気が散る

 追ってしまう。
 目が、追ってしまう。

 ああ嫌だ。
 エミリー・ダイアーはそう一人ごち、額に手を当てて呻いた。きっちりとまとめた前髪が指の間に絡まり、すぐに解けていく。
 着いた両肘の間に置かれたカルテには、きめ細やかな診察の経過が書き込まれている。
 走り書きから丁寧に書かれた内容まで、それら全ては自身が記録した内容なので、どのような時に、どのような状況でそれらを記載したのかは、瞼を閉じれば鮮明に思い出すことができた。
 綴っている文字がよれている部分を指先でなぞる。
「一度書き直そうかしら」
 よれている理由を思い出し、カルテの上に突っ伏す。
 首筋をなぞる指先のひやりとした冷たさが、人としては冷たすぎるその体温が蘇る。その冷たさに相反して高まる熱のなんと異質なことか。
 触れ合っている箇所は、熱が混ざり合いぬるま湯のようになっていると言うのに、体のうちからこぼれる熱は異常に高い。
 エミリーは上半身を起こして、深く長く息を吐き出した。
 集まり始めた熱が四散する。ほのかに染まった頬はすぐに色を失った。
「はしたない」
 そう吐き捨てると、エミリーはよれた文字が綴られた1枚のカルテを破いてゴミ箱に投げ捨てた。
 よれた理由を思い出すには、いささか日が高すぎる。
「何がです」
 高すぎた日が細く長い影に隠される。大きく開いた傘の影は、椅子に座ったエミリーを容易く飲み込んだ。
 ことの元凶、或いは理由の一つである人物の登場に、エミリーは平静を保ったまま視線を上げた。
 黒白の長髪。
 解けば腰より長いその髪は三つ編みに結われ、体の横に垂らされている。まるで、一本の縄のようにすら見える。当然、誰もそのような想起を口にすることはない。
 頬は痩け、紫紺の瞳だけが傘の影の中で光を放っている。
 ぱた、と曲線を描く頬に雫が垂れる。長く、骨と皮しかない、関節が目立った指がそれを拭った。
「扉から入ってとあれほど」
「つまらないことを言わないでください。私とあなたの間柄ではありませんか」
「親しき仲にも当然のように礼儀は存在するのよ、謝必安。それに、無咎ならそんなことはしないでしょう」
「おや、無咎を引き合いに出すのですか」
「うっかりはあるでしょうけど、わざとはしないじゃない」
「私と違って?」
 傘を閉じ、口元に薄く笑みを刷く男に、エミリーは上を見上げて半眼を向ける。
 返答は当然、肯定しかなかった。しかし、手元のカルテの内容を熟知している医師は肯定をしない。
「彼がそういう性格をしている、という話をしただけ。それから、私はあなたが勝手に部屋に入っていることを咎めているのだから、それに関してはどういうご意見かしら。謝、必安さん」
 突き放すような冷たい物言いに、謝必安は口元をわずかに下げる。
「冷たいですね、傷つきました」
「私は言い疲れたわ」
「ご自身の感情を告げる前に、傷ついた私を慰めるべきでは」
 ねえそうでしょう、と謝必安はエミリーへと向けた顔を軽く傾げる。
 答えなどない言葉の応酬にうんざりとしながら、エミリーは呆れをその顔に滲ませ、手に持っていたカルテを伏せて机の上に置いた。
 ぎ、と椅子が乾いた音を立てて軋む。
「慰めて欲しいの」
「ええ、是非にでも」
 機嫌が悪いのだろう。
 エミリーはそう結論づけた。
 普段であれば、冗談ですよと返答がされて終わっていた会話が、不機嫌とまではいかないが、肯定で続いてしまっている。
 細められた目の間殻除く紫紺の瞳は、言葉の軽薄さとは裏腹にひどく冷たい。
 謝必安。
 そう声をかけようとした時、ふと喉の動き止まった。気管の真上を鋭い爪が上から下へと辿り、喉の上で止まり、軽く押し込まれる。
「必安、と」
「謝必安」
 男が言い終わらないうちに、エミリーは強い声音で名前を被せる。
 冷たかった紫紺は、とうとう色をなくした。
「私は范無咎ではないわ」
 姿形も違えば、その魂すらも全く異なる。今も固く握りしめて片時も離すことのない、無機質な骨董品の中に片割れの魂が押し込められていることは、知っている。
 力を入れすぎたのか、或いはそれ以外の理由で傘の柄が震えた。
 色をなくした瞳は、すぐにそれを別の色で塗り替える。誤魔化そうとしていることは、目に見て明らかであった。
「知っていますよ、そんなことは。ええ、当然。勿論ですとも」
「謝必安、座って」
 女が無断で室内に入り込んだ男へ席をすすめれば、男は差し出された椅子を一瞥したのち、大人しく腰掛けた。
 知っていますよ、と謝必安は繰り返す。視線は合わない。
 エミリーは暗記しているカルテの内容を、頭の中で思い出しながら、ゆっくりと声をかける。
「いつ、どこでも。あなたは、ここに座って構わない。あなたが座れば、私は傍らに腰掛けて、あなたの話を聞くのだから」
 一拍、息を吸う間が開く。
「今は、どう」
「手紙が」
「ええ」
 手紙が、と謝必安は繰り返し、丁寧に折りたたんだ紙片を前身頃の合わせから取り出した。開こうとした指先は震え、紙が擦れ合い、カサついた音を立てる。
 その動作は、いっそその紙片を開くのを拒んでいるかのようにすら見えた。
 俯きがちの顔、唇から溢れる呼吸音は乱れ、過呼吸の症状を思わせた。
 がたがたと震える手がゆっくりと紙片を開く。
「きっと、無咎からの手紙です。言伝が、ええ、私宛に、何か書いてあるのでしょう。ねえ、エミリー」
 上がらない面からは、その表情を窺い見ることは敵わないが、声音はすがりつく、執念じみた色を滲ませている。
 エミリーは大きく震える手から、ゆっくりと紙片を預かる。
 紙片が、エミリーの胸元へと引き寄せられるのに合わせて、精神的に不安定な男の顔が上がっていく。
「范無咎からの手紙なのね」
 穏やかな声音に、ええ、と謝必安は安堵とともに口元を綻ばせた。
「無咎からの、そうです。それで、ああ、あなたに、読んでいただきたくて。いえ、その、私に無咎からの言伝を耳にするような資格は、ないの、ですが。ですが、このように、手紙を残してくれているということは、無咎のことですから、私があなたに頼むと、そう、きっと見越しているかと。朝起きたら、机の上に置いていて。無咎は書に明るく、ほら、あなたも見てわかるでしょう。とても、力強く、美しい字だと思いませんか」
 一気に捲し立てた言葉を、エミリーは紙片に目を落としたまま、静かに聞く。
 そして、優しげな面を謝必安へと向けた。
「あなたの国の言葉は読めないから、今度范無咎に何を書いたのか、聞いておくわ。そうね、今後もきっとあるでしょうから、今度あなたが、私にあなたたちの言葉を教えてくれる?」
 その申し出に、男の表情は驚くほど穏やかに解ける。
 医師の微笑みは崩れることなく、患畜へと言葉を続けた。
「わかる範囲で調べておくこともできるから、これは私が預かってもよいかしら」
「ええ、構いませんとも。ああ、勝手に入ってきてすみませんでした。少々、焦っていて」
「そうね」
「分かってくださいますか。無咎が私に何かを伝えてくれようとしているのに、分からず、気が立っていたのです。いえ、私などが無咎を意思を汲み取ろうなどと烏滸がましいことは分かっているのです。尊く清い彼に、許されようなどとそのように恥知らずことは、微塵も考えていません。ただ」
 ただ、と一人残された、二人ぼっちの男は繰り返した。医師は、言葉の続きに耳を傾ける。
 感情に振り回されていた瞳がゆっくりと焦点を定め、二人ぼっちのハンターは、医師の、エミリー・ダイアーの、女の首筋に視線を留め、ゆっくりと満足げに目を細めて恍惚とした表情を浮かべる。
 死人に近い温度の指先が伸び、エミリーの首筋の一点に触れる。鬱血痕。狂気すら帯びた瞳がうっとりと歪んだ。
「無咎の痕跡が、ただ無性に嬉しくて」
 もう片方の腕が伸びる。しかし、その手がたどり着く紙一重で、診察室のドアがけたたましく叩かれた。先生、とドア向こうから響く声は緊迫感に満ちている。
 エミリーの視線はドアへと向けられ、素早く腰が上がる。謝必安の手はゆるりと静かに両手共に自身の膝の上に戻された。
「謝必安。私から范無咎へ聞くか、それか辞書で調べて、次回教えるわ」
「ええ、そのように。今日は大人しく戻ります。あなたの体も辛いでしょうから」
 言い当てられたくないことを言われ、苦言を呈そうしたした時には、すでにハンターの頭上に傘が広げられていた。
「私は、優しい男でしょう。無咎も、そのように言ってくれましたからね」
「そう思うなら、私の体が辛くなる前にやめていただけるかしら」
 エミリーが反論を言い終わる前に、傘の中に落ちた雨の雫にその長身は全て飲み込まれ、溶けて消えてしまった。
 床に残された残滓を見下ろし、エミリーは謝必安から受け取った紙片をカルテの上に置き、叩かれ続けるドアへと走る。ドアの向こうには、涙目で鼻を押さえているとそれに付き添っているガンジが立っており、エミリーは診察のために二人を部屋に招き入れた。
 話を聞けば、全く呆れる理由で、皆でクリケットをしていたところ、見事ウィリアムの顔面にボールが直撃したというだけの話であった。
 症状は鼻血と打撲だけであったことから、エミリーは適切な治療を施す。その中で、ガンジがキョロキョロと室内を見渡しているのに気付く。
「いや、外は晴れていたんだが。この部屋は雨の匂いが、する」
 ハンターの残滓は床に残された水跡だけでは無かったようだ。
 エミリーは小さく微笑み、窓を開けましょうかと返事をし、換気の意味合いも込めて、窓を押し開けた。気持ちの良い風が室内に一気に入り込み、白いレースカーテンが風に大きく揺れる。
 その表紙に一枚の紙片がふわりと空中に舞う。
「落ちた、先生」
 ガンジは、目の前をひらひらと落ちていく紙片を持ち前の動体視力で見て取り、掴み取ると、エミリーへと差し出した。
 エミリーは礼を告げて受け取る。
「ありがとう、グプタさん」
 受け取った紙片は真っ新で、何も書かれてはいなかった。