海賊と海兵 - 1/2

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 目の前の男を眺める。
 口に咥えた二本の葉巻からはもうもうと煙が立ち上り、それがスモーカーの視界における視認をある程度妨げていた。
 しかしながら、彼にとってはそれは日常茶飯事の出来事であり、今更ながらにして追求すべき事柄ではなく寧ろ、その状況に、一般的に見れば葉巻を灰皿において視野を明瞭にすべき光景を甘んじて受け入れていた。否、進んで受け入れていた。
 スモーカー、まさにニコチン中毒者にうってつけの名前の男は葉巻の煙が反対にあった方が、世界がよく見られるといわんばかりの態度で椅子に座り、そして向かい側に座っている大佐階級の男から視線を外し、手元の書類へと眉間に一つ二つと皺を刻み込みながら単語を追うようにした。単語は、目に入り頭を回り、そして耳から抜けていった。デスクワークを進んで片付ける程、そのニコチン中毒者はインドアな人間ではなかった。フィールドワークを好み、小難しいことは考えずに十手を振り回し海賊を捕える。そんな単純作業の方が余程性に合っている。
 スモーカーはそう思った。そしてそれは正解であると、十分に認識もしていた。尤も、自分がペンを片手に書類と向き合ってサインばかりを日々単調にこなす姿はどう考えても想像の一つも出来はしなかったし、そんなことになった暁には、ヒナ辺りが自分を病院へと引きずっていくことだろうとスモーカーは辺りをつけた。間違っていない自信もあった。
 手にしていた紙片を机の上に放り投げたスモーカーは向かいから見られている事実に気付き、顔を軽く持ち上げた。したり顔の男がソファにコートを肩に掛けたまま座っていた。両側の口角がつついと持ち上げられ、男の顔は歪む。せり出している喉仏が上下に動いた。
「どうしました?おれ、准将殿が見惚れるほどに男前ですか?」
 一種のナルシストにすら聞こえる発言であるが、これは単にこの男の遊びであることをスモーカーは知っていた。ただ人の反応を見て楽しんでいる、性質の悪い趣味である。もとより眼前の男の性格が良いと思ったことなど一度も無かった。そしてその可能性は将来的に見ても皆無であることは確信に近い。確信しているのかもしれない。スモーカーはばつが悪そうに、咥えていた葉巻二本から大きく煙を吐き出した。先の温度はおそらく上がっているだろう。そんなことを考える。
 黙ったままのスモーカーに男は、スモーカーの部下である大佐階級に昇格した、元上官は現在海賊である男は緩やかに笑う。
「こんな密室にむさくるしい男二人で閉じこもっているからそんな変な気も起きるんですよ、スモーカー准将」
 たしぎ少尉を呼んでくださいと男の舌が滑る前に、スモーカーは誰がだと男の言葉を無理矢理遮った。粗暴な自分に駆け足でついてくる、不器用で間抜けだが、しかし海兵としての素質は十分にある部下をこんな男の餌食にする必要は、スモーカーには一片たりとも見出せなかった。男はその笑みを口端から次第に深めていく。どうにも人の神経を逆撫でする顔をしている男だとスモーカーは心の底から思った。顔の造りのせいなのか、はたまたその笑い方のせいなのか分かりはしなかったが、それは問題ではなく、その結果を重要視した。この男は腹が立つ。それが、スモーカーの見解であった。
 スモーカーは考える。その人を食ったような笑みの下にこの男は一体何を思っているのだろうかと。あの女が、最後の最後に己に託した部下達の中で一番癖の強い海兵が何を考えているのか。血の臭いをスモーカーは覚えていた。目を閉じれば、今でも思い返すことが可能なほどに鮮明にその光景は記憶に残っている。薄暗く並ぶ拘置所の一室に生乾きの血で染め上げられ、正義を足で踏みにじった女。その女が掲げていた正義の下のみに大人しく従った男。スモーカーは煙を吐いた。
 机の上に放られた書類を男は拾った。目を細め、その内容を左から右へと読み進めていく。一通り目を通したのか、男は手にしていた書類をスモーカーにつき返した。酷薄な笑みは変わらない。細められていた瞳はさらに糸のようになり、スモーカーの窪んだ眼球へと刺さった。差し出された書類を手にしようと、スモーカーはごつい手袋をはめた手を伸ばす。しかし指が紙に触れる前に、それは男の口元へと移動することによって黒い手袋から逃れる。
 酷く癪に障る。スモーカーは咥えていた葉巻の煙を精神安定剤の一種として深く吸い込んだ。吐き出す。それと同時に、スモーカーは尋ねてみた。取り立てて理由など必要ではなかった。そもそも、己が誰かに質問するのにそんな細かい理由が必要だろうかとすら思えた。
「随分と悠長だな」
 始めは多少の皮肉を含んでいたようにも聞こえないではなかった。しかし、スモーカーは雄弁故に人を煙に巻くのが大得意な新しい部下を逃さないために、それから先の言葉を遠慮なく突きつけた。こんな男に遠慮などという上等なものは必要ない。
 一拍の間が、息継ぎとしてもたれる。
「てめぇの上官が海賊に寝返ったってのに」
 男は持っていた紙を非常に自然な動作で、口元を隠すように動かす。扇のようにその紙片は男の顔を仰いだかのように見えた。つるりと刈り上げられた頭には風に揺られる髪の毛は一筋も残ってはいなかった。
 スモーカーは人を試すような反応を返した男にさらに続けた。随分と悠長だな。皮肉も多分に含まれていることに対しての自覚は十分にあった。しかし、スモーカーは問うておきたかった。近いうちにと思いつつも、いつの間にか話の筋を逸らされてしまい、怒鳴り散らした結果、この男は飄々とした顔をして巡回に去る。尋ねておきたかったのは何故なのか、その理由は明らかであり、しかし不明瞭であった。質問の本質を理解はしているが、それを言葉にすることはスモーカーにはできない。そういう行為を常日頃さぼりがちだったつけが回っているのだろうか。ヒナがいれば、だからスモーカー君はと自分を笑うのだろうとスモーカーはそう当てをつける。
 現在上官である海兵の問いに、男は言葉を舌に滑らせた。その滑らかたること、耳にいっそ心地よいほどである。男の声はこう切り出した。寝返りも何も、と。
「あの人にははなから海賊船の方が、軍艦よりも余程似合いでしたよ」
 そうして、ほうと溜息のような吐息が男の口から零れ落ちる。それに合わさって小さく、本当に小さく海にと続く。海に帰ってしまわれたのですねと。思い返すように、思い出すように男はそう呟いた。上官の聴力を見越しての発言であろうから、その声をスモーカーはかろうじて拾うことができた。それほどに小さな声であったのだが、しかし音を拾うことは十分にできたために、スモーカーは煙をくゆらせた。
 彼の上官は海に帰ったのだ。違う。
 そうだとスモーカーは思う。あの女は海に帰ったのではないと。あの女は、海に行っただけだと。そう考え直した。帰る、という言葉は正しくなどない。それではまるで。スモーカーは咥えていた葉巻のうち一本を指で挟み、一度口から開放する。けぷりと白い煙が大量に口から溢れだした。
「…それで。てめぇは海賊になった上官をどうするんだ」
 もう一度葉巻を咥え直す。海賊になった、と部下の言葉を軽く否定しておく。帰ったのではない、行ったのだと否定する。あの時、スモーカーはそう思う。拘置所で最後にその横顔を見た時、あの女は既に死んでいたようにスモーカーには思えて仕方ない。目など虚ろで、光の差し込まない洞窟よりもなお深い暗闇の中に頭を突っ込んだような気分にさせられたことは、いまだにしっかりと記憶に残っている。拘置所の雰囲気もそう思わせるのに一役買ったのかもしれないが。どちらにしろ、あの顔は死んでいた。それは最期の顔であり、最期の姿であったのだ。スモーカーは今でもそう信じて疑わない。だからこそ、その一報を受け取った時、あの女は海賊になったのだと思った。間違っても、海賊に帰ったなどとは思わなかった。なにしろ。あの女は。
 スモーカーの思考を遮るように、喉を震わせるような笑い声で空気を揺らしながら、男の声が鮮やかに咲いた。酷薄な笑みの底に潜む感情が一体何であるのか、スモーカーは考える。裏切られた悲哀か憤怒か喜々か。それとも、そのどれでもないのか。裏が多すぎるために表がどれか分からなくなった男の表情をスモーカーはその目付きの決して良いとは言えない双眸で映した。
 口角が吊り上げられ、それは三日月のようであった。ふと七武海の一角を担う男の顔を思い出し、スモーカーは僅かに目を細める。器用に三日月にされた唇から零れた言葉はまるで、どこか遠くの音に聞こえた。
「これはまた奇異なことをおっしゃる、スモーカー准将。我々は海兵なのです。それ以上の答えが必要でしょうか。海兵の仕事は海賊を捕え、市民の平穏を守ること。違いますか?」
「違わねぇな。だが、おれが聞いてンのはそういうことじゃねぇ。はぐらかすな」
「おおっと、准将殿。そんなにおれの繊細かつ壊れやすいガラスハートを抉じ開けようっていうんですね?やだなーもう。おれのハートを覗いていいのはベッドの中だけですよ?…ひょっとして准将殿。そちらの趣味がおありで?もしよかったら、イイお店紹介しましょうか?良心的ですよ。まーおれはそっちの気はないんで。いやいや、気付かずに申し訳ない!」
 男は子供のような笑顔に瞬時に切り替える。言っていることは、少しも、一片たりとも子供の良心は含まれていない。しかし、その揶揄に乗ってこない上官に部下は口元に意図的に乗せた笑みを取り払った。そして、つまらなさそうな顔をする。ああ、と零れる。
「つまり?おれが大佐を捕縛できるか否かを聞いてるわけですね?あなたが心配される気持ちも分からないではありません。なにしろおれはあの人を大層信望していた。あの人の言うことだけは素直に聞き入れた。あなたはどうか?ええ安心してください、准将殿。あなたの命令ちゃぁんと聞きますから」
「だから」
「そういうことじゃない。分かってますって、最後まで聞いて下さいよ。准将殿の葉巻が終わるまでにはおれのカワイイ話も終わります」
 いちいち人をおちょくらないと話を進めることができないのか、男はからから笑ってそう言った。けれども、笑っている表情の上部、二つ並んでいる目玉は少しも笑っておらず、それが少し不気味にすら、スモーカーには感じられた。
「好きですよ?准将殿」
「違う」
「冗談です。いえ、あなたのこともおれは好きですよ?嫌いではない、ではなく、好きです。准将殿は見ていて面白いですし、からかっても面白い。突いても面白いですし、青筋立てて怒鳴り散らす様は芸術です。でも准将殿は違うんです。だから同一視はしません。そこだけは、覚えておいてください。それから、おれはあの人を許してないんで。だってひどいでしょう?勝手が過ぎます。いくら何でもやりすぎです。取り敢えず、おれはあの人に聞きたいことがある。聞かなくてはならないことがある。だからと言って、捕縛とはまた別の話です。なにしろおれは海兵ですから。そこは信用していただけると大変助かります」
 そこまで一気に言い切り、男は机の湯飲みに手をかけ、一気に逆さまにした。喉が動く。空になった湯呑が机に戻される。
「じゅんしょーどの。あのですね、」
 したがあかくのぞく。
「おれはあのひとを」
 あかかった。とても。眩暈がするほどの、赤であったように思えた。
 そしてスモーカーは男とその日交わした最後の単語が何であるか、覚えていなかった。

 

 それは同じ赤であったようにすら思え、スモーカーはその話を、まるで相手の走馬灯を一瞬覗き込んだかのように思い出した。瞬間的に、それは刹那であったが、記憶が通り過ぎるには十分な時間であった。
 肩に重く掛ける形のコートから何かが伸びている。乾いた音が地面に転がり、力強い手がその長めの棒を取り落としていた。白いコートの下から見える二本の足がたたらを踏んでいた。白い背中にまるで刺青のように刻み込まれている文字を裂いているのは何であるのか、それを認識するのにスモーカーは多少時間を必要とした。眼鏡をかけたどじな部下の名は叫び慣れていた。馬鹿野郎とその言葉と同じくらい、その名前は呼んでいた。けれども、スモーカーはその単語を大声で発音するのはほとんど初めてで、声が裏返ったかのように感じた。裏返ったのかもしれない。コートの向こうの巨躯が部下と同じくらいの身長になる程度に屈められている。足を開き、大きく踏み込んでいるためであった。そして、体の寸借に合わせるように長い手足のさらにその先、突き出した方向には部下の黒い服が存在した。拳を叩きつけただけなのかと、しかしそうではない。しろが、あかくなる。
「ギックさん!」
 たしぎが叫んだ。スモーカーはその声を聞いた。腹部から背部に突き抜けていたのは、一本の刃であった。白い、否、それすらも鮮血を纏っているためにつるりと赤色を衣として羽織っていた。正義を負った背が咳き込んだために軽く振れる。憎まれ口をたたくしか能のない唇から言葉以外のものが散った。それもやはり赤色であった。名前を呼ばれているにも関わらず、男の視線は腹に刀を突き立てている人間のみに注がれていた。何か言おうとしているのか、しかし腹に一寸力が入らないのか、血がまた零れる。
 一瞬は、まるで永遠のように長く感じられた。時計の針が動いたのは、刀を突き立てていた人間が、それを横に引き裂いたときであった。ぶつんとかなり乱暴に脇腹から横に切り裂かれる。地面に眩暈がするほどの血液が飛び散った。腹を裂かれた男は、とうとう倒れた。
「ギック!!!」
 スモーカーは吠えた。そして、信じられないものを見る目付きで男の腹を切り裂いた海賊を見た。赤い瞳が、そこにもあった。
 倒れた体をたしぎの腕が支えるのをスモーカーは視界で捉えた。女の腕では力の抜けた男の体は重たかったのか、もしくは刀とは違う人の体は受け止め辛かったのか、たしぎは膝をつく。何故だろうか、スモーカーはふつりと腹の中に沸き立つような怒りを覚えた。お前を信じて追いかけている奴を、こうも無残に斬って捨てるのかと。腕に白い煙にとけ、そのまま立っている女に拳が飛んだ。しかしそれは刀の峰で弾かれ、手袋には黒によく似た赤が付着した。
 海賊は海兵を見下ろしていた。たしぎは腕に抱えた上官を守るようにして刀を構えるが、海賊である女はそれ以上何かをすることはしなかった。ただたしぎが抱えている男へ一瞥をくれる。たまらず、女の、元同僚の名をスモーカーは叫ぼうとし、しかしそれはたしぎの腕から響いた声で遮られた。動いてはいけないとの制止の言葉も男は無視し、たしぎの腕から立ち上がる。数歩歩いてよろけてこけそうになるがどうにか踏ん張り、二本の足でどうにか立つ。そして、佇んでいる彼の元上官の腕を掴んだ。立ち入ってはいけない雰囲気に、スモーカーもたしぎも唾を飲んだ。音が震える。
「たいさ…!」
「死ぬぞ」
 冷たく吐き捨てた海賊に海兵は首を横に振った。口元の筋肉が痙攣するように引き攣り上げられる。
「どうせ!どうせ致命傷じゃない傷つけ方してるんでしょう。あなたそういう人だ」
 は、と下を向き、男は血と息を吐き出す。涙声がそれに混じる。
「おれは…ただ、聞きたい、だけなんです。そっちに、行きたいわけじゃない。ただ知りたい、だけなんです。かってに、いっちゃったの、怒ってるんですよ!確かに!あなたの何を聞いたところで、おれたちはそっちにはついていけませんよ!それだけは、できない。おれたちは、海兵なんですから…ッ!でも、でも大佐。たいさ、巻き込みたくなかったの、分かります。分かりますけど」
 男は顔を上げた。
「おれたちだって、」
 そこから先の言葉は続かなかった。続けられなかったというのが正しい。眼前の光景をスモーカーは理解できなかった。理解するのに、時間を要した。飛んだのは何だったのか。人形のそれだったのか。まるでゴムのようだった。視界を舞ったのは、人体の一部だった。悲鳴が続いて聞こえる。それは酷く短いもので、あ゛、と濁った音で響いた。頭では認識できていなくとも、男の訓練されていた体は半ば本能的に止血点を押さえていた。落ちた肘から下の腕を女の腕が拾う。男は今度こそ倒れ、膝をつき蹲る。地面に額を擦りつけ、眩暈がするほどの激痛を堪えているように見える。アドレナリンが大量放出されて、それとも痛みは感じていないのか。ただ、燃えるような痛みが患部を襲っているのか、どちらかだろう。別に、戦いを常とする職業についている以上取り立てて騒ぐようなことでも平静を乱すことでもなかった。なかったはずだった。しかし、スモーカーはまるで、網膜に映し込んだその光景を映画のようだと思った。夢か幻か、兎にも角にも現実のものと瞬時に認識することはできなかった。
 視界の隅でたしぎが男の名をもう一度呼び、男の腕を拾い上げた海賊を睨みつけた。それは、かつてたしぎが彼女に向けていたそれとは180度異なるものであった。白い歯が見え、吠える。手にしていた刀を女の腕が振り上げた。しかし、それは海賊の肌に届く前にその場に落ちた。靴底は、しっかりとたしぎの腹にめり込んでいる。細い体が浮く。肋骨にひびが入ったかもしれない。たしぎ。そう呼び、蹴り飛ばされた体を抱きとめる。胃の内容物が胃液に混じって地面に落とされた。骨は無事なようだった。たしぎ、もう一度呼び、背を叩く。男の前に佇んでいる海賊をスモーカーは見据えた。言葉を発そうとした前に、海賊は言った。まるで、自分を責めるような声であるかのように、スモーカーには聞こえた。
「任せると、言った」
 この有様はなんだとそう言われた気がした。何故こいつに私を追わせているのだと、そう言っているようにも取れた。しかし、スモーカーは腹に据えた怒りを唸らせるようにして歯を噛んだ。
「無責任なのは、お前だろうが…!」
「そうだな」
 淡泊に一言そう答えると、海賊は拾い上げた腕を見せた。今の今までそれは部下の腕についていたものだった。眉間に皺が寄る。堪え切れない感情が臓腑を焼く。スモーカーは知っていた。今、女の眼前で蹲っている男がどんな顔をして、彼の元上官に関しての話をするのかを。そして追いかけて来たのかも。彼女が去ってしまってから、任されてから、スモーカーは見てきた。ずっと、長い間。たしぎと比べれば随分と短い付き合いだが、それでも、彼の表情と行動は如実に彼を語った。常日頃、どれだけちゃらけていようとも。馬鹿みたいな行動でこちらをはぐらかしても。スモーカーには置いてけぼりを食らった部下の心情が透けて見えた。
 腕と、そして刀を持った両腕が下に向けられている。
「その通りだ。無責任だった。悪かったな」
 言葉の意味合いだけで感情の一つも籠っていないしかないそれを、スモーカーはそれ以上そこに蹲っている部下に聞かせたくはなかった。しかし聞こえていないのかどうなのか、蹲ったまま激痛に呻いている男の耳にはひょっとして届いていないのかもしれない。その方がいいとスモーカーは頭の端でそう思い、しかし同時に、現実を見据えるべきだとそう額を地面に押し付けている部下の顔を上げたい衝動にも駆られた。
 そんなスモーカーの心情をなど知ったことかとばかりに海賊は続ける。元七武海のある男と同じピアスを海賊は、反対側につけている。それが目に付いた。手に持たれていた腕が女の口元に運ばれる。そして、食らいついた。尖った犬歯が人肉を食い千切る。一口分。咀嚼して、消えた。何事もなかったかのように、口周りについた赤を女は袖で拭った。
「まずいな」
 そんな感想を零す。旨くない、そうも続けた。まだ言葉は続く。
「私が海軍に在籍していたのは、殺すためだ。お前なら覚えているだろう?ほら、私が在籍中に殺した連中がいただろう。ん、いや、海賊の方は私も若かったし、お前は知らないかな。なあ中佐。ああいや、今は大佐だったかな。どちらでもいいか。どっちにしろ、尻尾を振るお前を見るのはなかなか楽しかったよ。いつも笑いをこらえるのに必死だった」
 たいさ。スモーカーは縋りつくように零された、痛みの合間に響く声を耳にする。いっそ痛々しい。男の前に立つ海賊にはその音は間違いなく拾えている。しかし、それを無視するようにして海の無法者はもう一口腕を齧り、鼻で笑いながら続けた。まずいと笑い、今度は口にした肉を地面に吐き捨てる。
「だがな、そろそろ飽きた」
 口元の笑みが取り払われ、触れれば低温火傷をおこしそうな視線がようやく顔を上げた男へと注がれた。スモーカーはその視線には確かに覚えがあった。海軍が、海賊をクズだと呼びならわす時に向ける視線と同じである。蹲る男の肩に掛けられている正義を刻んだコートを女は取り上げ、そして男の前で足でもって踏みにじった。靴と布が音を鳴らす。長い息を海賊は吐き出した。
「次に『私』を追ってきたら、今度は、」
 頭と体を切り離す。
 表情を変えることなく、海賊は全く海賊らしくそう言い放った。市民が恐れる、横暴で冷酷で冷淡で血も涙も情の欠片も持ち合わせていない、海賊の目であった。そして一切の躊躇無く足で一度は上を向きかけた顎を蹴り上げ、そのまま仰向けに転がった男の傷口を踏みつける。砂利が傷口に入る。声にもできない絶叫が、あふれる。
「それとも、いらない玩具はここで壊してしまうか?そうすれば後々の手間も省けるな」
 薄く笑い、海賊は刀を引き絞る。振り下ろせば男の首と胴が音もなく寸断される光景がスモーカーには鮮明に想像できた。たしぎを横で固まっていた部下に押し付けて、地面に落ちていた十手を皮手袋越しに感じる。部下の首目掛けて迫った刃の横腹をその先端でスモーカーは弾き飛ばした。耳に痛い音が空気を強く振動させる。両足の下で、既に意識を朦朧とさせている部下を庇うようにしてスモーカーは立った。刀を打たれた振動が海賊の腕には伝わっていたのか、手の甲同士を軽く擦り合わせて、肩をすくめて見せた。海賊は声を上げて笑った。しかし突如、その笑い声を潰すようにして上から風が吹き付け、大きな影が太陽光を遮る。スモーカーは腕を煙にしかけて止めた。この強い風を発生させられるカヤアンバルがいては、煙に体を変えることはどう考えても不利である。舌打ちを代りに苛立たしげに弾かせた。
 海賊は切り落とし、一口二口齧った腕を上に軽く放り上げ、そしてもう一度掌で掴んだ。
「戦利品、かな?次は金銀財宝でも用意しておけ」
「待て!」
「待てと言われて待つ海賊が一体どこにいる、スモーカー。…スモーカー」
 准将と、最後の言葉だけ違う声音で告げた女の顔は逆光でよく見えなかった。大きな翼が沢山の風を飲み込み、海を奔る海賊はカヤアンバルの足に乗り、その体を空へと逃がした。海には、船員を待っている海賊船があることだろう。どうせ、あの鳥でどこにでも行けるわけなのだから、随分と遠くになることは間違いないが。
 服を強い風でなびかせながら、スモーカーは逃げていく海賊を睨みつけた。しかし、空を飛ぶ術は持たず追いかけることは叶わない。それ以上に、負傷した部下の手当てを急がねばならない。顔を顰め、スモーカーは咥えていた葉巻を強く噛み締めた。まだ残った腕でもうない腕の止血点を押さえている、意識はもうないであろう部下へとスモーカーは視線をやり、その傍らにしゃがむ。他の部下も海賊に倒されたものの、昏倒させられた者など、軽傷であるので大して問題もない。尤も、スモーカーはそう思う。尤も、あの女が海兵を無意味に殺すことなどないだろうと。あの女は海兵であった時分にはそういう人間であった。それとも人は変わるものなのか。
 血を吐く音が耳に響き、スモーカーは倒れ込んでいる部下に呼びかける。平気かではなく、生きているかである。
「じゅん、しょーどの」
「喋るな。腹から血が零れる」
「あのひと、ばかだ」
 おおばかだと、男は零し、そして唇を強く噛んだ。おれもう腕ないんですねと、あの人が持ってっちゃったんですねと男は笑いながら意識を失わないようにと喋り続ける。
「馬鹿はお前だろうが」
 そう言ったスモーカーに男はははと軽く笑った。そして、転がっているからこそ見える光景に目を細めた。木陰で分かり辛く隠れてはいるが、監視用のコウモリが数羽ぶら下がっている。視線は合わせない。それをしてしまえば、全てが無駄になることを男は察していた。回転の速い頭を、恨んだ。
「…おれが、いったいなんねんあのひとのそばにいたと、おもう、んですか。おれはまた」
 うでいたいです。スモーカーは中途半端に切られた言葉の続きを聞こうとは思わなかった。ただ、止血にと巻きつけたシャツに滲んだ血の色に目を細めた。

 

 船の上から布に包まれた、ある程度の長さのものが海へと落とされた。水滴が跳ね、それは波の合間に飲み込まれた。
「いいのか」
 背に掛けられた言葉にミトは無言で返した。ただ、波間を眺めていく。黒いファーコートが船の縁に乗せられ、女の体よりも一回りは大きな体が動きを落ち着けた。落ちた沈黙を先に破ったのは女の方であった。切り出しは、まあと呟くことである。
「これでいい」
 水面へとやっていた視線を水平線へと移す。島の影すら見えず、ただ空に浮かぶ白い雲ばかりが見える光景である。それを海賊は自由だと思い、潮風を胸一杯に吸い込む。一拍の間を空け、ミトは唇を動かした。
「あいつは海兵だから」
「自分勝手だな」
「今更だ。私が我儘であることなんて」
 それもそうだとクロコダイルは葉巻の煙を吐き出した。それは潮風に乗ってくゆり、流れて消える。金物がこつんと女の頭を小突いた。長年のこの行為に口元を小さく笑わせながら、ミトはクロコダイルの鉤爪に触れ、その表面をつるりと撫でた。その金色には自分の顔が写っており、奇妙に笑っている顔がミトには見えた。頬をそれに隙間なくつけ、冷たさを感じながら目を閉じた。その眉間にはきつい皺がいくつも寄っていた。
「あいつは、まっすぐだから。馬鹿みたいにまっすぐだから。海賊を嫌わないのも尊敬するのもありだろう。だが、海賊を見本にしてはいけない。それは、海兵ではない。あいつは私が知る最も海兵らしい海兵だ。馬鹿な位に、海兵だよ。それに分かるんだ。あいつが理由を聞いたところで何も納得などしないことが。知りたいだけでは終わらない。上官であったからこそ分かる。あいつは、上官をずっと探している。あいつが私を上官として見ている内は、あいつは海軍の中で海賊の部下だ。だから、駄目だ。あいつは、なあクロコダイル」
 冷たかった金属が次第に肌の熱を帯び生温くなる。
「…全く、馬鹿な部下だったよ。私を、恨んで憎んで、それでよかったのになぁ。それが、一番望ましい形だったんだが。あいつは、一番聞いて欲しかったことは聞かない」
 呟いたミトにクロコダイルは咥えていた葉巻を差し出した。吸えとばかりに突き出されたその葉巻をミトは指先で受け取り、唇に挟む。上手な吸い方は知らなかったが、吸い方は知っている。咽るように煙を吐き出し、そして首を軽く振った。
「苦いなぁ」
 苦いか、と返したクロコダイルにミトは苦いよと静かにそう答えた。