一蓮托生

 刈り上げた後頭部にエミリーは体を一瞬強張らせた。
 あまり良い思い出がない背中である。あまり、というよりは、人様には到底言えない痴態を晒した関係上、あまり顔を合わせたくないというべきである。
 三人がけのソファに収まりきらない脚が左右対称に放り出されていた。紫煙が燻り、窓が閉じられている密閉された部屋には煙草の匂いが充満している。
「なんだ、お前か。どうした」
 軽く頭が傾げ、片眼鏡から青の瞳が動いて、害意のない視線を向ける。
 エミリーは背筋を伸ばして、要件を口にした。
「将軍に用事があって」
「東風遙ですか?珍しい。私、ではなく」
 范無咎の質問に、向かって右側に体を預けていた謝必安が朱色の瞳を丸くしながら、片眼鏡越しに、驚きと共にエミリーへと体を向ける。
 無咎聞きました、と謝必安は煙草を口に咥えている相方へと視線を投げた。
「龍虎に臓腑まで喰い散らかされて、安全地帯がなんたるかもお忘れですか。まあ、私たちに平然と話しかけてきている時点で、その危機察知能力の低さは誤魔化しようがありませんが」
「あなたたちの暇潰しの相手は御免被るわ」
 エミリーの気丈な振る舞いに、謝必安は馬鹿にしたように片眉を下げ、肩を揺らしてひとしきり笑うと相方を呼んだ。
「だ、そうですよ。無咎」
「ならばここは紳士らしく振る舞っておくか」
 呼ばれた男は、いかにも、といった悪そうな笑みを口端に浮かべ、煙草を指で挟み口から離すと、細く長い煙を吐き出し、ソファに放り出していた靴底を重厚な毛足の長い絨毯へと埋める。
 黒の革手袋の先、火の灯された煙草の先端が灰皿に乗せられた。高温の先端から立ち上る煙の筋は細く棚引き空中で四散する。
 揶揄われていることは明白である。
 エミリーは静かな談話室を後にしようとソファに背を向けた。しかし、その背中に声が続けてかけられる。足を止め、振り返ったエミリーに宝石のような紅と蒼が静かに向けられる。
「東風遙に何の用なんだ」
「ちなみに、どちらにご用事があるんです」
 暇潰しに使われていることは理解しつつも、エミリーは肩を軽く竦めて返答する。
「明日ブラックジャックに出るんだけど、ルールを知らないって言っていたから教えに。だから、どちらでも構わないわ」
「范将軍ではなくて」
「ルールを教えることに関しては、二人とも普通に話ができるから」
「成程」
「ブラックジャック、なあ」
 訪問理由に范無咎は煙草を口に戻し、軽く食む。
 暫く考える素振りを見せ、范無咎は謝必安へと視線を向け、合わせた。謝必安はその視線を受け、ああ、と小さく頷く。
「お嬢さん。ブラックジャックであれば、私と無咎がよく知っています。カードゲームはお手のもの、ですとも」
 謝必安の言葉に、エミリーはもしかして、と続ける。
「二人とも一緒にいられるから、どちらかだけ替わることができたりする」
「珍しく察しがよろしい。可能ですよ。勿論ゲーム中は無理ですが。彼らには、私か無咎かがブラックジャックがなんたるかを教えておきましょう。無咎、それでよろしいですか」
「君が替わると、つまり俺が謝将軍に教えることになるのか」
 少々難しい顔をして、范無咎は首の骨を鳴らす。
 苦手意識があるのかないのか、血滴子の謝必安は東風遙に対してあまり良い印象は持っていない様子であったことを思い出しつつ、エミリーは鎮魂歌の彼らも苦手意識があるのだろうかと口に出すことなく、黙して観察する。
 黒の革手袋の手が首を撫でながら後頭部の刈り上げを撫で上げる。その仕草から相方の心境を察した謝必安はゆるく頬杖をついて口角を軽く持ち上げた。
「その話になると、私が范将軍に教えることになりますけどね。牙さえ剝かなければ、或いは逆鱗にさえ触れなければ安心して良いかと」
 思います、と最後まで言い切ることなく、その指先が雫に溶けていく。白の革手袋は厚みのある金地の手甲へと、節はあるものの整った指先はより無骨なものへと変じる。
 謝必安は変わりつつある腕を騒ぐことなく、指先から腕へと変じていく己の姿を静かに眺めながら、范無咎へと片眼鏡の奥の緋色を美しく細め流した。
「逆鱗ではなく、虎尾を踏まぬように」
「努力する」
 余裕すら感じられる優美なその依頼に范無咎は溜息を交えて、変わる男へと意識を集中させる。
 白のよく鞣された革に守られていた細く形の良い指先はすでになく、節の立った無骨な指、中指の付け根に薄手の籠手を繋ぐ金環が覗く。刃を弾くための金属製の鱗籠手が視界に映る。角度によっては銃弾も弾くであろうことは、明らかである。
 范無咎は静かに眼前の男が姿が変化する様を見つめる。
 殺気は、ない。
 見慣れた片眼鏡も、丁寧に剃り上げられた後頭部も、見た目よりも柔らかな白と緋色の頭髪、そしてルビーを彷彿とさせる瞳は面影すら残さず、射干玉へと塗り替えられていた。絹糸よりも細い一筋がソファへと散らばる。
 変じたことに対して一切の驚きもなく、そこに在ることが当然だとばかりの態度で、東風遙は伏せていた瞼をゆっくりとした動作で持ち上げた。長めの睫毛が震える。美麗、という認識よりも先に雄々しさが来るのは、その体躯と所作のためである。
 筋肉で守られた首筋を皮の厚い手のひらが摩る。
 どちらが先に言葉を発するべきか、范無咎は思考を巡らせる。そして、先に口を開いた。
「よお、将軍殿」
 侮られる勿れ。
 相方への態度となんら変わりなく。
 范無咎は億劫さを隠しもしない男へと話しかけた。朱色に縁取られた瞳に金梅が降る。
「成程」
 何による納得なのか理解できないまま、范無咎は口元を小さく痙攣させる。
 血滴子も十分癖があるが、それ以上であることは間違いなく、正面で手持ち無沙汰に佇んでいる女がこれを相手にしていることに対する気苦労が知れた。
 そも血滴子に関して言えば、茶々を入れることのできるだけの軽薄さがある。それが、この男にはない。
 自分の方が替わりたかったと范無咎はシクリと痛む胃に、泣き言をこぼした。
 その男の嘆息などに興味の欠片すらもたず、謝将軍は先刻の言葉の意味を告げる。視線が、片眼鏡の奥の鮮やかなサファイヤブルーへと向けられた。
「お前の方が理解が深そうだ」
「あら、じゃあ私はお役御免ね。失礼するわ」
「待て待て」
 ここぞとばかりにエミリーはにこやかな笑みを浮かべて、待ち合わせをしていた部屋を出て行こうとした。それを慌てて范無咎は引き止める。
 生贄は多ければ多い方よい。
 足を止めたエミリーへと座るように促す。
「医生、お前もブラックジャックに出るんだろう」
「そうだけど、私はブラックジャックのルールを知っているから。将軍にルールを教える予定だったのは私だし」
 ええ、とエミリーは続けた。
「謝将軍はあなたをご所望だもの。私への気遣いは不要よ、ご丁寧にありがとう」
「より深い理解が勝利へと繋がる」
 逃すか、と范無咎は滲む焦りを表に出すことなく、一抜けをしようとする女の逃げ道を塞ぐ。エミリーはといえば、状況を理解しつつ、いかに安全にその場を退出するかに思考を巡らせていた。
 謝将軍に関わって、良かったと呼べる結果になったことなど片手で数えるほどもない。
 双方の腹の中を知ってか知らずか、この場の原因の男は一言だけ短く命令した。告げた、ではなくそれはただの命令だった。
「座れ」
「教師役は」
「再度の躾が必要か、虎よ」
 そこで噛みついてもよかったが、エミリーはこれ以上の反論は時間の無駄であることを悟り、大人しく一人がけのソファに腰掛けた。
 室内の人間が全員着席したことで、范無咎はルールの説明をと口を開き、しかし先に不満を滲ませた声が同じソファに座る男から発される。
「どこに座っている」
「悪いけどネームプレートは見当たらなかったわ」
「侍れ」
「はべ、」
 それが当然とばかりに告げられた言葉に、エミリーは口元を引き攣らせる。怒りに任せて怒鳴りつけなかった精神は誉められて然るべきである。
 すう、と膨らんだ胸が空気を深く吸い込み動く。
 それが冷静さを取り戻すための行為であることは、范無咎にも見てとれた。深く吸い込まれた息は、長く吐き出される。口元にたたえられた微笑みはいっそ不気味さすら感じられた。
 否、静かな怒りである。
 しかし范無咎はそれに口を出さない。よく知っている。女の逆鱗ほど恐ろしいものはない。
 にっこりと音が出そうな程の笑顔を浮かべて、エミリーは謝将軍へと向き直る。
「申し訳ないのだけれど。侍れ、だなんて。私はあなたのメイド、ああいいえ、給仕になった覚えはないし、そのような契約を交わした記憶もないわ。そもそもの問題として、仮にあなたの給仕として雇われたとしても、侍れだなんてそんな」
「お前は私の虎だろう」
「生憎どなたかのペットになった覚えもありません。ペットが欲しければナイチンゲールに依頼をするのが筋ね」
 一息では収まりきらぬ怒りを、さも当然とばかりの態度で断ち切った男の言葉に、間髪入れず打ち返しがされる。小刻みに震えている姿は見ていていっそ気の毒さすら覚えたが、助け舟を出していらぬ不興を買うのは御免被りたかった。
 謝将軍は薄く笑うと、指先でソファの側面を軽く叩く。
 すでに巨漢が座っているソファに人が座れるスペースはなく、ソファに凭れ掛かるにしても、腰を落ち着けるのは柔らかな絨毯である。女が座れば、手持ち無沙汰に触れるにはちょうどよい位置。
「聞こえたろう、侍れ」
 折れるか、と范無咎は未だ一人がけのソファに座っている女へと視線を向けた。その視線が不運にもかち合う。
「范無咎さん」
 静かな怒りをたたえた瞳に、范無咎は己の失態を悟る。不味いと思ったが、時すでに遅く、エミリーからの声かけはすでになされた後であった。白金の、男の両眼が矛先を変えている。
「あなたはどのようにお考えかしら」
 返答の前に、さらに言葉は続く。
「ええ。今回ブラックジャックを教えてくださるのはあなたですもの。で、あるならばここは、指導してくださる人の意見を聞くのが最も適切かと」
「指導なんて、は、そんな大層なモンじゃ」
「そんなことは、ねえ。先生」
 火に油など一滴も注いでいないというのに、着火されただけで勝手に燃え上がっている。
 同じソファの反対側から注がれる視線が痛い。背筋を冷や汗が伝う。頬の筋肉が引き攣るのを感じた。
「老師」
 胃が痛い。
 范無咎はソファに鷹揚に座る傲慢さを固めて作られたと思しき男へと顔を向ける。どう見ても、その顔はこの状況を楽しんでいた。老師、などと露ほども思っていないのはその表情からも明らかである。
 艶やかな黒髪が白絹の上を滑らかに揺れる。
「如何にする」
 今すぐに范将軍と交替したい。
 喉まで出かかった言葉を飲み下し、范無咎は小さな諦めを覚えた笑みをそっと浮かべた。
「医生」
 生贄は多い方がよい。答えは一つである。

 

 形は違えど希望通りの結果に范無咎は腹の中で一息つきながら、エミリーが持ってきていたカードを手にする。カードゲームは真っ当からそれ以外までよく、というほどに知っていた。
 ちょこんと絨毯の上に座った女の頭部は、大きな手のひらで弄ばれる。硬い指先は顎の縁をなぞり、喉を掻く。くすぐったいのか女の眉間に縦皺が刻まれ、身が捩られた。
 非難めいた視線はこの際気にしない。
 一通りの説明を終え、質問は、と范無咎は両名へと尋ねた。それにエミリーが顎に添えられた手を払いのけつつ口を開く。
「説明のあったカウンティングは、一般的にルール違反ではないかしら」
「できれば、ほぼ間違いなく勝てる。だがまあ言う通り、一般には禁止されているな。できる人間はほぼいないが。将軍はどうだ」
「できんな」
 即座に返された意外な言葉に、エミリーも范無咎も目を丸くする。横柄な態度で、できて当然だと言うとばかり思っていたので、その返答は予想外そのものであった。
 二人の態度に、謝将軍は眉を顰める。
「戦略に必要なものであれば、紐付けて覚えることもできるが、何の関心もない札の絵柄と数字を覚えるのはできん。やろうとも思わん」
「范将軍は」
「范将軍だ?あれこそ不可能だ。斬り飛ばした首すら数えん男が、札の絵柄や数字など覚えられるものか」
「物騒な例えはやめて。でも、二人ともチェスはすぐに覚えたじゃない」
「あの遊びは兵法に通じていれば容易い」
 謝将軍はそう言うと、テーブルに散らばったカードを一枚手に取り、表裏を矯めつ眇めつ回して眺める。配られた、と言葉が続く。
「手札や配るように仕向け、物事を考えるのは得意だ。しかしこの遊びは配られる札に依存するものだろう。札は選べん上、運任せだ」
 至って真っ当なやり取りの中、范無咎は謝将軍へと確認をする。
「なんだ、博打は嫌いなのか」
「自力で切り開ける博打は好むが、相手任せの博打は好かん」
「相手握られている、と言うのも悪くないぞ。あのスリルは、いい。何ならそれをひっくり返した時の高揚感は筆舌に尽くし難い」
 歯を見せて、好戦的な一面を覗かせる男の笑みに、謝将軍はそこで小さな溜息を漏らし、首を左右に振る。
「お前の癖なぞはどうでもよいが、しかしこの遊びは私と范将軍には向いてないな。范将軍は手札の数など気にも留めんだろう。正直、私も手札の数で倒す相手を選ぶなどと面倒な真似はしたくない」
「あら珍しい。あなたのことだから、倒せばいいと一蹴するとばかり思ってい」
 たわ、と最後まで言うことなく、その頬は横に引っ張られる。頬の肉を摘むのではなく、頬の内側に指が入り込み、釣り針のように引っ張られている。
 顔を頬を起点に引っ張られながら、エミリーは言葉にならない抗議をするも当然のように無視をされた。
 目の前の光景を極力視界に入れないようにしながら、或いはすでに平静な心情で范無咎は謝将軍へと問うた。それは至極真っ当な問いである。
「それならば、無理にこのゲームに参加する必要はないんじゃないか」
 他に参加できるゲームはある。
 范無咎は、本当に、これ以上ないほどの真っ当な解決策を口にした。しかし、その解決策に対する反応は鈍い。珍しく歯切れが悪い。
 聞こえるか聞こえないか、それくらいの音が形の良い唇から発される。
「面白そうだと言っていた」
「は」
「范将軍が、出てみたいと言っていた。無論、私は嫌だと言ったのだ」
「どうして素直に范将軍のためだと、い、た、引っ張らないで!」
「喧しい」
 繰り広げられる光景に、范無咎は考えるのをやめて、手元の煙草に火を点けた。