追うもの追われるもの

 凪いだ海面を泳ぐ一隻の甲板の上ではMARINEの帽子を各々被った屈強な男共が所狭しと動き回っていた。天候が変わりやすい新世界においてでも、島の周囲では気候が落ち着いており、穏やかな風が肌をさらった。その風の中に葉巻の煙が飛ばされるようにしてこよりを作り、すぐに潮風に飲み込まれる。
 きっちりと刈上げられた頭に海兵の帽子を目深に被り、燦々と降り注ぐ陽光を遮った状態で望遠鏡を覗く。ばた、と潮風がはらんで外套の二文字が大きく歪んだ部下がその島を覗き見ていた望遠鏡を下したのを見た。正しくは、男は、部下は島に停泊している海賊旗を確認していた。その部下の名前を呼ぼうと、二本咥えている葉巻を指に持ち直し、スモーカーは前方から吹き抜けていく潮風を肺に取り込んだ。口の中に海の香りが充満する。しかし、その名前が声という形になる前に、帽子のつばを指先で摘み取るとさらに深く引き下げた。外套の立ち襟の僅かな隙間から覗いた部下の口角はひどく好戦的に吊り上り、笑っている。
 楽しげな。スモーカーはそう感じた。洋服の下の皮膚が総毛立つ。心地良ささえ覚える程の感情が体の内には抑えきれない様子であった。
 視線は一点。望遠鏡を介してでしか確認は不可能な海賊旗にただ注がれていた。
「上官殿ォ。おれの獲物です。手出しは、不要ですよ?あなたも、」
 整った歯列が唇の合間から白を見せ、スモーカーは影の被さった鍔下に息を潜めた二つの光を認めた。
 色は薄いが、形の良い唇が弧を描いたまま言葉を紡ぎ出す。
「麦わらを捕まえるのは自分だと、そう、思ってらっしゃる。それと一緒です」
「…つまりは、そういうことか」
「そういうことです。殊、この一件に関してのみ、おれに一任して頂きたい」
 向き合った視線にスモーカーは葉巻を咥え直し、潮の香に一掃された煙の匂いを味わう。吐き出した白煙はあっという間に流れて消えた。
「勝手にしろ」
「僥倖」
 一陣。一際強い潮風が大きく軍服をはためかせた。

 

 潮風に混じった独特の臭いに雑踏の一人であった人間が立ち止った。
 頭の先から踝まで、黒く長い布に覆われている。その布を止めるのは頭に回された細い布であり、それは頭部の横でしっかりと括られている。強風に頭からかかっている布は捲られたが、しかしそれでも、それは地面から僅かばかり浮かんだ程度であった。中身の空気をその動きで交換し、布は何事もなかったかのように重力に従って下に戻る。
 布が捲れた際に見えたのは、黒いズボンと、同じ程度の黒のブーツである。その人間の肌は一切見えない。瞳すら視認できぬ様子はいっそ異様に見えるが、それを不便としている様子もなく、その体を布で覆い尽くしている人間は雑踏に再度紛れて歩き出す。動きに合わせて布はその体に追い縋った。様々な鮮やかな色が足元まで覆う中で、その漆黒は少しばかり異質にも見えたが、格好自体は皆似たり寄ったりなので、あまり目立つことはない。異邦人は肌を見せる服を着せたり、あるいは顔を堂々と日の本に晒しているが、ほぼ八割方の国民はそれをしていなかった。それが宗教なのかあるいは民族衣装なのかは、黒を纏った人間の知るところではなかった。しかしながら、上に一枚頭から踝までの布を被ることで、国民の態度は軟化する。成程、布一枚であれば安いものであるとその人間は思っていた。
 そしてその前後左右が分からない人間は、おそよ目があると思われる面を潮風が吹きこんだ方向へと一度向けた。嗅ぎ慣れた火薬の臭いである。さらにそれは、海軍が使うそれであることも、その人間は知っていた。
 黒い布から、黒い手袋をはめた手が出てくる。その掌の上には、特殊な方位磁針がガラスの容器に収まり、一方向を指示していた。そして、その人間は布の上からでも分かるように声を立てて、笑った。

 

 呷る。
 喉を一気に焼いたウイスキーのダブルが冷たいグラスの中から食堂へと流し込まれる。横に置かれたチェイサーなど素知らぬ顔で、ドフラミンゴはカウンターにグラスを戻した。
「ハーフロック」
 その注文に、窪んだ眼窩にぎょろ目の店主は小さく頷いた。照明を暗く落とし、雰囲気を引き立たせる音楽が壊れかけのレコードから奏でられる。所々の音は飛んでいるものの、それは古びた店内とよく合っていた。
 落ち着いた色をベースに作られていた店ではあったが、その中でドフラミンゴのコートの蛍光色は異色であった。目に痛いほどの桃色は、その隣に腰掛けているクロコダイルの僅かに緑がかった黒と比較すれば、なおさらその色を誇張した。ぽつんと浮いたその色ではあったが、ドフラミンゴは気にせずに、傍らに差し出されたハーフロックウイスキーを手に取り唇につける。
 一方、クロコダイルはストレートのシングルを片手にゆっくりとその濃厚な味わいを楽しんでいた。隣に座る男は、酒の途中で入ってきたのであり、クロコダイルにとっては不愉快の対象でしかなかったが、この店のウイスキーは大層旨く、他店に足を運ぶ気にもなれなかったので、話しかけられた時に半ば諦めを覚え今現在に至る。
 木目の上を軽く鉤爪でなぞり、クロコダイルは氷の入ったミネラルウォーターを口にする。右手で飲むことも可能ではあったが、それではウイスキーを味わうことはできず、当然唇にグラスの端をつけることとなる。
 酒が旨い店はおうおうにして水が旨く、それはこの店でも例外ではなかった。注文したウイスキーに合った、すっきりした味わいの、かつよく冷えた水が喉を潤し、ウイスキーの味をはっきりと浮かび上がらせる。グラスの中の透明で気泡のない氷が重なって揺れ、内側のガラスに当たって水を通した音を響かせる。外側には結露でいくつもの水滴が筋を作り始めていた。
 ドフラミンゴは肘をつき、素知らぬ顔をした男へとサングラス越しに不躾な視線を投げつける。
「どれくらい振りだ?」
「てめえの面見た日時なんざ逐一覚えてたまるか」
 冷淡な返答にドフラミンゴは片肘を付くと、つれねえ奴と相手を冗談交じりに詰る。
 左手が黒く流された毛皮のコートを指先で摘み上げる。クロコダイルはその仕草を見、あからさまに不愉快そうな表情を浮かべてドフラミンゴのその手を鉤爪で払う。おっかねえとドフラミンゴはまた笑い、残りのウイスキーを舌の上で転がし、食道で愉しむ。
「…あいつは、ここにゃいねえぞ」
 ようやくクロコダイルの口から発されたまともな言葉にドフラミンゴは擽るような笑いを弾けさせた。体を二つに折り、そしてケタケタと相手を嘲笑うかのように大口を開ける。
 ドフラミンゴの挑発にも似た行動にクロコダイルは眉を顰めたが、言を荒げるような真似はせず、ただしウイスキーグラスの隣に置かれていた冷水をそのまま笑い続ける男に向かって容赦なく浴びせた。ひぃ。笑いは未だに小さく堪えきれぬように続けられてはいるが、それでもその笑いは最小限に抑えられた。
「ああひっでえ。びしょ濡れじゃねえか」
「沸いた頭を冷やしてやったんだ。感謝されこそすれ非難される覚えはねえな」
「おめえ、その高飛車な性格どうにかなんねえの?くっそ。こいつ乾かすのは手間なんだぜ」
「そいつぁよかったな」
「よかねえよ」
 顔にかかった透明の粒を手で払いながら、ドフラミンゴは肩を揺らしながら椅子に腰かけ直す。床に落ちたものも多かったが、それでも僅かながらには羽毛で作られたコートにシャツに水分は染み込み、肌に纏わりつく感覚をドフラミンゴは覚える。このピンクのコートが水鳥のそれであれば、水をも弾いたのだろうかと、考えたが詮無いことであることなので、軽くかぶりを振ってその考えを払う。
 クロコダイルは酒の肴を注文し、それを摘みながらアルコールを存分に堪能する。そろそろ、ログポースが溜まるころであるが、肝心のそれは相方が持っているので確認はできない。
「くれよ」
 眼前の料理を味わっている男にドフラミンゴは口角を大きく歪めてそう問うた。動きを止めた男に、サングラスを右手で直しながら、質問者は続けた。
「皿のソレじゃねえよ。勿論」
「てめえの頭にゃどうやら鳥の毛が詰まってるみてえだな。一度そのひよこ芝を刈り取って、開頭手術で確認してみたらどうだ」
 強烈な嫌味を笑ってやり過ごし、ドフラミンゴはクロコダイルの皿の上から肴を一摘み、横取りして、大きく出した舌の上に落して嚥下した。赤い舌先で唇を一舐めすると、目元に力が入っているのか、筋肉の形に添って皺が寄る。
 一寸サングラスを一枚通して視線が混じり、しかしそれはすぐに解放された。互いにくだらないとばかりに、目の前の大層旨い酒を呷る。
 左手でグラスの縁を一撫でし、ドフラミンゴはなあと会話の再開を試みた。
「そいつは置いといて、だ。ワニ野郎」
 なんの他愛もない話を切り出そうとしたその矢先であった。けたたましい音と共に扉が押し開けられる。黒い布を踝まで被った乱入者は大股で床を踏みしめ、男二人酒盛りの場へと歩を進める。捲れた裾からはごついブーツが覗く。
 一般人と比べれば、その人間は十分すぎるほどに大きい部類に入ったが、規格外の大きさを誇る二人からすれば、その高さも比較にはならなかった。大きく踏み出された足は布を押し上げたが、余りある布はその足を晒すに至らない。しかし、布の切れ目から飛び出した腕は洋服にその皮膚と内部をおさめて顔に傷のある男へと伸びた。見ろ、とばかりにその黒い手袋が掴むログポースを差し出す。布を通した、少しばかりくぐもった声が、至極楽しげに飛び跳ねる。クロコダイルは、布が捲れずともその人間の現在の表情が手に取るように分かった。
「こいつを飲み終わってからにしろ」
「ああだがなあ、困ったことにだ」
 クロコダイル。
 その布を纏った人間は元王下七武海の一角であった男を気軽にそう呼んだ。黒の布が動きに合わせて揺れる。そうして、ざわと突然騒がしくなった背後の出入口を親指で背中越しに指差した。
「どうやら見つかったみたいでな。お前の酒は、」
 この通りだ、とクロコダイルの手に掴まれていたグラスを奪い取り、その長い布からようやく顔の一部を見せると、ストレートのそれを一気に飲み干した。平然とした調子で、ああもうない、と続ける。
「旨い酒だな」
「…てめえに飲ませるにゃ勿体ねえ酒だ」
 軽い舌打ちと共にさも億劫そうに立ち上がると、クロコダイルは懐から二人分の酒代をカウンターに置いた。丁度隣に座っている男とクロコダイル本人が注文した料金、それにチップを上乗せした代金である。それにドフラミンゴは、ひらりと手を振って礼の代わりとした。
 長い布の奥には、二つのくっきりとした目が、楽しくて堪らないとばかりにきらきらとまるで子供のように輝いていることを、クロコダイルは悟る。そして、同時に吐かれた溜息と共に、店内に銃を携えた海兵が銃口を海賊二名に固定したまま突入した。動くな、と海賊にはどうにもおかしい言葉で生死を図る。
 全員涸らしてとっとと出航するかとクロコダイルは右手を乾かしたが、しかしそれよりも先に腹部にかかった自重による圧迫に眉間に縦皺を幾本も寄せた。
「オ、いッ」
「すまんな、店主」
 一言の謝罪と共に、己よりも頭一つは高い男を、黒を纏った人間は軽々と肩に担ぎ上げた。ドフラミンゴは、その楽しげな声音につられるようにして両の口角を釣り上げる。下せと抗議するクロコダイルを余所に、その黒い布に包まれた人間に話しかけた。
 無論、男はその正体が誰であるかを知っていた。
「こりゃ、ウイスキー二杯じゃ足ンねえなァ」
「ではドフラミンゴ。また海で会い見えた時には、酒に溺れるほどに飲ませてやろう。足りるか?」
「おれぁ、酒よりも女に溺れてえ。というより、まあ、そうだな。おめえに溺れたい。白いベッドがいい」
「言う」
「言うさ」
 ミト、とドフラミンゴはクロコダイルを担ぎ上げている海賊の名を呼んだ。布下の口が不敵に笑んだ、そんな気がドフラミンゴはした。
 ドフラミンゴの軽口にミトは肩を揺らして大いに笑った。銃を構えている海兵はその大層、身震いさえ覚える程の愉悦を含んだ呵呵大笑に動きを止める。
 笑いを一度止め、海賊は布越しに大男を仰ぎ見た。
「お前の相手をするならば、ベッドよりも甲板で拳を交える方だな。残念ながら」
「フッフ、色気のねえ。いいさ、そっちもおれァ嫌えじゃねえよ。ベッドでのお楽しみは先に取っておこう」
「ベッドが湿気るぞ」
 テンポの良い切り替えしに肩を揺らしながら、男は椅子からようやく立ち上がった。
「貸しだ。ツケとけ」
「おい、誰がてめえに」
 貸しなんぞとクロコダイルが不満をぶちまける前に、クロコダイルを抱えたままの女は壁を平然とした顔で蹴破った。蹴り割られた木片が視界を横切っていく。入口付近で銃を構えていた海兵の顔に一斉に緊張が走り、構えていた銃が固く握りしめられ、照準がしかと男を担いだ黒布の人間へと合わせられた。しかし、その銃口は彼ら自身の手によってあらぬ方向へと向けられる。楽しげに口元を歪めた、人を操ることで有名な男がその指先をマリオネットでも持っているかのように動かす。
 背の攻防を後ろ目で確認し、黒服の女は蹴破った穴から男を担いだまま飛び出した。着慣れない服が、動くたびに纏わりついて動きを阻害するのか、普段よりも動きが悪い。クロコダイルは角を曲がった時点で、下せと再度船員に命じた。
「そうはいってもなあ」
 しかしミトはそう暢気に返す。切り返した曲がり角の先に銃を抱えた海兵が誰かを探すかのように完全に統率のとれた動きで、その先行きを阻む。
 この現状において土の上を走るのは効率が悪いと判断したのか、ミトは地面を強く蹴りつけると、一軒の屋根の上に上がった。人間の視線というものは往々にして自分の頭よりも上に行くということは少ない。さて。ミトは肩に抱えた男をようやく屋根の上に下した。下したと同時にその頭に拳骨が飛ぶ。
 クロコダイルは眼下を眺め、その海兵の精密とさえ呼べる動きに顎をさすった。成程、船に辿り着くには、どの道を行ったところで海兵と遭遇するように配備されている。その上、小隊に分かれているのだが、その互いの距離はすぐに援護に迎える距離でもある。
 そこで思考を遮るように黒布を通してのくぐもった、堪え切れていない笑いが空気を震わせた。まだ頭から被っている布のせいで、顔は確認できない。
「脱いだらどうだ」
 そう提案したがそれは、布が揺れるに終わる。手間だ。返された後には笑いが続く。
 愉しそうな顔をしているのだろう。クロコダイルはそう確信した。
「面倒臭ぇ。突っ切った方が早かねえか。大した連中でもねえ。ダズは船だ」
「しかしなあ、」
 そうは言うけれど、と布の隙間から望遠鏡がぬっと飛び出し、港に停泊している船を覗く。視線の先にある船の周囲に海兵は配置されていない。本来であれば、一番に叩いていいはずの船である。
「売られた勝負は買うのが筋じゃないか?どうにも挑発的だ。それにまあ、多分あれだ」
「何だ」
「…いいさ。行こう」
 問いに答えが返されず、クロコダイルは顔を顰めたが、しかし追求することはなく、黒が飛んだ屋根の隣をほぼ並行して走る。ざ、と風が吹くたびに砂が一つ二つ持って行かれ、土へと帰っていく。
 下に小隊をなしている海兵は頭上で移動する海賊のことなど目に入らないのか、丁度今し方通り過ぎたばかりの店に入り海賊の有無を確認する。クロコダイルはそれを眺め、目を細めた。しかし、そこでふと足を止め、気にもしなかった背後の街並みを見渡す。だがしかしそこには、隣にいる船員と同様の格好をした、全身を布で覆った人間の姿しか視認することはできない。
 ここにきてクロコダイルは本日初めて、制止の言葉を前方へと体を放り投げようとしたミトへと投げた。大きく黒衣が波打ち、その動きが止まる。
「どうした」
「誘導されている。見ろ、通り過ぎた通りにゃ海兵がいねえ。通りに兵を配置したのも通れねえようにするためじゃねえ。移動を屋根の上に限定するためだ。この様子じゃどっかの高台からおれたちの移動は確認されて、伝電虫で筒抜けだな」
「下りて海兵なぎ倒しながら船まで走るのか?それなら、誘いに乗ってやって港で一網打尽にした方が賢い」
「…少なくとも、一網打尽ってぇ言葉はおれたちが使う言葉じゃねえよ。この場合は」
 尤も負ける気など皆無である。
 クロコダイルは暫く口を噤み、二三分の間の後に方向を真逆に、踵を返す。そっちは崖だと口を挟んだミトに構わねえと短く返して歩き始める。黒布で身を固めたミトは少し考えてその横に付く。
「どうする?」
「ダズの奴にゃ、海軍が来た場合の対処法をいくつか命令してある。大体てめえにゃ、便利な足があるだろうが」
「…それ、なんだがなあ」
 とうとう屋根が途切れ、人ひとりいない断崖絶壁一歩手前に足をつける。
 珍しく歯切れの悪い女にクロコダイルは声をかけようとし、しかしそこで口端を大きく歪め、息を吐いた。成程。そう呟くと同時に、ほらなと隣の女が見越したかのような発言をした。
 視線の先、道の隙間から隠れるように身を潜めていた海兵がぞろりと姿を現す。その中央には一人、隻腕を海軍コートに隠した男が立っていた。スーツに革靴という変わり映えのしない格好をしたその男は目深に被った海軍帽のつばを親指で軽く持ち上げる。
 そして、
「どーもぉ、元王下七武海サー・クロコダイル。それとその船員、」
 男は軽く首を傾げて見せた。女性を誘うかのようにその両口端をゆるりと持ち上げ、蠱惑的な笑みを作る。
「絶刀のミト」
 その名を口にすると同時に海兵は強烈な勢いで地面を蹴り、自身の武器を突き出した。すでに奪われた片腕は義手になってはいたものの、それでも生身と遜色ないだけの動きを義手は果たした。
 確実に心臓を捉えたと思われた棒の先端は布を突くだけに終わる。中身のない一枚の黒衣が棒に巻きつけられ、その側面には布の余った部分を腕に固定した海賊が一人、立つ。布同士の摩擦で棒は完全に自由を奪われている。海兵は瞬間、息を飲み、しかしその動揺を瞬時に切り払うと、ホルスターに収めていた短銃を引き抜き、その海賊に銃口を合わせた。引き金が躊躇なく引かれ、轟音と共に弾丸が発射される。
「ほう」
 愉悦混じりの、痛苦を一切伴わない息が黒衣を脱いだ海賊から発される。男と見紛う程の体長に、短い髪。戦好きのその面を海兵はよくよく知っていた。
「外しましたか。腿を貫通したかと思ったんですが。変わらず、お速い」
「お前は変わったな。いい、戦い方だ。それから、」
 地面を引きずる布を、ミトは放った。
「いい面構えだ、ギック」
 かつての上官の言葉に男は満足げな笑みを顔一杯に広げた。それと合わせるかのように、指を打ち鳴らす。一体何の合図かとクロコダイルは目を眇めたが、その答えは即座に出た。
 暗くもない昼間から松明に火がともされる。半円を描くよう配備された海兵の手にはそれぞれ煌々と熱を持った火が焚きつけられていた。理解の及ばない行動にクロコダイルは顔を顰めたが、それに気付いたかのように海兵は薄く笑う。
「カヤアンバルは、火が嫌いでしたね。絶刀」
「全く、くだらんことはよく覚えているな」
「はは。おれの有能さは折り紙つき、でしょう?」
 身の丈ほどもある棒をまるで生物のように扱い、くるりと回し、先端を地面すれすれまで落とし構える。斜めになった帽子のつばから覗く瞳は獲物を定めた肉食獣のように瞬いた。
「さて、どうされますか。背後は断崖絶壁。お隣の海には大層嫌われている海賊を抱えて海に飛び込むわけにもいかないでしょう?大人しく捕まりますか?それとも、我々を倒してどうにかなされますか?それから、サー・クロコダイル。その絶壁の下には船を回せないよう、軍艦はきっちりと配置しておりますのでご心配なく」
「…何が心配なく、だ。タヌキめ」
 忌々しげに舌打ちをしたクロコダイルの隣で、突如弾けたような笑い声が空を貫いた。それにはギックも驚いた様子で、帽子の下の目を丸くする。気持ちが良いほどの大笑いをようやく止め、そして、その場にいた女海賊はこう言った。まだまだだな、と。
 その真意をギックが悟る数秒前、そしてミトはクロコダイルをもう一度抱きかかえた。肩に担ぐ、というよりももっと直接的な、まさに抱き着いて飛び降りた、という表現が正しい。絶壁下に背中から、毛皮のコートが視界を一瞬奪う。視界が奪われる一瞬、その刹那手前、クロコダイルはしまったとばかりの悔しげな表情をした海兵をその眼底に映した。
 落下方向とは真逆に負荷がかかる。
「そうだったな」
 そう言えば、とクロコダイルは空気を蹴って走るミトへと呆れ返って話しかけた。
「流石に何kmも走れはしないが、まあ、船までなら走れるだろ。落ちたら落ちたで、泳いでいこう」
「…おれぁ、生憎と泳げねえんだがな」
 ぼやいた言葉にミトはからからと楽しげに笑う。海上にいた軍艦が砲弾を打ったが、それはクロコダイルが砂の壁で方角をずらして防ぐ。背後ですさまじい水柱が上がった。降り注ぐ海水が頭を打つよりも速く、女は移動をする。
「引っ張って泳いでいくさ、キャプテン」
 船員の嫌味なほどに頼もしい言葉に、船長は深い溜息を吐いた。

 

 よかったんですか、スモーカーさん。
 部下の言葉にスモーカーはぷかりとトレードマークのように煙を葉巻でふかした。
「何がだ」
「…ギックさんに一個小隊権限を与えても。その、あの島に停泊しているのはクロコダイルで、それから…」
 たしぎがひどく言いづらそうにした内容を察し、スモーカーは別に構わねえだろと全てを言い終わる前にそう告げた。海上に浮かんでいる軍艦の甲板にはかもめが数羽、日向ぼっこのように留まっている。
「私には、分かりません。彼が必死になる理由も、何もかも」
 唇を引き結んだたしぎの頭をスモーカーはぐるりと大きく掴むようにして撫でる。眼鏡が大きくずれ、たしぎはそれを慌てて直した。
「スモーカーさ、」
「帰ってきたみたいだな」
 戦果はねえようだが、と付け加えたスモーカーはたしぎの頭を掴んだまま、そちらへと向けた。そして、一歩、板を踏みしめて歩いている男の顔を見させる。
「よく見とけ。あいつは馬鹿だが…まあ、後悔はしねえ生き方してる」
「…よく、分かりません」
「分からないと悩むあなたのお顔もとても色っぽくて素敵です、大佐殿。悩める女性というのはどうしてこうもそそられるんでしょうか。そう思いませんか?上官殿。おっと、ひょっとしてそんな悶々とされておられた邪魔をしましたか?いやはやこれは失礼しました。上官殿がムッツリとは露知らず…」
「いいから、報告しろ」
 苛立ちで葉巻を噛みきる前に、スモーカーは眼前の部下に命令を下した。怒りで血管が切れる日もそう遠くはないのかもしれない。
 怒りを飲み下しながら、スモーカーは報告を聞く。
「逃しました」
「逃がした、ではねえな」
 上官の言葉に部下は含み笑いを一度し、そして被っていた帽子を取り払うと、その眼を一切の迷いなくぶつける。
「おれは、海兵です。上官殿」
 その言葉にスモーカーは、そして満足げに葉巻を吸い、そしてふかした。
「そうか」
「当然です。何しろおれは、」
 あの人の部下だったんですからと、そう続けた言葉は自信に満ちていた。