生存者の本能

 懇親会とでも言えば、聞こえはいい。
 狩り狩られる側がゲームを介してではなく、顔を突き合わせ、豪奢な部屋に並べられた食事を楽しむ。乾杯の合図はジョゼフが取り仕切った。非常に様になっている。
 エミリーを探せば、女性ハンターやサバイバーに囲まれ、あまりにも楽しそうにしていたものだから、謝必安は声をかけるタイミングを完全に失い、部屋の片隅にぽつりと置かれている椅子に腰掛ける。
 会場全体を見渡せば、かくも不可思議な光景が広がっている。ハンターとサバイバーが食事を共にする。争いはなく、諍いもない。酒と食事と音楽が、楽しい空気を作り上げている。
 もっとも、バーメイドの周囲では酒に飲まれたサバイバーとハンターが倒れ伏している。その中心でバーメイドはきゃらきゃらと笑いながら酒を仰いでいるし、まだ酒に飲まれてはいないが顔から腕まで真っ赤になったオフェンスが酒瓶を振って、今にも倒れそうな傭兵と肩を組んで大声で歌っている。
 馬鹿騒ぎが始まると、宴もたけなわである。
 誰かが音頭でもとるのかと思いきや、開始の合図をしたジョゼフはバーメイドに酒を飲まされ潰れてしまった連中の一角を担っているし、リッパーとくればほろ酔いになって女性陣を口説いてしまっている。頼りになると思っていたベインやバルクなどすでに退散済みであるから始末に悪い。女性陣はいかがなものかと視線を走らせれば、話に夢中で視界の外れたところで行われている惨状を見てもいない。
「私たちも帰りましょうか、無咎」
 エミリーに一言言って、と謝必安は傘を撫でながら視界をくるりと回す。すると、頬をリンゴのように赤らめて、その半身を同じように、あるいはそれよりも頬を赤らめた納棺師に支えられた姿を見つける。謝必安は流れるように席を立ち、音もなく納棺師の前に立った。
 イソップは、突如かかった影と、肌がひりつくような感覚に思わず顔をあげ、目の前にいる不愉快さを隠そうともしないハンターに身を強張らせ、咄嗟に支えるためにエミリーの体に添えていた手を守るように力を込める。それを目敏く捉え、向けられる視線が鋭さを増す。
「彼女に、なにを?」
 発される殺意にも似た感情にイソップは全身を大きく震わせ、弁明を試みる。
「ダイ、アー先生が、酔われた、ので。その、少し、休ませた方が、いい、かと」
「そうですか。では、その役目は私が変わりましょう。あなたは宴の席に戻っていただいて結構」
 上気していた頬は一気に白くなり、酔いは醒め、イソップはなけなしの抵抗でエミリーの肩を引き寄せる。床に向けられた視線をあげることができない。一体どんな表情で見下ろしているかなど、想像に難くない。
 イソップはエミリーの肩に回した手が震えるのを承知で、しかし俯いたまま続けた。手どころではなく、言葉すらも震える。
「え、エミリーから、あなたの匂いが、するときは、その、いつも、気怠、そうで、明日も、僕らはゲームが、ある、あり、あるます、あります、から」
「…エミリー?」
 かけられる圧迫感の強さにイソップは以前のように呼吸を忘れる。酔いなどとうの昔に醒めてしまっていた。酒の力を借りれるのはここまでである。
 イソップの耳に、苛立ちと、あからさまなまでの独占欲が入り混じった声が黄泉から這いずり上がってくる。
「エミリー、ですって。あなた、今、なんと、言いましたか」
 まずい。
 まずい、まずい。逃げなければ、まずい。
 イソップは一歩下がろうとしたが、酔っ払って足元の覚束ないエミリーを突き飛ばすわけにもいかず、辛うじて踏みとどまるも、状況が変わったわけではない。その緊迫した状況にはあまりにも不釣り合いな、間の抜けた声が肩口から聞こえる。
「あらぁ、いそっぷくんじゃない。ふふ」
「せ、先生」
 完全に酒に飲まれたその顔はうっとりとしており、預けられた体は驚くほどに柔らかく華奢である。眼前の脅威と隣の柔らかさにイソップは目を白黒させる。そんなイソップの様子などどこ吹く風で、エミリーは右手をそっと持ち上げ、その銀糸を、頭の形にそって撫でる。
 頭を、撫でられている。
 慌てて横を向けば、顔が近い。栗色の睫毛が頬に触れた。咄嗟に体を仰反らせる。
「せん、せっ」
「いつも、たすけてくれて、ありがとう。ふふ。あなた、ひくつになりがちだけど、でも、みんなとてもたよりに、してるわ」
「僕は、その」
 ふとそこでイソップは眼前に佇むハンターがなにも言わない、手を出さないことに違和感と、そして恐怖を覚え、おそるおそるそちらへと、決して向けようとしなかった視線を向ける。そして、そこで見た表情に目を瞬く。
 なんて、悔しそうな顔。
 何故だか、少し胸がすっとした。
 思わず緩んだ口元がマスクで隠されているのをこの時ほど感謝したことはなかった。酒はまだ残っていたのだろうか、イソップはここぞとばかりに一つ咳をする。
「ぼ、僕も、エ、エミ、エミリーのこと、た、頼りにしてます」
「あら、あらあら、うれしい。ふふ、うれしいわ」
 酒が入っているとはいえ、ほとんどはじめて見る息が触れ合うほどの距離の笑みに、イソップは胸の高揚を覚える。しかし、その高揚は即座に地面に叩き落とされ、粉々に、それこそ跡形もなく砕かれた。
 ひとつ。
「イソップ・カール。酒で、人生を失敗したことは?」
 白黒無常の手の中で、傘が打たれる。
 イソップは覚悟を決めて目を閉じた。しかし、衝撃はない。そのかわり、自身の背後から大きな体がひとつ影を作り、横にあったはずの柔らかな体を前へと押し出していた。よろけた体を支えるため、傘は攻撃態勢に入ることなく、代わりにエミリーのふらついた体を抱き支える。
 慌てて後ろを振り返れば、そこに立つのは切り裂きジャック、先ほどまで女性を口説き倒していたハンターその人である。宴の席では流石にあの長い刃は外されており、その手はイソップの細い肩にかけられている。
「彼女は早く寝かせてあげた方がいいと思いますよ、謝必安」
「リッパー」
「折角の宴なんです。最後まで、楽しく行きましょう。あなたの放つ気配は、どうにもこの席には不釣り合いだ。ねえ」
 同意を求められるも、イソップはその答えを容易に口にできるほど怖いもの知らずではなかった。牽制を込めた視線をイソップへとひとつ送り、謝必安はすっかり酔いの回ったエミリーを腕に抱え、会場を後にする。
 気配が完全に消えて、イソップは安堵のため、膝から崩れ落ちそうになるが、それをリッパーが片手で支える。よく分からない助け舟を疑問に思いながら、視線を上げてリッパーを見上げた。黒く底の見えない穴が、口を開けている目が、仮面の奥で三日月のように歪む。
「いえね、貴方の無謀な行動に感心しまして。ですので、礼はいりませんよ」
「褒めてませんよね、それは」
「いえいえ、褒めていますよ。社交恐怖症の貴方が、まさか彼女のことをファーストネームで呼ぼうなんて!誰が想像したでしょうか。いいえ、誰も」
 それに、とリッパーは続ける。
「気になる女性のために、白黒無常に楯突くその勇気に敬意を払いましょう」
「ダイアー先生の、こと、は、その」
 言葉を詰まらせたイソップの前にワイングラスが突き出される。リッパーの片手にはすでに開けられたワインボトルが。ハンターは笑う。
「さあ、杯を。そんな話は固い表情でするものじゃない。楽しく、恥じらいなど全て溶かして語り合いましょう。そして、朝には全て忘れてしまうのですよ」
 グラスに注がれた血のような赤を、イソップは一気に飲み干した。

 抱き上げたエミリーは未だにくすくすと笑っている。不服げな表情で謝必安は笑う、腕の中のエミリーへと視線をやる。
「何が、そんなにおかしいんですか」
「おかしいの?」
「あなたが笑っているから」
「ふふ」
 口を尖らせている謝必安の頭に小さな手が乗せられる。そして、まるで拗ねた子供をあやすかのように撫でられる。体よく宥めすかされているようで、謝必安は口をへの字に曲げるも、撫でられるのはどうにも気持ちがいい。苛立ちも、胸の憤りも少しずつ溶かされていく。
 部屋まで何事もなくたどり着き、エミリーを寝台の上へと座らせて膝を立てる。
「ねえ」
「なんですか」
 三つ編みを軽く引かれ、謝必安はエミリーの方へと顔を寄せる。そして、近付いた顔にエミリーは自らの唇を寄せ、痩けたその頬に触れた。
 一瞬何が起こったのか理解できず、謝必安は目がこぼれそうなほどに大きく見開く。ふふ、とエミリーの口からまた笑い声が溢れる。
「おやすみのきす」
「おや、すみの」
 触れた箇所は燃えるように熱く、謝必安は酒をそこまであおってもいないというのに、顔に熱が集まるのを覚える。指先で唇が触れた頬をなぞる。エミリーはといえば、寝台に敷かれていた布団でくるりと体を巻いて、小さな玉のように転がる。
「あしたは、おはようのきすね」
「え、ちょ。あの、エミリー」
 言いたいこととやりたいことをやるだけやって、子供のように寝てしまったエミリーに謝必安は一人取り残され、寝息を立て始めてしまったその姿に眉尻を下げた。無理矢理叩き起こしたところで、酒の回っているエミリーから聞きたいことはおそらく、何一つ聞けはしない。
 きっと朝起きれば、彼女は何も覚えてはいないのだろうし、化粧も何も落とさず寝たことに頭を抱えて嘆くのだろうと謝必安は思う。
 寝台の端に腰を下ろし、その丸みを帯びた頬に手の甲で触れる。流石にまとめあげられていた髪だけは解けば、柔らかな癖毛が頬に触れる手にかかる。ゆっくりと体を倒し、その閉じられた瞼に口づけを落とす。眠り姫ではないので、目は覚めない。
 瞼。鼻筋。ゆっくりと唇を落としていく。唇同士を軽く触れ合わせ、その唇を舌先で合わせた唇の中で軽く突くも、謝必安は顔を離し、深い溜息と共に寝台に顔を埋れさせる。
「おはようのキス、約束ですよ」
 忘れていたら、それはそれで考える。