雲の中で散歩

 梟が鳴く。月は空に浮かび、静寂の中煌々と輝いている。澄み切った夜空に浮かぶ星の線を辿るのは容易い。
 ほう。
 梟が、また、鳴いた。
 エミリーは開いていた医学書を閉じた。時計を見ればすでに一番上の時刻を回ってしまっている。もうそんな時間だったのかと、没頭していたことに気づき、席を立つ。眠ろうにも、すっかり体が冷えてしまって、すぐには眠れそうにもない。エミリーは体を寒さで大きく震わせた。厚手のショールで身を包み、部屋を出る。
 深夜の廊下を一人で歩く。向かうは食堂。ホットミルクでも一杯飲んで、あるいは暖炉に火でもくべて、体をあたためてから寝ることにする。後者にすれば、暖炉前のソファでそのまま寝てしまうかもしれないけれども、それはそれで暖かくていいのかもしれない。
 庭が臨める廊下を歩き、そこでエミリーは足を止めた。足を止めたのは、単純に声をかけられたからである。
「こんばんは」
「こん、ばんは」
 以前にワインを飲み交わした白いテーブルの上には、ティーポットにカップ、焼きたてであろうスコーン。お茶会の様相を呈していた。
 可愛らしいシルクハットに、あざやかな空色の眼球に縦長の瞳孔が開く。ふさふさとした尻尾が燕尾の切れ目から覗き、左右に揺れていた。髪の留め金は月の光に負けず、眩い光を放っている。白銀の毛並みは月の光を写し込み、動くたびにその輝きに色が変わる。
「ああ、君か。私がどうやら迷惑をかけているようだ。彼はいっとう素直じゃない」
 写真で見たことがある。
 そう、月下の紳士は続けた。まるで誘うように月下は誰も座っていない椅子を引く。どうぞと言わずとも、手を差し出され、エミリーは吸い寄せられるように引かれた椅子に腰掛けた。体の前にティーカップが一つ置かれて、アールグレイの香りが立ち込め、心を落ち着けさせる。
「ミルクと砂糖は?」
「いいえ、結構よ。ストレートで」
 横の椅子に月下が腰掛け、紅茶に口をつける。スコーンもどうぞとばかりに皿を差し出された。ジャム。
「夜のお茶会?」
「妖精と一緒に」
「面白いことを言うのね」
 冷えてしまった体に染み渡るように、紅茶の熱が末端までゆっくりとあたためていく。
 夜空を見上げれば、先程となんら変わらぬ月と、それから星が散らばっていた。視線をもどすと、そこには穏やかな微笑を浮かべたハンターが座っている。ひこりと獣の耳が可愛らしく動いた。
 カップの中にあった紅茶はなくなり、スコーンも平らげ、皿は空である。なんの話をするでもなく、言葉を交わすわけでもなく、ただ互いが月明かりの下、そこに座って紅茶を飲むという不思議な空間が出来上がっていた。
「ありがとう、ジョゼフ」
「どういたしまして。では、一曲」
 お手をどうぞと座ったエミリーの前に白い手袋が差し出される。
 家を出てから踊ったことはない。困惑に満ちた顔を察したのか、月下はその手を優しく包み込み、そっとエミリーを立たせ、その細腰に手を回す。
 曲はない。
 曲はないが、流れるようなリードにエミリーは体を回す。耳に届くのは梟の鳴き声、それに旋律を口遊む鼻歌。くるりくるりと月明かりの下で二つの体が優雅に舞う。
 知らぬ曲が終わりを告げ、月下は恭しく首を垂れた。シルクハットに指がかかり、その帽子の下から嬉しげな空色が覗いた。
「楽しかったよ、お嬢さん」
 くるりと写真が手の中で回り、そして。
 そして、エミリーの前からハンターの姿はかき消えた。気づけば、先ほどまであった紅茶も皿もなく、ただ梟の鳴き声だけが残されている。夢でも見たのだろうかと頭を押さえるも、体はやはり暖かく、冷え切っていた指先はまだほんのりと温もりを覚えていた。
 
 
 負傷者がいない。
 それどころか、ハンターと邂逅したサバイバーは誰一人としていなかった。通電後に開けられたゲートの下でエミリーは一人佇む。残りの三人は反対側のゲートから無事に帰った。
 周囲を確認すれば、ぽつんと写真機が設置されている。本日、ただの一度も使用されなかった写真機である。しかし、それは普段ジョゼフが使用するものとは異なり、蔦が巻きついたような機械である。周囲を木葉がひらりと舞っている。
 このまま、ゲートを出ても良かった。
 出てもよかったが、エミリーは雪がしんしんと降り続く試合場へと足を向ける。降り続く新雪を踏みしめ、マップ内を走り回る。
「ジョゼフ」
 誰も会わないというのが、エミリーには気がかりだった。
 確かに彼とは色々あったけれど、それはもしかして体調不良かなにかで倒れている可能性のある彼を放っていいことにはならないし、初対面時は最悪とも呼べる間柄も、今では紅茶を飲み交わすくらいの間柄である。
 ジョゼフ、とエミリーはもう一度その名前を呼ぶ。返事はない。
 ふとその時、どくりと心臓が大きく跳ねた。ハンターが近くにいる証拠である。しかし、周囲を見渡すもその姿は見当たらない。すると、工場の上から声が降ってきた。
「君は帰らないのかい」
 視線を上げた先にいたのは、写真家であったが、やはり普段の装いとは異なっていた。
 アズラーイール。
 階段の手すりのところに座っている。
 引き留めるを発動させたまま、二本の角に夜空を模したようなぬばたまの豊かな黒髪。写真世界でないため、その本来の色は分からないが、纏う上衣は星屑が散りばめられて、足が動けばそれに合わせてきらきらと光る。
 エミリーは雪で足を滑らさないように、一歩ずつ手すりを掴んで写真家のところへと向かう。足跡は、階段に積もった雪の上に残る。慎重に階段を登り切り、写真家の様子を確認するが、怪我もなく、体調も悪くなさそうである。
「どうして」
「月が、綺麗だから」
 そこまで言われて、ああとエミリーは納得する。
 階段の上から眺めれば、澄んだ空気の中に月がぽっかりと浮かんでいた。それは白く染め上げられた景色の中で、眩いくらいに美しい。絶景ポイントだとカヴィンが一度女性サバイバーを口説く時に言っていたのを思い出す。
 エミリーは胸を撫で下ろし、足を階段下へと向けた。
「あなたに何もなかったのならよかったわ。私はゲートから帰るから、それまでゆっくりと景色を楽しんで。邪魔をしてごめんなさい」
 そう言い、階段を降りようとしたエミリーの背中に焼かれたような痛みが走った。背中を斬り付けられた。引き留めるはまだ発動中だった。
 エミリーは背中を斬られた衝撃で階段下まで一気に転がり落ちていく。積もっていた雪のおかげで、痛みは少ない。それでもその痛みは健在だった。背中の傷は深く、血が流れ落ちていくと同時に体が徐々に冷えていく。
 本日は新しい人格を研究中で、起死回生には人格を振っていないので、もはや自力では立ち上がれない。
 雪を踏む音が耳に届く。視線を持ち上げれば、そこには変わらず穏やかな、あるいは感情の読めない表情を浮かべたアズラーイールが佇んでいる。その表情に感情の揺らぎはなく、倒れたエミリーを慣れた手付きで風船に括り付ける。椅子に座らせるのだろうかと思ったが、エミリーの血で赤く染まった雪を踏みしめ、階段を上がっていく。そして、先程月を眺めていた場所に戻り、その体を雪に落とす。
 アズラーイールは何事もなかったかのように、雪に倒れたエミリーの横で景色を眺めている。正しくいえば、先刻いた場所よりも少し下がって壁にその背中を預けて、風景を楽しんでいた。何がしたいのか、見当もつかない。悪意もなく敵意もない。
 アズラーイール。別名。
「しの、てんし」
 血の気が失せた唇が音を紡ぎ、それは雪に吸われて消える。
 アズラーイールは目を細め、切り取られたような幻想的な光景を眺める。
「雪月花、かな。美しい」
 雪に。月に。そして。
「赤い花」
 ゆっくりと凍えて、朧げになっていく意識の中、エミリーは恍惚とした表情を浮かべたアズラーイールを最後に、目を閉じた。
 
 
 へえ、とジョゼフはエミリーの話に相槌を打つ。サンドウィッチを片手に、エミリーは口をへの字に曲げた。
「特殊な衣装の人格はみんな少し変わっているわね」
「そうじゃないハンターもいるけどね。ほら、リッパーとか。彼はそこまで変わらないよ。ああ、あと美智子。ハスターもそうかな」
 白黒無常は元来の人格を跡形も残してはいない。かく言う自身もその手の類であるとジョゼフはケーキスタンドのスコーンを一つ手に取り、さくりと割り開くとマーマレードを塗りつける。
 かたやエミリーは一口サイズのサンドウィッチを咀嚼し、頬をぷくりと膨らませた。
「心臓に悪いわ。月下の紳士は兎も角、アズラーイールはさっぱりよ」
「それは悪いことをした」
「思ってもないことを言わないで」
「おや、ばれたかい」
 半顔でじとりと見られ、ジョゼフは両手を上げて薄く笑う。実際のところ、反省は欠片もしていない。生憎と身に覚えのないことを謝罪する必要性などとんと感じていなかった。それはおそらく、白黒無常も一緒ではなかろうかと思考を巡らせる。
 ジャムをたっぷりと塗ったスコーンを行儀も悪く一口で平らげ、ジョゼフは肩を竦めて見せる。
「まあ、サバイバーで人格まで変わる特殊衣装は本当に数少ないからね。僕が見たことがあるのは、傭兵と占い師くらいか」
「本当に厄介。でも悪気があるわけではないし、距離を誤らなければいいのよね」
「彼ら、とも?」
 それがジョゼフ自身を差すものではないことをエミリーは暗に理解し、白い椅子の背もたれに全体重を預けて、晴れ上がった空を見上げた。
 紅茶の香りが風に流される。返事はない。沈黙に耐えかねたわけではなかったが、ジョゼフは先にそれを破る。来週。
「珍しい紅茶が手に入るから、一緒にどうかな」
 茶会の誘いにエミリーは顔を緩やかに綻ばせた。