彼女について

 寂しそうな背中がポツリ。目を見せない深みのあるサングラスに映し出された。ドンキホーテ・ドフラミンゴは海軍帽子を坊主頭に被り、正義の二文字を背中に流している男に、口に笑いを含めつつ、歩み寄った。爪先の反り上がった靴が、男の大きさに反して軽い音を立てていく。音を立てて歩いているというのに、男は背後を振り返らない。男は背中からかかったドフラミンゴの影に埋め尽くされた。
「よお。意気消沈だな」
 傷口をひっかくようにドフラミンゴはそう、声を掛ける。男はただ広大に広がる海を眺めたまま何の反応も示さない。ざ、と一つ海風が吹き、潮の香りを体の中へと吹き込んだ。
 ドフラミンゴが執心している元准将の部下であった男は微動だにせず、ただただ茫然自失として海の色を眺めていた。唇が合わさっただけの口からは声も息も零れない。吹いた潮風は肌の上だけをなぞり、ドフラミンゴの風を食べてしまう羽毛のコートに呑み込まれた。
「おい」
 聞いてんのか、とドフラミンゴは男の背中を蹴りつける。軽く蹴っただけなのに、男はふらついて海へとその体を投げ出した。そんな覇気のない男はドフラミンゴは、彼女が海軍に在籍していた時にも記憶になかった。水飛沫が下で立つ。泡がぼこぼこと弾けては浮かび弾けては浮かびを繰り返し、黒く濡れたスーツが海面に現れた。帽子もコートも身に着けたまま、海に蹴り落とされた男は無言で元いた場所まで這い上がり、ごろりと力なく空を仰いで寝転がった。
 陰で薄暗くなったピンク色を男は視界に広げていた。サングラスの二つの色の中に、まるで鏡のようにそれは自身を映し出しており、それに映っている情けない顔をした男を見、眉尻を下げて口角をゆるりと皮肉気に持ち上げた。
「何か御用ですか」
 男の口からようやく発された言葉に、ドフラミンゴはお、と眉を上げる。
「大佐は、もういませんよ」
「そりゃあ知ってる。なにしろ、ココにはいねえもんなあ」
 意味深な笑みを顔一杯に広げ、ドフラミンゴは海水に濡れてしまった男を見下ろす。反り返った靴の間に男の小さな頭を挟み入れる。
「どういう意味かお聞きしても」
「今じゃあ、おれの可愛い子猫チャンだ」
 男の目が大きく見開かれた。驚愕に瞳は彩られている。ポーカーフェイスと皮肉が売りだったのに、随分こいつも変わったなと思いつつ、ドフラミンゴは、ああそうさ、と続けた。
「ベッドの上で、大人しくおれの帰りを待ってんだ」
 見開かれた目がぱちぱちと瞬きをする。男にしては眺めの睫毛から海水が粒になって弾けた。そして、は。ドフラミンゴは男の反応に反対にサングラスの下で目を丸くした。
 男は、笑っていた。ずぶ濡れになったスーツの下の腹筋を動かし、喉を曝け出して盛大に笑っていた。ははは。は、はは。白く並びの良い歯が開けられた口の中に覗いた。余程笑いを堪えていたのか、男の笑いは暫く続いた。しかし、耳障りな音はドフラミンゴも聞くに堪えず、とうとう男の耳元すれすれに足を踏み下ろした。顔面を踏み砕いても良かったのだが、男がトチ狂ったように笑う理由を知りたくて、それは堪えた。
 不機嫌さを隠しもしないドフラミンゴの顔を男は下から見上げて、ふ、と最後にもう一度吹き出した。
「何がおかしい」
「何が、と聞かれますか。ドフラミンゴ様」
 七武海故に敬語を使われていたが、どうにもいい気分はしなかった。ドフラミンゴは、寝転がっている男の言葉を待つ。地面には男の服が一度は吸い込んだ海水がじっとりと広がっていっていた。
「あなたが、おかしい」
「何?」
「そして、おれはあの人が生きていて下さって嬉しい。釘を刺しておきましょう。あの人は、あなたの、ではなく、おれたちの大佐です。おっと、昇進はされていますし、准将です」
「今更海軍に戻れるとでも、思ってンのか?」
 サングラスの下で目を細め、額に青筋が立つ。不可能だと笑えるようなドフラミンゴの言葉を、男は真顔で受け止めた。
「戻る戻らないは重要ではありません。おれの上官です、おれにはあの人から全てを聞く権利がある」
「…あいつの口から出るのは、ワニ野郎のことだけだぜ?」
「ほら、やはりあなたのものではない」
 つい口を突いて出た言葉をすくい取られ、ドフラミンゴは口をへの字に曲げた。悔し紛れに出てきた言葉はひどく情けなく感じられたが、男はそれに至極丁寧に返答した。
「欲しいのかよ」
「欲しい?おれにとって、あの人は女性でもなければ男性でもありません。上官です。おれが、あの人の正義に付いて行くと決めたんです。置いて行かれたので追いかけていると、それだけです。おれはあの人の部下です。あの人がそれをいくら否定したところで、おれが否定しない限り、そうあり続けます」
 そう言い切ると、男は寝かせていた上半身を持ち上げ、水にずしりと濡れたコートの袖を絞った。帽子も軽く絞り、また頭に被る。
 おれは、とか細く視線を合わせない男が続けた。
「あの人の部下で、いたい」
 それで、と試すようにドフラミンゴは舌を口の中で動かした。
 男はコートの水を叩いて払っていたが、当然繊維の隙間までしみこんだ海水はその程度で取れることもなく、男の両肩にずしりと重たく乗った。しかし、それくらいで丁度良いと男は口角を小さく持ち上げる。
 目に痛い蛍光色を丸く抱え、ピンクの男は空を飛んでいた鳥を腕を大きく伸ばして捕まえると、その羽をむしり取った。カモメの白い羽が痛々しく石畳に散らされ、海水を吸っているそれに汚くへばりついた。正義を纏い直した男は立ち上がり、大きな身長差から生じる視線の位置を顔を持ち上げることで補った。
「羽をもいだおつもりですか?生憎ですが、おれが知る大佐は羽をもがれた程度で飛べなくなるような弱い人ではありません。あの人は強い。籠に閉じ込めたって無駄ですよ。籠なんて何の意味も持たない。鎖で雁字搦めにしたところで、どうせ全部引き千切って、それどころか武器にして反撃されます。そういう人です」
「知ったような口ききやがって。てめえが一体あいつの何を知ってンだ?ワニ野郎程関係が深いワケでもねえくせに」
 額に青筋を立てた海賊に威圧感をふりまかれたが、男が表情の色を変えることは一切なかった。二つの揺れない双眸は、ただただドフラミンゴのサングラスに映し出されている。そのサングラスの中に映っている男の目にはまた、自分の姿が映っており、その顔は到底優位に立っているものとは言えず、ドフラミンゴは気分を悪くした。胸の中にわだかまりがぼつんと残る。
 猫背をさらに悪くし、ドフラミンゴは震えもせずに真正面から自分を見上げてくる男との距離を縮めた。この男のこういうところは、あの女のようだとドフラミンゴはそのように思う。
 そして男はドフラミンゴの問い掛けに答えた。絞り切れていない衣服から海水が滴り落ちた。
「海兵としての大佐を、おれは誰よりもよく知っています。悔しい程に真っ直ぐな正義を負っていたその背を、おれは覚えています。厳しかったけれども、それらは全ておれたちのためであったことも知っています。嘘を決して吐かなかった大佐をおれは知っています。海賊が好きだと言っても、海軍を好きだとは言わなかった大佐を覚えています。少なくとも、女でなかった大佐を女としてしか見られなかったあなたよりは、おれはあの人を知っています」
 人である前に女である前に、あの人はただ一人の海兵だった。
 男はそう覚えていた。正義を負ったその背は広く逞しかった。そして目が離せなかった。それを、男は今でもなお鮮明に記憶しているし、思い出すことができた。
 ドフラミンゴははっきりと言い切った男へとサングラスの内で目を細める。
「そこまで分かっているなら、おめえのそれは、無意味じゃねえか?」
「無意味かそうでないかはおれが決めることです」
「フフ、フッ!それで全てを否定されればどうする?」
 ぷつり、とドフラミンゴのその言葉で男は即座に言い返していた言葉を途端に止めた。一瞬の沈黙の空間が生じ、ドフラミンゴは口元を大きく笑わせた。正しくは、笑わせようとした。自身へと向けられている瞳にはやはり一切の迷いがない。
 男の喉仏が上下に動いた。
「今のおれの行動が仮に全て否定されたとしても、大佐がおれたちと一緒に海軍にいて、あの人が海兵であったことは否定のしようもない事実です。おれたちが知る大佐が背負っておられた正義は、紛れもなくおれが憧れた二文字です。これから先は変えられたとしても、過去は変えようがないのですよ。ドンキホーテ・ドフラミンゴ様」
 ああいえばこういう口達者な男を忌々しくねめつけながら、ドフラミンゴは近づけていた顔を遠ざけた。不愉快であった。男の言葉は全て、今現在楔に繋がれている女を表している事実を否定することはできなかった。
 全ての自由を根こそぎ奪い、頑丈な檻に閉じ込め、心すらも圧し折って自分のものにしようとしているのに、何もかもが無意味なものにふと思えた。あの女がそれに屈することはないことを薄々感じとっていながらも、小さな一縷の望みを失えずにいた。
 力と権力と金で奪えないものをドフラミンゴは知らない。信念も矜持すらも、圧倒的な暴力と屈辱の前ではたやすく折れる様を飽きるほどに見てきた。あれだけ海を暴れ狂ってきた海賊も、天竜人の奴隷になってしまえば、人間としての尊厳を奪われ、心も何もかも疲れ果て、一「非人間」になっていく光景を、見慣れていた。自分が生き残るためならば、容赦なく子供を殺す大人も、その反対も、人のために人を売る人間の本質をこれでもかというほどに、ドフラミンゴは知っている。
 憧れていたのか。
 ドフラミンゴはふとそんな思いに駆られる。
 自分に屈して口を開けば「ドフラミンゴ様」と口にするあの女を自分は見たいのだろうかと言葉を失う。自分の機嫌を取るために腰を振り、女をひけらかすあの女を見たいのかと、首を傾げる。そうなってしまった彼女はすでにあの女ではないと、そう思う。そして、ドフラミンゴはサングラスの奥で、茫然とした。
 ああ。
 そうなのか、と。
 そして、ドフラミンゴは弾けたように笑った。フフフ、フッフッフ!ハハハ!馬鹿にするような嘲笑は細波の音にまぎれる。男は突然発された声に始めの一音だけに体を震わせたものの、それから以降は、ただ笑う男を眺めているだけであった。笑いから始まった会話は、笑いで終わってしまう。
「だがもう、どうでもいいだろう?」
 最後の男の言葉とドフラミンゴの言葉は一切繋がってはいなかったが、男にはピンク色の男が一体何を言いたいのかが分かった。眼前の男が、どういう性質で性格の男か、よく知っていた。
「今更、何も変わりゃしねえ」
「…何も変わらないのは、何もしないからでは?」
 同情のように男の口から零れた言葉に、ドフラミンゴは大きな手で男の顎を砕こうとばかりに掴む。痛みはあるのか、男の眉間にきつい皺が寄せられたが、抵抗はなかった。
 フッフと噛み合わせた歯の隙間から笑いとも呼べる声があふれる。
「下手なことを口にしてんじゃねえよ。庇ってくれる大佐はもういないぜ?」
 返答をドフラミンゴが求めていないのは、顎を掴む力の強さで男は理解した。空いているもう片方の手で、顔に掛けてあるサングラスの位置をずらす。
 癪に障る、目障りな男である。顎を砕いて、しゃべれなくしてやろう。
 力をさらに込めた掌の中で、みぢ、と骨が悲鳴を上げたのを、指先でドフラミンゴは感じ取った。笑みを深める。ばたり、と宙をさまよった足がぶらついた。
「およし」
 しかしドフラミンゴは、そのたった一声で顎を掴んでいた手を放した。顎を放された男は空をかいていた両足を地面へと戻し、強く咳込む。痛みをいまだ伴う顎を手のひらで抑えた。
 一方ドフラミンゴはぐるりと首を回し、老いた海兵の顔を納得がいかないという風に見る。
「おつるさん」
「ギック、スモーカーが探していたよ。あんまりうろうろするんじゃあない」
「…中将殿、お手数をお掛け致しました。失礼します」
 掌を見せない敬礼をきっちりとこなし、男は踵を返してその場を後にした。大きな男と、男に比べれば小柄な老婆が取り残される。羽を引きちぎられたカモメを一瞥し、つるは深く溜息を吐いた。
「命は、お前の玩具じゃないんだよ。ドフラミンゴ」
「…そりゃ、おれに対する皮肉かい?おつるさん」
 フフと自然と音を零し、ドフラミンゴは肩を竦めた。サングラス奥の瞳をつるは、覗き見るような不躾な真似をせず、ただただ眉を下げて静かに息を吐き出した。疲れ果てた老兵がそこに一人立っていた。
 老婆と40を目前にした男は互いに向き合い、そこに数秒の無言を開けて立つ。口をついて先に言葉を発したのは大柄な天井まで伸びそうな身長の大男であった。
「そうは言っても、おれは他の愛し方を知らねえのさ。考えてもみてくれよ、おつるさん。普通の女が欲しがるようなもんはおれぁ全部与えようとしてきたぜ?宥めて賺して、らしくもなく優しい男を演じてきた」
 男にしてみれば、今までのあれらは全て優しい男の体現だったのだろうかとつるは軽く皺を顔に刻んだ。それがそうならば、彼の優しという定義は随分と人からずれていると言って間違いがない。
 唇を引き結んで言葉を返さなかったつるに、ドフラミンゴはそうだろう?と疑問形で、まるでものを知らぬ子供のように問いかける。
「おれぁ随分、おれにしちゃあそれこそ天地がひっくり返りそうなくらいには優しく接したんだ。どこにも閉じ込めなかったし、手足の骨を圧し折るような真似もしなかった。薬漬けでトチ狂わせもしなかったし、あいつの他の全てを奪うこともしてない。おれにはあいつが一体何が不満なのか分かりゃしねえ」
 ずらずらと疑問と自身の意見を述べたドフラミンゴは首を傾げて見せた。
 つるには初めて、ドフラミンゴが道化のように見えた。派手な化粧を施したその顔が、途方に暮れた子供にしか見えなかった。す、と小さく息を吸い込み、つるはドフラミンゴを見上げてサングラス奥の目と視線を合わせる。
「あたしがお前に与えられる答えは何一つないよ。その答えはあの子しか知らない」
「あいつがおれに教えると思うか?」
「どうだろうね。そんなことはあたしにだって分からない。それでも、今お前が籠に鳥を押し込めていることが、鳥が囀らない理由の一つだっていうことは分かるよ」
 そりゃあ無理だ。
 ドフラミンゴはつるの言葉に即答した。差し出された両手は大きく、しかし何も掴んでいない掌が上へと向けられていた。指先に零れていた鳥の白い羽が床へと踊りながら落ちていく。手から逃れたカモメは右へ左へふらふらとしながらも、開けた空へと逃げて行った。つまりはそう言うことである。
 ピンク色のコートを大きく揺らし、男は年老いた女を見下ろしたまま、話の続きをした。
「籠を開けりゃ、逃げちまう。籠に嫌気がさした鳥をもう一度押し込むのは苦労するんだ。今回だってひでえ苦労をしんだぜ?おつるさんおつるさん、念願かなって手に入れたモンをわざわざあんたは手放すのかい」
「籠の中で鳥が死ぬのを見たくないからね」
「死にゃしねえよ。それはない」
 即座に断言したドフラミンゴにつるは片眉を持ち上げる。男の口角は悦に浸って持ち上がっていた。しかし、一時は持ち上げられていた口元も、すぐに力なく下げられる。
「おれの所で死ぬつもりなんざ、ねえだろうよ。あいつには」
 自分でその事実を口にして、男は心底忌々しげに舌打ちをした。
「だから、おれぁあいつを安心して閉じ込めておける。おれが帰ってくれば、あの女は決まって軽蔑の視線と言葉をおれに投げつけるけれど、そんなモンはいつかなくなるだろう?諦めと絶望を骨の髄まで教え込んで、おれントコにいるしかねえって、お前の場所はここにしかねえんだと」
 実現不可能な事柄を口にしながら、ドフラミンゴはひどく虚しくなり、言葉を尻すぼみさせていった。
 普段であれば上機嫌で三日月を描いているその口は唇を閉じられ、白い歯が見えることはない。猫背で前かがみになった体は、どこか寂しさを感じさせる。ドフラミンゴは、ぼつと心の底辺に澱んでいる思いを老兵の前に落とした。
 ワニ野郎の場所が、欲しいだけなんだ。
 それは、大きすぎる独占欲の中に紛れ込んだ小さな良心である。それを恋心と呼ぶのか、羨望と呼ぶのかは、本人にしか分からない。
 ドフラミンゴ、とつるは小さくその名前を呼んだ。サングラスの内側で眼球が動いたのをつるは感じ取る。
「何もかもが手に入れようとするのは、ドフラミンゴ、いつか全部を失うよ」
 年を経た女の諫言をドフラミンゴは笑い飛ばした。フフフハハハフフフフフフ。男特有の笑い声が水面に混じり海に溶け込んでいく。つるは、ただただ何を言うこともなく、男を見上げ、見ていた。
 一しきり笑って呼吸を落ち着かせた後、ドフラミンゴは両手で何かを掴むように指先を動かした。気道を通って弾けた声は、ぞぞとつるの背筋を気味悪く撫でながら駆け昇る。吐き出した息は、とてつもなく重い。
「だが、それしかねえだろう?おれは、全部欲しいんだ。一切合財何もかも。欲しいと思ったモンは手に入れなきゃ気が済まねえ。この、このおれが!手に入れられねえモンなんて、ねえはずだ。手に入れられるか、入れられねえかじゃねえのさ、おつるさん。手に入れるか、入れねえかのたったの二択さ。そしておれは手に入れる。そうだ、手に入れる」
「どんな方法を使っても、かい」
「そうさ」
「それなら、お前はあの子を手に入れられないね」
「何?」
 己に言い聞かせるように喉から零された言葉をつるは一刀両断した。手に入れられないよ、とつるは再度言葉を繰り返す。
「全部を欲しがるようなら、やはりお前には無理なのさ」
「少し、なんざ意味がねえだろう?なあおつるさん。おれは、全部がいいんだ」
「お前の望む全部が、手に入らないことを、お前が一番誰よりよく知っているんだろう?籠に閉じ込めた鳥は、一度でもお前に、囀ったかい」
 つるの言葉にドフラミンゴはだから、と両手を広げて眉を下げて見せた。困り果てたように喉を震わせる。
「どうすりゃいいか悩んでんじゃねえか。上質な水も餌も鳥籠も止まり木も。それなのに、籠に入れてるってそれだけであいつはおれを嫌ってくる」
「出してやりゃいいじゃないか」
「そしたら逃げるだろうが」
「どうして逃げるだなんて思うんだい」
「あいつはおれを嫌いだからさ。憎まれてこそいないが、嫌われちゃいるからな」
「自慢にもならないね」
 白い鳥が大きく翼を広げて視界の隅を飛んでいく。青い空と海に同じように消えていく鳥にドフラミンゴはそりゃそうだと頷いた。
「好かれる、なんてえのは、想像もつかねえな」
「普通にしてれば、あの子もそう嫌うことはないよ。あの子は、海賊が好きだったからね」
「おれも海賊なんだがな、おつるさん」
 フッフと笑い、ドフラミンゴはポケットに両手を突っ込む。丸く曲げた背に合わせて、覆っている羽毛がふわと風を食べて揺れた。
 ドフラミンゴの言葉につるはようやく穏やかに表情を緩ませた。なら。
「あんたも海賊をしてればいいんだよ。海で馬鹿やって、それをあたしたちが追いかけて捕まえて。下らない策略なんか立ててないで、海に生きて海で死ねばいいのさ。甲板で宴会やって、馬鹿騒ぎして、海と自由が好きだと吠えて、おれたちゃ守られて生きるなんざ御免だと叫んでれば、それでこともなしさ」
 老いて疲れた表情の合間に、ひどく懐かし気な色が灯る。鮮やかな、昔を思い出すその表情にドフラミンゴは覚えがあった。記憶違いでさえなければ、あの女もまた、そんな顔をよくしていた。
 ドフラミンゴは口元に笑みを取り繕い、おつるさんと老兵の名を呼ぶ。
「あんた、まるでそりゃ、海賊みたいだな」
「全部受け売りさ。お前も名前くらいは知ってるんじゃないのかい?」
「誰の」
 男の口をついて出た言葉につるは海へと視線を向ける。
「海狂い」
「…は?」
 つるが言った単語がはたして誰かをさしての言葉なのかどうなのか、ドフラミンゴはしかしそんな名称の海賊に覚えはなく、首を傾げただけだった。それにつるは、こっちの名前は知られてないのかねえと楽しげに喉を鳴らす。
「片眼鏡とでも言えば伝わるかね。モノクルのレオルさ」
「…あー、ああ、ああ、分かる。片眼鏡か。確かロジャー処刑前に海軍が潰したんじゃなかったか?」
「いい海賊だったよ。違うね、気持ちの良い海賊だった、とでも言うべきか。手に負えないところもあったけれど、あいつと戦う時は楽しかったね、純粋に。…あの子が海賊になってたら、きっとあいつみたいだったんだろうねえ」
 懐古した記憶を懐かしむ老婆の瞳は優しい。ドフラミンゴはたまった唾を呑み込み、つるに話しかける。この老兵にそんな顔をさせる男に、少し、興味がわいた。
「何で海狂いなんだ?」
「海にトチ狂ってるからさ。それが原因で天竜人を一人殺したこともあったよ。理由は確か、海に唾を吐きつけたのが原因だったかね」
 ただ、とつるは記憶を探りながら、一度は険しくした表情を解きほぐしながら、そうと唇をへの字に曲げた。
「へんな海賊でね。海軍の兵士も幾人か助けられたことがある。要するに気まぐれな男だったんだよ。情けを掛けるつもりかと問い質したこともあったけれど、結局笑うばかりで答えは聞けず仕舞いさ」
「強かったのか」
「強かったよ。ロジャーや白ひげと並ぶくらいにはね。尤も、船員数が少なくて小ぶりな海賊だったから、天竜人を殺すまでは懸賞金もそりゃはした金のようなもんだった。海に海賊旗を張って奔れればいい、っていうところもあったせいかね。でも、終わり方は、あたしもガープもセンゴクも驚いたもんさ。あの海じゃ何が起こるか分からないとは言ったものだけれど、それでも驚いたよ」
 それ以上はつるの顔色を窺ったドフラミンゴは追及することはなかった。黙ったドフラミンゴに、つるは思い出したように、ああと付け加える。
「そう言えば、小さな男の子が船に乗ってたね。船員は全て殺したとの報告だったから、あの子も死んだんだろうね。カヤアンバルを連れていたよ。だから、てっきりあの子を拾った時には、そう、ふふ、生き返りでもしたのかと疑ったもんだ。年の頃も一緒くらいだったからねえ。そうは言っても男の子だったし、あたしの思い違いだろう」
「好きだったのかい、おつるさん」
 そいつが、とドフラミンゴは真面目に訪ねた。上から落ちてくる視線を声音は真剣そのもので、つるは小さく笑うと、海へと視線をやった。
「どうだったんだろう。分からないけれど、あいつと戦うのは楽しかったよ。あたしが仮に海狂いを好きだとして告白したとしても、あれは絶対に振られたね」
「何故」
「あの男は海を愛していたからさ。好きでは足りない。愛してたんだよ」
「海が、ねえ」
 ぼつりとした呟きにつるは笑って返した。
「そうさ。だから、戦うのが楽しかったのかもしれないね。恨むでも憎むでもない。戦う理由なんて、あたしが海軍であの男が海賊だからだっていう、それだけだったからさ。難しいことは抜きで、お互いの信念と矜持で海の上で戦ったよ。何度も、ね」
 言葉通り、つるの顔は楽しそうだった。
 ドフラミンゴはふうんとそれを聞きながら、相槌を打つ。つるはそこで懐古をやめ、ドフラミンゴに子供に問いかけるように問うた。
「海は好きかい、ドフラミンゴ」
「…嫌い、じゃねえな。ただまあ、そこまで好きってわけでもねえ。おれぁ楽しいことが好きなだけだ。海賊やってんのも、楽しいからさ。退屈はあっという間におれを殺しちまう」
「あの子は、海が好きなんだよ」
「…だから?」
「海に帰しておやり。あの子にとっての海はお前にとっての刺激と同じものだよ。海がなくなれば、あの子は呼吸を忘れて死んでしまう」
「死にゃ、しねえよ」
 先程と言った言葉は同じだが、何故だろうか、喉でその言葉は一度つっかえた。
 優しげな色をしていた目が一瞬で曇り、悲しい色を帯びる。そして、そうかいと皺に囲まれた口が動き声を落とし、ドフラミンゴの横を通り過ぎた。
 その小さな背にはためいた二文字が、網膜に焼き付いて暫く頭から離れなかった。