらが沢山詰まった袋を両手に男は一人歩いていた。人気のない自然を感じさせる道に一人。ヴィグ。精一杯に叫んだ言葉に男は足を止めた。お前か、と唇が動いた。
「何度も言わせるな。おれはヴィグなんて名前じゃねぇ」
 振り返った男の顔はやはり、知っている男の顔であった。ミトは急加速から、急停止する。名前を読んだ時点である程度速度は落としていたので、急、というほどの急停止でもなかった。
 女はその双眸で男を見る。迷うことなく、曲げることなく、ただその姿を両の瞳に映し出した。見つめられるだけの行為に、男は居心地の悪さを感じたのか、視線を泳がせた。すぅと女は息を肺に吸い込む。一呼吸。会話を始めるには十分な量の呼気であった。
 言葉と共に、吸い込んだ息を吐き出す。
「ヴィグ。帰ろう、海へ」
「…訳の分からねぇこと言ってんじゃねぇよ。おれは、海賊なんてものは大嫌いだ。あんな人の命を何とも思わないゴミ屑になりたいとは思わない」
「嘘だ。お前は、そんなこと思ってない」
「勝手に押し付けんな。さっきから、人をしらねぇ名前で呼びやがって。いい加減にしろよ」
「お前こそいい加減にしろ!」
 強い剣幕で怒鳴られ、男はびくりと肌を震わせた。はっ、と女の肩が上下する。伸ばされた手が男の胸座を掴み、会った時のように地面に押さえつけた。男が持っていた袋から、食べ物が地面に転がり落ちる。見下ろす女の表情は、逆光で見えない。男は女を見上げていた。
「お前が、嘘をつく時の癖を、私が知らないとでも思ったか」
「ただその仕草をしただけで、癖だと決めつけンな」
 男は一切の淀みなく、女に向かってそう言い返した。けれども、女は男を見下ろしていた。胸座を掴む手の力は緩められない。
「私はお前だ」
「何を」
「お前は私だ。ヴィグ。失うのが、怖いんだ」
 くしゃり、と男の表情が初めて歪んだ。ミトに向けていた視線を逃がす。それを許すまいと、ミトは掴んでいた胸座にさらに力を込めて引き上げた。ごっと額がぶつかる。この距離で視線が合わないことはない。視線を相手に叩き込むようにして、ミトは押し倒している男を睨む。
「お前は二人も船長を失った。お前はマルコに殺された」
「殺されたんじゃネェ!」
 はっと叫んだ男は表情を強張らせた。しまった、とその顔に文字がかかれる。ミトは容赦なく続けた。だから、と。
「だから、お前は帰れないんだ」
 ヴィグ。
 呟かれた名前を、男は今度は否定しなかった。