海をあたう - 2/6

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 老人が淹れた茶を口に含み嚥下したのを視認してからクロコダイルは己に差し出された茶に口をつけた。いくら自然系でも毒に耐性があるとは限らない。出された茶に毒を入れられてコロリなど全く笑えもしない面白味の欠片もない冗談である。口に誘導した茶は、成程、大層とは言わないまでも、そこそこに旨い。あの馬鹿が淹れる茶とは全くの別物だなと、お世辞にもおいしいとは言えない茶しか淹れない女を思い出しながら、クロコダイルはこくとその茶を一口飲んだ。
 短剣を帯に差し直した男は老人に、夕飯の材料買ってくると一言添えて扉へと向かったが、その一歩手前で立ち止まると、クロコダイルへときつい視線を向ける。あからさまな敵意と不信のそれにクロコダイルはくっと口元を歪めた。かつて、この男のそんな表情は一度も記憶にない。年月を重ねれば人は変わるというが、しかし、予想もしない方向に変わったものである。ふとそこで、こうやって考えている時点で、扉の前に立つ男はヴィグであると確信している自分に気付かされ、クロコダイルはやはり薄く笑う。違っていたら、それもそれで笑えない話である。
「何もしねぇよ。よぼよぼのジジイなんざ片付けたところで自慢にもなりゃしねぇ」
「海賊の言葉なんざ信用できるか。爺さん、何かあったらすぐに電伝虫で連絡くれ」
「わかっとぉわい」
 心配性めと老人は笑い、茶を啜った。男はもう一睨みしてから、踵を返し扉から外へと移動すると、後ろ手に固い戸を閉めた。
 窓は開けられたまま、風はよく通る部屋であった。医者、という言葉の断片をくみ取りながら、クロコダイルはちらちらと相手の後ろに並ぶ薬品棚や、メスの類などを確認する。医者という言葉に嘘はないようであった。
 武器なんぞありゃせんよ、と医者を名乗った老人の声が響き、クロコダイルの耳に届く。老いぼれた男は零すような笑い方をしながら、ゆっくりと手の内にある湯呑の形を確かめるようにして回した。その所作に一瞬、目でも見えないのかと疑ったクロコダイルではあったが、男の瞳孔はものを見るように動いているのでそれもないだろうと結論付けた。
 男が出てから五分ほど経過し、老人はぬるくなった茶を再度飲み込むとどこから話そうかと切り出した。
「どこまでが本当で、どこからが嘘か。何故わしが嘘をついているのか、あの男が誰なのか…と、大体これくらいだろうかな」
「虚実にゃ興味はねぇよ」
「噂通りに無愛想な男だよ、元王下七武海サー・クロコダイル」
 名を知られていることにクロコダイルは大して驚きもしなかった。あの戦争にかかわった上、アラバスタ王国の一件は新聞にも大々的に掲載されたわけだから、むしろ新聞を読む年頃の人間が知らないことの方がおかしい。
 表情をぴくりとも動かさないクロコダイルに老人は先程と同じような笑い方をした。
「あの男はお察しの通り、白ひげ海賊団の一員だろうよ。折角シャボンディ諸島でコーティングをしてもらったのに、海の上から船首にぶつかられちゃね。死人なら放っておいたもんだが、それでも常人にはわからないほどには死んでいたから、まあ軽く死んでいたといっても問題はないが、医者としては手当てしないわけにもいくまい」
 別に医者だからと言って、他人の怪我人を助ける道理にはなるまいと思ったクロコダイルであったが、そこは口を挟まず、黙って男の言葉を続けさせた。
「わしはね、知っているかな。ドラム王国出身の医者なのさ」
「医療大国か。医者が王交代後に追放された」
「流石は。その通り。変わり者のばあさんと、じじいは残ったみたいだがね。後は王に迎合するものばかりさ」
 いつの間にやら昔話に変わりつつあるそれを、クロコダイルは一睨みして黙らせた。老人の茶うけ話に付き合うつもりは毛頭なかった。鋭い視線を感じ取ったのか、老人はいやすまんねと軽く笑う。それで、と話が続けられた。
「そんなわけで、わしは今この島にいるわけだが」
「人の質問に答える気がねぇのかあるのかどっちだ」
 質問の核心に欠片も触れてこない老人に多少の痺れを切らしながら、クロコダイルは苛立ちまぎれに問うた。眉間に溝が一つ多めに刻み込まれるのを老人は目にとって、茶柱の立っていない湯呑に目を落とす。その湯呑の表面が、老人の手首の動きに合わせて揺れた。
 老いた声が耳を叩く。
「今時期、あの刺青を遊びで入れるやつはいないだろう」
 老人の声は、ひどく沈んでいた。
 クロコダイルはそれもそうだろうなと自分の考えとようやく合致した部分に目を細めた。あの刺青を、白ひげのあのマークを今その身に刻むことには何の意味もない。世界最強の男として名高い海賊ではあったが、所詮過去の男である。尤も、それに未だ引きずられている自分も否めはしない。首を軽く振り、その考えを振り払い、現状の問題にクロコダイルは再度思考を働かせた。真似をするならば、麦わらの一味の真似でもした方が余程得というものである。今更。
 あの刺青に価値などない。
 ふん、とクロコダイルは小さく鼻を鳴らした。口寂しく、葉巻を取り出し口にくわえたが、目の前の老人の言葉を思い出し火だけはつけない。脅して聞くよりも、自分から話させた方が幾分楽というものである。媚び諂うつもりはないが、むやみやたらに喧しくするつもりもない。何事も頭を使って、最もスマートな方法で事を成就させるのが望ましい形であろう。
 加えた葉巻から煙は当然でなかった。
 クロコダイルが口にした言葉に老人は、そうだろうよと返事をした。大層短い返事である。
「話は変わるが、あんたの聞きたいことだがね。あの男はここで目覚めた時から、かつての記憶を失っている、ようだった」
「なんで確定じゃねぇんだ。記憶喪失なんだろう」
「手術は完璧さ。ただ、人の記憶、要は脳だがね、それは完全に解明されるに至ってはいない。銃弾は貫通していたけれど、場所がよかった。わしの腕をもってすれば後遺症もない」
「記憶障害は後遺症じゃねぇのか」
「記憶障害なんてものは、所詮は自己申告に過ぎないのさ」
「つまり」
「本当に記憶障害なのかどうかは本人にしかわからない、ということかな。時に人の演技は機械ですら騙しとおす。嘘を見破れる悪魔の実でもあれば話は別だけれども」
 そういって、老人はようやくクロコダイルの前に何処からともなく灰皿を押し出した。こつんと古びた煙管がその上に灰を落とす。葉巻は嫌いではなかったのか、と老人を見れば、ふふと笑い、煙管にマッチで火をつけ、ふかした。
「体に悪いから良くないんだが。あれだな、咥えられているのを見るとどうにも吸いたくなる。火が付いたらもう駄目だ」
 ふぅと老人の口から細い煙が流れるように視界に移る。大気の上をまるで糸のようにそれは這っていった。我慢してやるのも馬鹿らしく、クロコダイルも葉巻に火をつけ、紫煙をふかせた。部屋は一瞬で煙で満ちたが、開けられた窓からその煙はすいとあっという間に逃げていく。部屋の壁に匂いが多少しみつくであろうが、それは知ったことではないと、深く、クロコダイルは葉巻を吸った。
 互いに煙をまといながら、老人と男は話を続けた。
「彼は記憶喪失だと症状からは判断できた。だから、名前と取り敢えずの住む場所を与えた。そして、彼はそれを享受しているんだね」
「メリットは」
「白ひげ海賊団であるという過去を捨てたい、というとこをわしなら推測するね。白ひげが死んで白ひげ海賊団に対する他の海賊団、世間の目もいいもんじゃぁない。白ひげのかつてのシマがやられているのはあんたも知っていることだろう。傷が完治するまでの嘘なのかということも含めて、わしは彼を預かるつもりでいたんだが」
「完治しても出ていく様子は一切ねぇ、と」
「そういうことじゃな。まぁ、本当に記憶喪失である場合も考えられるが」
 それはどうせ本人のみぞ知る。老人はそう括って、煙管の煙をふかした。天井までたどり着くと、その煙はやはり窓へと逃げて行った。
 見間違うはずはないのだ、とクロコダイルは思う。仮に自分が見間違えていたとしても、ミトが、あの女が彼女のかつての(否、今もそうである)家族を見間違えるはずがない。そんなことは、ありえない。白ひげ海賊団の刺青はこの際放っておいてもよい。今回論点にすべきは、あの男が記憶喪失かそうでないかだけである。あの男はヴィグ本人である。クロコダイルはそう確信した。正しくは、そうとしか考えられないのである。他の選択肢などない。
 演技であるとするならば、相当の演技力である。余程ばれたくないのか、それとも。
 もしそうであった場合、あの女はどうするのかとクロコダイルは葉巻から流れる煙の行方を目で追いながら考える。礼も言わずに席を立つ。老人はやはり何も言わずに煙管をふかしていた。あの男の姿が見えれば、おそらくその煙管を叩いて消し、戸棚に戻すのだろう。開けられた窓から流れる煙で、部屋はおそらく綺麗な空気に入れ替わり煙管を吸ったということで、男が渋い顔をすることもなくなる。
 もう一度失うのか。そういうことになるのだろうか。記憶を持たない者は、本人であって本人でないのと同意義である。
 歩きながら葉巻を吸えば、進行方向とは真逆の方向、背中に煙は流れて行った。時折、ぽんと腹を叩いて灰を落として歩く。それに、あの女は耐えられるのだろうかと思う。こればかりは、支えてやるといったところでどうにもならない。死んだものだと考えたところで、生きている体はそこにあるわけだから、いつまでも人は期待してしまうものである。そして、その所作が異なる度に、その人物が自分の知っている対象でないことを悉く思い知らされる。辛いだけである。
 とっとと次の島に行ってしまおうかと、憎たらしいほどに晴れている空を見上げて思う。しかし同時に、それではあの女が納得しないこともクロコダイルには十分分かっていた。私の問題だと跳ねつけて、ならば先に行けと言うことだろう。あの悪い癖は、否、この場合は確かに自分は無関係であり、居たところで然程の意味も持たないので、悪い癖の一部でもないだろう。結局のところ、どう足掻いても、この問題を片付けない限りは、先に進めそうにもない。幸い、この島のログはたまるのにそこそこの時間もかかる。
 クロコダイルは革靴が柔らかな青草を踏みつけている足元を見下ろした。青々しい緑が、黒ににじられている。目を細めてよく見れば、蟻やらなにやら、虫が地面を這っていた。ここは、あまり人工的な香りはしない。だがしかし、どこかでクロコダイルはかつて根城にしていた、あのアラバスタの砂を懐かしく思った。砂漠はいいものである。砂である己の体によくよく馴染む。あの乾いた風は心地よい。しっとりと湿り気を帯びた海の風は。
 それでも、
 それでも、その海を恋うてしまうのは、自分が海賊に他ならないからだろうとクロコダイルは思い直す。砂漠は好きだ。しかし、海は愛しい。悪魔の実を食らい、海に如何に嫌われようとも、やはり海が良いのである。溺れ死のうとも。砂漠の砂嵐に巻き込まれている瞬間よりも。潮風が頬をなで、肌を湿らせる。乾けば少し塩が浮くかもしれない。葉巻の香りよりも、潮の匂いの方がより強い。しかしそれは、噎せ返るような気持ちの悪さではなく、力を抜く心地よさである。
 海はいいだろうと常から笑う女の顔を思い出す。穏やかに笑っていればそれでいいのに、何故こうも不都合ばかりが起こるのか。クロコダイルは悩んでも仕方ないことで頭を悩ませた。
 覚えているならば何故言ってやらないのか。何故応えてやらないのか。あんなに大きな子供が泣いている。
 音にはならぬ、海の鳴き声にクロコダイルは顔を顰め、葉巻を地面に放った。靴底で地面になすりつけて火を完全に消す。
「馬鹿野郎」
 久しく言わなくなった言葉を、クロコダイルは口に零した。

 

 こつこつと横を歩いて付いてくる大男にミトは顔を顰めた。目に痛い程の桃色は、視界の端にでも十分に目立つ。
「どこまで付いて来る気だ」
「どこまでって、おれの宿まで」
 ドフラミンゴが笑って言った言葉に、どうにも嫌な予感をミトは覚えた。そしてその予感は見事に的中する。
 自分の宿屋の階段を上がり、泊まっている部屋のドアノブに鍵を差し込んで。それでもまだ隣に居座り続けるドフラミンゴへとミトは視線を上げ注いだ。
「…おい」
「なんだ?」
 屈託なくまるで子供のような笑みを見せた、もう四十にも届く男を見上げ、ミトは眉間に皺をきつく寄せた。尤も、そんな感情を顔に乗せたところで、眼前のドンキホーテ・ドフラミンゴという男には全く効果などありはしない。ただただ、天井にも届きそうなその高身長がフフフと揺れるだけであった。
 鍵を差し込んだまま、ミトは口をへの字に曲げる。そして、子供に諭すように言葉を紡いだ。
「いい加減にしないか。私はお前の相手をしている暇はない」
「別にいいじゃねぇか。邪魔なんてしねぇよ」
「私が嫌だ。ほら、帰れ」
 素気無い言葉を耳にしつつ、ドフラミンゴはただただ笑うばかりである。無視をして部屋に入ってしまおうと、ミトは鍵を回し、ドアを開けて中に一歩入る。だがしかし、その背中にぴったりと沿うようにコートが押し付けられ、流石に不愉快気な色を見せた。声にもそれが顕著に表れれる。棘が増えた。
「ドフラミンゴ。水掛け論をしている暇はない。私にはやらなきゃならんことがあるんだ。遊んでほしいなら、クロコダイルが帰ってからそうしてもらえ」
「おいおい、おれは男とねんごろする趣味はねぇよ」
「良かったな、生憎あいつにもそんな趣味はない。だがまぁ、酒くらいは付き合ってくれるんじゃないのか」
「どうだか」
 追い返されるのが関の山だと両手を広げ、ドフラミンゴは部屋の主を押しのけて、制止も空しく入り込んだ。海兵時代から、この男のこういう無頓着というべきか、ぬらりひょんの生まれ変わりかと疑わんばかりの態度には毎度のこと嫌気がさす。ミトは米神を押さえ、そしてとうとう根を上げた。構っている暇など、ありはしないのだ。
 ヴィグ。
 ヴィグ。
 頭を占めるのはそればかりである。体は言っているのだ。こいつはヴィグだと。しかし頭は言うのだ。ヴィグは死んだのだと。
 一つ息を吐いて、ミトは部屋にある電伝虫の受話器を取った。番号を回し、相手が受話器を取るのを待つ。隣で、ドフラミンゴがやいのやいの騒ぎつつ、ベッドにとうとう腰を下ろしていたが、そんなことは既にミトにとっては大層どうでもいいことになってしまっていた。事実、気にすることではなかった。
 受話器が取られる。マルコ、とミトは相手の名を呼んだ。受話器の向こうからは元気そうな声が名前を呼ぶそれと共に返された。
『どうしたよい。おめぇが電伝虫使うなんざ珍しいじゃねぇか』
「マルコ」
 喉元でどうにも言葉が詰まる。それをマルコに問うということは、マルコを疑うということである。そして、親友を手にかけざるを得なかった男に、それをまた思い出させるということでもある。唾をのんだ。ひとつ息を吸い込み、そして吐き出す。
 確認しなくてはならないことは、ミトにも十分に分かっていた。唇を噛み、空きすぎている程に空いている間をいい加減に終わらせるべく、言葉を探す。否、発すべき言葉も問いかけも見つかっているのだが、それを口にするだけの一歩がない。ごくと生唾を飲む音だけが、非常に喧しく頭の中に響いた。
 初めの一文字を口にするだけで、こうも体が強張る。受話器を置こうと一瞬迷ったが、ミトはその言葉を舌に乗せた。
「ヴィグは、死んだのか」
 受話器の向こうで一瞬空気が凍る。返答はない。まるで一瞬が一生のように感じられる時間の経過の終わりを、受話器向こうの声でミトは知った。
 静かな、しかし、どこか陰りを感じさせる声であった。仕方のないことでもある。明るい話題では断じてない。淡々とした口調でマルコは語る。
『…肺に、穴が開いててな。その時の設備じゃどうにもならなかった。それ以上は、ただ無意味に苦しみを長引かせるだけだった。頭を撃った。血が、沢山出た。海に流した。死後硬直も始まってたんだ。生きているはずは…ねぇ、よい』
「もしも、仮に海に流した直後に誰かがヴィグを拾って的確な処置をしたなら」
『…ミト。気持ちはわかるが、ヴィグは死んだんだ。それは、おめぇも納得したことじゃねぇか。死んでいる人間を生きているものとして追いかけてどうする』
「違う!」
 怒鳴りつけた声に、受話器向こうが一瞬固まる。違う、とミトは繰り返した。
「生きてるかもしれない。私は、私が」
 私が、
 言葉にする度、それは確信へと姿を変える。疑いが、事実へと現実へと移り変わっていった。
「あいつを、見間違うはずが」
 ヴィグを、私の家族を。何度も何度も、捨てた心で求めたそれを。
「ないんだ」
『ミト』
 頬に生暖かい液体が流れた。電伝虫の上に滴が落ちる。泣いていた。泣いているんだとミトは理解した。声がぶれる。
「生きているんだ。私が間違えるはずはないんだ。間違えたりなんかしない。マルコ、お前がオヤジを他の誰かと間違えないように、私がヴィグを見間違えることなんてありえないんだ」
 その確証はいったいどこから来るというのか、ミト本人にもそれは理解の範疇を超えていた。しかしそれでも、間違えるはずがないと確信している。間違えるわけがないと知っている。自分に確信させるように、ミトは言葉を吐き出した。背後のベッドにドフラミンゴが座っていることなぞ、とうの昔に頭から吹き飛んでいた。
「他の誰を間違えても、私の家族を、かつての仲間を、船長と共に航海したあの日々の仲間を、私は間違ったりしない。マルコ、ヴィグは」
『死んだ』
 そこで意識はぷっつりと寸断される。非情だが、現実の言葉が突き付けられる。
「マルコ」
『…ミト、おめぇの思いも願いも分かる。おれには、それがよく分かる。生きていれば、死んだなんて嘘だと、そうやって言葉を重ねて思いを重ねて、それが現実であればいいと思い込む。だがな、ヴィグは死んだんだよい。おれが、この手で最期を預かった。冷たく固くなっていく体を、海に沈めたのは、おれだ』
「違う。マルコ。生きているんだ。本当だ。死んでない」
『どうして!』
 初めて声が荒げられ、ミトは話すのを止める。すまねぇ、と受話器が謝る。
『…頼む、ミト。止めてくれ。ヴィグは、おれが殺したんだ。引き金を引いたのは、おれだ。最後の灯を吹き消したのは、おれなんだ。忘れたたぁ言わねぇが、おれぁ最近ようやっとあいつの名前をふいに呼ぶことがなくなったんだよい。死人を追いかけるのは、ミト、やめにしねぇか』
「…マルコ」
『怒鳴って悪かった。ちょいと気分が悪い。すまねぇが、切るよい』
 マルコ、ともう一度名前を呼ぶ前に電話が切られた。音が聞こえなくなる。
 ミトは放心したような状態で、受話器を電伝虫の上に置く。ドフラミンゴは大層居座りの悪そうな表情で、なぁ、と声をかけたが、ミトはそれを無視する。正しくは、その声など耳に入ってきてはいなかった。受話器に触れる手は、まるで氷のように冷たくなっていた。
 頭の中ではマルコの言葉がぐるぐると蠅のようにまわり続ける。ヴィグは死んだのだと、生きてはいないのだと。あいつは死人だと。目の前の現実がまるで幻のように語られる。どちらが夢か現か、その境界線が合い混ざり、足元がひどくふらついたように感じた。吐き出した息は礫のように床に落ちる。
「おい」
 ドフラミンゴを一から十まで無視して、ミトはベッドにもぐりこんだ。両手で耳を塞ぎ、まるで芋虫のようにくるりとまるまって、すっぽりとその体をシーツの中に入れる。白い山が一つ出来上がった。状況が全く飲み込めないドフラミンゴはただただ首を傾げ、目の前にできた山を大きな掌でポンポンと叩く。
「おい」
 返事はなく、反応もまたない。
 もう一度声をかけたが、相変わらずで、ドフラミンゴは面白くねぇと呟いて胡坐をかくと、その上に肘をつき顎を乗せた。

 

 受話器を切ったその背後で、どうした、とイゾウが声をかける。声をかけられた男は、なんでもねぇよいと言葉を短くして、それ以上の会話を拒絶した。
 ひどく顔色の悪い男と、受話器を交互に眺めて、イゾウは首を傾け、怪訝そうな顔をする。しかしながら、その電話の内容が一体何であったのかなど、全く分かりはしなかった。ただ、イゾウが知ったのは、電話越しに怒鳴ることなど滅多に、というよりも全くないマルコがそれをしたことと、ひどく具合が悪そうなのと、それから、大層つらそうな表情だけであった。
 かり、と首筋をかき、息をつく。落ちた溜息は海に拾われた。