00:前方不注意要注意 - 1/5

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 日本でのボンゴレリング争奪戦に負けた後、結局あのジジイには謹慎を言い渡された。たったそれだけかよ、と鼻で笑ってやったら、ジジイは一つ悲しげな顔をして頭を撫でた。その手を思いっきり払いのけた。
 そんな胸糞悪ぃ愛情を誰が欲しがったって言うんだ。ふざけんな。
 結局その後、ヴァリアー本部で謹慎がとけるまで全員大人しくしていた。その間の吐き気がするほどの退屈さと言ったらねぇ。言葉にはしようができねぇ程の苛立ちだった。謹慎がとけてやっていることといえば、「ゆりかご」の前と変りなく暗殺部隊として役割を振られている。カス鮫にグラスを投げつけたり、山のような書類を睨みつけて他の奴等に押し付けたりなど。
 あまりに平穏で退屈すぎて死にそうだった。そんな死にそうな日々が延々と続くのかと思えば思うほど溜息をつきたくなる。時にマフィアを皆殺しに出かけたり、時に報復をしに来た奴等を返り討ちにしたり。そんなことをしている間だけ生きているという感じがする。  くだらねぇ。そう吐き捨てて日々を送る。そんな日々に一つ変わったことが起こった。

 

 酒を買いに行けとカス鮫に言いつけようと思ったのに、任務でいないことを思い出す。他の奴等も今日は全員それぞれに任務があってここにはいない。他の誰かを呼びつけるのも億劫で、結局夜の街を歩くことになる。
 ぽつぽつと見ていた人間も酒を買っての帰りはほとんど見かけない。誰か襲いかかってくれば返り討ちにでも何にでもして気晴らしができるだろうと思っていたが、そう都合よく出ては来てくれない。
 かつんかつんと靴が石畳を叩く。その音が冷えた空気に上って溶けた。息を吐けば白く染まった。少し肌寒く感じて肌蹴させていたコートを手で寄せる。
背後から間抜けな声と足音がうろうろと彷徨うようにして近づいて来た。殺気も何も感じないので注意を払わずに、買った酒をそのまま開けて、ぐいと飲む。喉が焼けるように熱く感じた。寒い肌がほうと火照り、冷たかった風も今では涼しいとすら思える。
途端、背中にドンと衝撃がきて、持っていた酒を危うく落としかけた。かっと頭に血が上ってぎっと後ろを振り返る。そこには女が一人いた。黒髪黒眼、象牙の肌でもう見るからに日本人である。日本人がこんな時刻に一体何を。
「I, I’m so sorry. I don’t look ahead」
 So sorry、と深く女は頭を下げる。
 カス鮫程長くはないが、それなりの長さのある髪が後ろで大層飾りっけもない黒いゴム一つで括られていた。あまりにも謝るので鬱陶しくなって無視をして歩きだす。
 本当にごめんなさい、と女は謝りそれからまた何も言わずに地面を見て歩き出した。そしてまたぶつかる。喧嘩を売られているのかと、その顔が腫れあがって目も当てられないくらいに殴ってやろうかと拳を握り締めた。が、女はまた謝った。Sorry、と。
「I have losed my glasses and looked for it. Have you seen it?」
 近視なのか、黒眼は闇の光も手伝ってはいるが大きく開かれていた。その収縮する度合いは酷く小さい。完全な、それもかなり極度な近視だろう。この様子では俺の顔もどうせ見えてはいない。ぼやけた人の形が映る程度だ。
 ひどい片言で酷い発音の英語は耳に耐えない。日本語を聞いた方がこれではましである。
 何故ここで無視をして帰ってしまわなかったのだろうかと、声をかけた後に後悔したが。
「見てねぇ」
「So…thank you.…?日本語が話せるんですか」
「話せなかったらこれは何語になるんだ、カスが」
 カス、と言われたことに傷ついたのかどうかは知らないが、女はしばらくぽかんと間抜けな顔をして口を開けていた。それから、小さく笑った。人に貶められて笑うなんざ、よっぽどイカれているらしい。
「有難う御座いました」
「ジャッポネーゼか」
「ジャッポ…?」
「…日本人か」
「はい、旅行で来ています。この先のホテルに今は泊っているんですが…あの向こうの教会を見に行った帰りに眼鏡を落としてしまったようで」
 昼からずっと探しているんです、と女は困ったように笑った。
 そんな時間帯からこの時間までずっと探しているならば余程の馬鹿だ。日が落ちた時刻で女の一人歩きなんざ自殺行為に等しい。
 話しかけてしまった手前、どうともなく話を続けなければいけないような気がして話しかける。
「とっととホテルにでも帰れ」
「でも、あれがないと私はとても困るんです」
「買やぁいいだろうが」
「駄目なんです。あれでないと私は駄目なんです」
 そう女はかたくなに首を横に振る。
 だったら勝手に探せと言ってそのまま無視をして帰ればよかった。が、帰ってもすることは何もない。下らない慈善に付き合うのはまっぴらごめんだったが、あまりにも暇だったのでそれに付き合うことにした。
「どんなやつだ」
 目が悪い女がこの夜の闇のなかでいくら探したところで眼鏡何ぞ見つかるわけがない。明日死体になって発見されていればそれもそれでいい気もするが、なんとなく寝覚めが悪い。それにこうやって付き合っていれば、誰かが喧嘩を売って来てくれる可能性もある。そう考えれば悪くない。
「手伝ってくださるんですか」
「手伝いもしねぇのに聞くか、とっとと言え」
 そう言えば、女はほっと安心したような顔をして有難う御座います、と二三度言った。感謝の言葉などに興味はないからとっととその眼鏡の特徴を言って欲しい。すごんだところで、女の眼は悪いのだから意味がない。
「黒縁の四角い眼鏡です」
 そんな平凡でありふれた(いや違った意味では貴重な)ダサい眼鏡をわざわざこの時刻まで探していたのか、とそう言おうと思ったがやめた。女はまたうろうろと地面に目を走らせながらそれを探している。
 ホテル、と言えばこの近くに一つ安いものがある。そこから向こうの通りにある教会までの距離は約一キロ強。
誰かに拾われていなければ、もしくは踏まれて壊れてさえいなければおそらくは見つかるだろう。
 かつんかつんと石畳を踏みながら地面を見やる。遠くまで視線をやって、探す。女も俺も、双方に会話はない。唯時々俺は酒を瓶から直接煽った。
 それから暫く、誰が襲ってくるでもなし、あての外れた眼鏡探しは続いていた。女は少し遠くで一生懸命探している。丁度その時、路地に入る手前の所にきらと月の光を反射するものを見つけた。
 近寄って手に取れば、それは女の言っていた黒縁で四角い、センスがなくダサいことこの上ない眼鏡だった。
「おい」
「はい?」
 女は曲げていた腰をのばしてこちらを向く。相変わらず目線がうろうろとさまよっている。それから女はこちらにこようとして、盛大にこけた。見事にこけた。
「…」
 女は土を払って立ち上がり、何事もなかったかのように近付いて来た。その女の手首を取って、その手の平の上に拾った眼鏡を乗せる。こうでもしないと落としそうである。
「見つかったんですか!?有難う御座います!」
 有難う御座いますと女は二度言ってから笑い、それからその眼鏡をかけた。童顔なその顔の上に、不釣り合いなどう考えてもファッションセンスのかけらも見いだせないその眼鏡が乗る。
 四角い眼鏡の奥の瞳と初めて目が合う。
「ああ、助かりました」
 それからまた笑った。この顔を見て笑う精神がまず信じられない。
 謹慎を命じられて、丸くなった覚えはない。それどころか暇で退屈で死にそうで、腹が立っていたからそれなりに不機嫌な表情ではあったはずだ。
 だが女は笑った。
「本当に有難う御座います」
 三度目の礼を言って、それから女は深く深く頭を下げる。このまま地面に頭がつくのではないかと思えてしまうほどに下げた。上げられた瞳がまたあった。
 ホテルまで行く道は結局のところ本部への通り道だったので送るはめになる。嬉しそうに眼鏡をかけて歩くこの日本人に特に言葉はかけない。肩よりも少し上に頭が来ていた。
 ホテルの入り口についてまた女は礼を言った。こう何回も言われては、いい加減いらっとしてくる。
 女を送るなんて、そんな面倒くさいことをよくしたものだと自分に感心しながら酒をあおった。礼を言われて、それで背中を向けて帰ろうとしたら、袖を引かれた。
「何だ…」
 少々不機嫌さが出てきて、眉間に皺がよる。女はそんな自分の手にマフラーをのせた。先程まで女の首に巻かれていたそれはまだ人のぬくもりを持っていた。
「手がとても冷たかったので、どうぞ」
「…」
 確かに寒かったので、貰えるものは貰っておくかということにして、それを受け取る。気をつけて、と女は向けた俺の背中にそう言葉を送った。
 気まぐれの結果は、血の匂いではなく、人のぬくもりのマフラーだった。
 空になった瓶を放れば、地面にぶつかってガラスの破片になってしまった。