大馬鹿もん - 1/3

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 筋張った拳が丸刈りにされている頭へと直撃した。重たい音が、音のない部屋に鈍く響く。
「馬鹿もん」
 包帯を巻きつけてベッドに座っていた男は、上背のある女に殴られた頭をさすりながら、片側の口の端を小さく持ち上げて減らず口を叩いた。
「可愛い可愛い部下の見舞いに来てくれたんじゃないんですか?大佐。もっと労って下さっても構わないんですよ。さあどうぞ、遠慮なく!」
 両手を差し出し、鬱陶しいほどの良い笑顔を浮かべた部下に上官は冷たい視線を送った。
「口を縫い付けられたいか、中佐。経過を見に来ただけだ。私の部隊人数が他と比較すると少ないのは分かっているだろう。お前のように頭を使う奴も少ないしな」
「成程成程。大佐も含め」
「馬鹿にするな」
「認めましょうよぉ、大佐」
 それで結構だと溜息をついた上官に部下は嘘臭い笑みを崩すことなく、喉を鳴らすような声をこぼし、隣のテーブルから水の入ったグラスを手に取ると口内を湿らせる。女が座るとやけに小さく見える椅子が小さく音を立てた。立ち上がるとより大きく見える。しかし、そこで女は部下の座っているベッドの頭の部分、つまるところ枕になるわけだが、そこからはみ出して見える雑誌に気付き、自然な動作でそれを引き抜く。あ、と小さな声が上がった。
 引き抜いた雑誌の表と裏を矯めつ眇めつ眺めると、上官は部下に軽蔑を軽く込めた視線を送った。それを受けた部下はへらっとだらしのない表情を浮かべる。
「いやあ」
「何が、いやあ。だ」
 ぱしんと大きめの音を雑誌が立てる。女が手にしている雑誌は、俗に言うポルノ雑誌であり、年齢制限がかけられているものである。尤も、女の部下の年齢は既にその領域に達しているので、雑誌を買うに当たっては何の不都合も生じない。
 男はひらりと手を振り、返してくださいよと上官に懇願した。女がそれを没収できる権利はなく、ただの一読書であれば返すのが全く妥当な線である。それを見越してのこの懇願であるのだから始末が悪い。素直な頼みであれば、女も、快く、とまではいかないものの、一言二言告げて返却する程度であるのだが、そうでないので小言で済まぬ説教が男の耳をつんざく。馬鹿もん。本日二度目となる単語を男は笑って受け止めた。痛くも痒くもないのは手に取るように分かる。
 お前というやつはと溜息と共に諦めがコロリと床に転げ落ちた。そんな上官に部下は痛む腹を使って笑う。大佐、と声が上官にかけられる。
「こんなまぐろ状態で楽しみと言ったらこれしかないではありませんか。あっ!でも包帯を巻き替えに来てくれる看護師の腰つきはもうたまりませんね!ミニスカートから今にも覗けそうな下着を想像するとどきどきします!検温の際に開いた胸元にときめかないわけにはまいりません!」
「…分かった。お前の手当てには女性ではなく男性を当てるように要請しておこう」
「殺生な!おれを殺すつもりですか!」
「やかましい!」
 怒鳴られた部下はううと啜りながら白いシーツに顔をうずめた。肩が軽く震えている。
「ひどい…ひどい、あんまりです…たいさぁ…」
 ぐすぐすと鼻を啜る音が静かな病室に響く。道理であるのに、上官である女は何故か自身が部下に酷いことをしたかのような錯覚に捉われた。次第に憐憫さえ催され、女は泣くな悪かったと一つ謝罪し、取り上げていた年齢制限をかけている雑誌を部下の手元に返した。しかしながら、男はそれがシーツの上に帰っても見向きもしない。代わりにそれは節の立った手で床にはじかれた。あれほど大切にしていた雑誌(もといエロ本)にこのような粗雑な扱いは一体どういうことかと女は首を傾げた。
 大佐。そう、部下は上官を呼ぶ。
「どうした」
 少しばかりは譲歩してやってもよいかと上官も先程よりか幾分柔らかくなった声でそれに対応する。ぼそりと男の声が落ちた。小さくくぐもった声は大層聞き取り辛いが、完全に聞こえないというわけでもなかった。小さな声で、男は言った。
「本物がいいです。もっとエロ可愛い水着姿の女性をお願いいたします」
「沈め」
 シーツに突っ伏していた頭を上から押さえつけて折り畳む。もふんと息を吐く音が響き、固い方ではない体ではあったが、真っ二つに急激に折り曲げられた男のそれは悲鳴を上げた。加えて、腹部に負っていた傷にも触ったようで、悲鳴が上がる。
 女が部下の頭から手を放すと、男はようやく角度0の状態で折りたたまれていた体を解放させる。口から突いて出てきた言葉は当然のごとく不平不満であった。
「何するんですか!仕事ができる上に爽やか系イケメンかつ愛くるしさも兼ね備えた非の打ちどころのない部下の切実な頼み一つ聞いてくれたって構わないじゃぁありませんか!」
「いい加減にしろ!ナルシストめ!」
「失礼な。おれはナルシストではありません」
 凛々しい面持ちでそう答えた男に女はならばなんだと律儀に質問してやる。それに男は胸を張って答えた。
「自分よりも女性の方が大好きです」
「もっとましなことは言えんのか」
「ましじゃないですか。二十代男性が言うに当たって健康かつ健全な発言でしょう」
 その返答を耳にした上官は付き合ってられないとばかりに顔を押さえた。男は手を伸ばして床に一度は落とした雑誌を手に取り拾う。まあとそれに一言付け加えた。
「映像機器も大歓迎です」
「訓練風景でもとって見せてやろうか」
「ひな大佐やたしぎ曹長らの女性隊員のでしたら大喜びです」
「筋骨隆々の兵士のものを送ってやる。そっちに回す鋭気を少しは回復に費やせ」
「上も下も毎日元気でいいことじゃないですか。部下の健康を喜んでください」
 それにもう真面目に答える気力もないのか、女は肩を落として諦めた。そして、その高い背丈を維持したまま、真面目な話へと切り替える。それにベッドに座る男は多少なりとも難色を示したが、声を荒立てて上官の言葉を止めることはせず、大人しく耳を傾けた。
「馬鹿な真似をするんじゃない」
 上官の言葉に部下は腹の傷をゆるりと掌でさすった。先程まで口元に浮かべていた、軽い笑みが消え去る。
「いけると思ったんです」
「…時にそういう行動も必要だが、自分の力量を見誤るな。死ぬぞ」
「死ねと言ったのはあなたなのに」
 昔のことを掘り返して、男は口角を小さく歪めた。だがしかし、それはすぐに女の言で覆される。
「無駄死にを推奨した覚えはない」
「無駄死にじゃないでしょう。おれの命と引き換えに市民が助かるなら」
「投げ槍な態度に部下を育てた覚えもない」
「この話やめませんか、大佐。どちらにしろおれはこうやって生きてますし、市民も助かったんです。結果よければすべてよし、でしょう。おれは何も間違ったことはしていません」
「そう考えているなら、私はお前を私の部隊から移動させる」
 上官の言葉に部下はやれやれとばかりに両肩をがっくりと落とした。自身の言葉が全く説得力のないことを本人が誰よりもよく承知であった。分かっていますよ、と不承不承に答える。一度は逸らした視線を上げ、上官へと目を合わせる。
「…少し、言ってみただけです。おれが自分の力量を見誤ったのが、まあ、敗因であることは分かってます。ですが、あの場で駆けつけられたのはおれだけでした。そうでしょう?あそこで二の足を踏めば、あの子の胴体には綺麗な穴がぽっかり空いていましたよ」
「子供を庇ったのは、お前の優しさだな」
「見直しました?」
 部下の軽口に答えることなく、上官は目を細めてみせた。
「以前から思っていたんだが、お前にはどうにも攻撃的な部分がないな。性格のせいか?」
「結構、攻撃的なつもりですけど」
 一度立ち上がっていた女はその背中を壁に預ける。軽い吐息が薄い唇の間から零れた。
「口はな。中佐。DEAD or ALIVEの手配書だからと言って、お前が彼らの人権を軽んじない態度を私は好ましく思う。だが」
「だが?」
「受け身でいては、その内お前は犬死するぞ」
「しませんよ」
 頑なに答えた部下に上官の女は反論をしようとしたが、男は同じ言葉を繰り返して差し止めた。
「しませんよ。犬死にはしません。なにせ」
 にかっと白い歯を見せて男は笑んだ。
「大佐がおれを守ってくださるでしょう?」
「あのなぁ」
「おれは、あなたの部下なんですから」
 言葉もない上官に部下であることを強調した男は続ける。
「お願いしますよ、大佐。信頼してます」
 あまりにもにこやかでいっそ嘘臭ささえ感じる微笑を顔に乗せた部下に上官は深く溜息を吐き、それを返答とした。