遺志 - 2/2

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 ヴァナタ、とどこをどうすればそんな特徴的な声が出せるのか不思議な声帯の音を聞きながら、クロコダイルはイワンコフの馬鹿、以上の馬鹿でかい顔の隣に並んでいた。
「あの子とどういう関係なの?」
 かぷりと葉巻の煙を一つ吐いて、クロコダイルは無言で無視を貫き通した。これ以上余計なことを言って、この男女、女男、どちらでもよいがこの人間に弱みを握られるのは御免である。尤も、ミトとの関係が弱みになるかと言われれば答えはNo以外に存在しないのだが。
 黙したまま、口を開こうともせず、出てくるのは葉巻の煙ばかりにイワンコフは唇を軽く突き出す。
「恋人?」
「違ェ」
 その可能性だけは、即座に否定した。ならどんな関係なの、とイワンコフは畳みかけるように問う。額に青筋を浮かべ、クロコダイルは葉巻を噛む口に力を加えた。歯が、葉巻を押し潰す。
「…おい、それが今どう関係があるんだ?えぇ?おれとてめぇらは、『ここを出る』という協定の下で協力し合ってるだけだろうが。個人的詮索が必要か?」
「個人的興味よ」
「個人的興味に付き合う気はねェ。他所を当たれ」
 馬鹿馬鹿しいとばかりに背を向けかけたクロコダイルにイワンコフは待ったをかけた。青筋に加えて、眉間の皺まで増やした状態で、しかしクロコダイルは大人しく足を止めてイワンコフの言葉に耳を傾けた。引き攣った口元は苛立ちを露わにしている。
「死ぬつもり?」
 誰が、というのはこの会話において、一人しかいなかった。
「ヴァナタが大事にしているっていう時点で十分に興味もあるけれど。ヴァナタはあの子をどうするの?」
「さぁな」
 そんなことは自分が聞きたい、とクロコダイルはイワンコフとの会話を強制的に遮断した。そして、かつんと革靴を鳴らして、重みの足りない肩を揺らす。囚人服を着ていた時分はその重さを実感することはなかったが、やはりコートが肩にある方が何かしっくりと来るものがある。そのコートは先程女に貸したばかりだが。
 もう死にたいのだろう。
 そんなことは長年の付き合いで十分に分かった。ならば殺してやるべきかとも思う。恐らくもう、生きる気力などなく、死ぬ気力も待たないのだ。死にたいと、疲れ果てて生を終えたいと思っていても、それをするだけの力など残っていない。「だから」誰かが自分を殺してくれる場所へと赴く。エースを助けたいなどと、ほぼ建前ではないのだろうかとすら思っている。口実の一つだ。
 死にたいだけなのだ。もう、あの女は。
 本当は、死にたかったのだろう。彼女の仲間が死んだ時に。
 命よりも何よりも大事な人たちだと幼いころの子供は語っていた。それが居なくなって、一人取り残されて、許せないと泣き叫び、武器を取った。彼女の仲間の誰もが生き残った彼女にそんなことを望んでいないことを知りつつも、分かりつつも、理解しつつも、彼女自身が許せなかった。奪い取ったものは、奪われる覚悟をしなければならない。
『だから、』
 だから、と女は殺意の塊のような目をして、座っていた。
『あいつらは、殺す』
 命を奪う、という意味で殺すと女は口にした。自身が生きているのか死んでいるのか、もう女は分かっていなかったに違いない。腕に縛り付けた刀の重みを感じながら、敵の姿だけを睨み据えて、傷つき死にかけている身体を動かしていただけにすぎない。もっと、他に道はなかったのかと、そう問われれば、あったと言えるだろう。だがしかし、
 女はそれを望まなかった。
 それだけなのだ。ただ、それだけ。路を変えてやることも、指示してやることもしなかった。変えられるとも思わなかった。そしてそれは今も変わらない。死にたいと言うのならば、いっそ殺してやる方が優しさではないのかと思う。疲れ果てたならば、瞼を閉ざしてやるのが、気遣いというものだろう。休んでいい、とそう言ってやることこそが。
 お前には分かるまい、とクロコダイルはミトに何かを話しかけているルフィを視界の端に捕える。女の顔は変わらない。
 夢や希望の前向きな観測では、その女は変わらないのだ。死なせたくないから、とどこかでそう思っていても、無理な相談なのだ。それは、優しさではないだろう。茨の道を歩けと言うのと同じことだ。動かぬ足を引きずらせ、腕を無理矢理掴み、砂利道を引きずっているのと変わらない。ならばいっそ埋めてやろう。土に。海に。止めてやらないことが、優しさだ。
 ふ、とクロコダイルは紫煙を吐きだした。ミトがルフィへと向けた笑み。疲れが色濃く瞳に浮かんでいる。お前の言葉では変わらない、とクロコダイルはルフィをほんの少し嘲った。だがそれは、自分も同じだと自嘲を含める。こちらへと歩み寄ったミトの手からコートを預かり、肩に羽織った。
「もういいのか」
「ああ、十分だ。有難う」
「そうか」
「クロコダイル」
「何だ」
 そこから先の言葉を聞きたいのか聞きたくないのか、クロコダイルには分からなかった。視界に入れた女は微笑んでいた。疲れた色は無かったが、それはまるで、最期の笑みのようにすら見えた。
「ありがとう」
 今まで、と先につければ、大層しっくりくる笑顔だった。
「いや」
 構わねぇ。
 そう続けた自分はまるで道化のようだと思いつつ、クロコダイルは葉巻を深く吸い、そして、二人分の静かな空間にゆっくりと煙を吐き出した。伸びた煙は空中で四散し、後も残らなかった。