さよならではなく

 船は穏やかな波に揺られていた。帆を畳み、錨を海中に垂らしているので、ゆるゆるとしか船は前に進まない。波のたゆたい一つをその体に受けながら、船はゆっくりと進む。春島、もしくは秋島が近いのか、気温湿度共に肌に心地良く、気候は安定していた。
 ミトは甲板に転がる大量の酒樽、空になった料理の皿、そしてそこかしこに飲みに飲んでぶっ倒れた船員で埋められている光景を眺めた。体は宴が始まる前によく洗って、ギプスを巻いていた足の垢は綺麗さっぱり落とした。今は肌にまで酒の臭いがしっかりと染みついているが、酔ってはいない。程良い酔い方。適度で、頭がすっきりするくらいの酩酊加減であった。
 体を少し屈め、ミトは下に置いていた風呂敷をグイと持ち上げる。そしてぴゅいと口笛を小さめに吹いた。月の空から一羽のカヤアンバルが空気に滑らかに乗りながら旋回しつつ降りてきた。大気を揺らさないように羽ばたいている様子で、船にさしたる揺れは見られなかった。とは雖も、手が触れる程の距離ともなると、大きな翼が生み出す風は髪の毛を揺らすくらいには吹きつけた。ヤッカは人で一杯の甲板に注意して降りる。その大きな体で人を踏みつぶさないよう、器用に足を着けた。
 伸ばされた手に嘴を寄せる。いい子だ、とミトは嘴をさすり、その背に乗ろうと足に力を込めた。だが、その背に待ったがかかる。そう言えば、甲板に倒れていた人間の中に彼はいなかったことを思い出しつつ、船内から出てきた男へとミトは視線を寄せた。そしてその名を呼ぶ。
「マルコ」
「もう少し、ゆっくりしてかねェのかい?ギプスも取れたはいいが、筋肉がすっかり細くなっちまってるだろう」
 均等の取れていない脚を指差され、ミトはマァそれはそうなんだが、と笑った。それでも船医の見立てよりも一週間も早く治ったというのは驚きに値する。とはいえども、マルコの言うとおり、ギプスを嵌めていた脚は随分と痩せていた。動くにあたって支障はないが、多少の不安は残らざるを得ない。
 しかし、マルコが見たのはミトが首を横に振った答えだった。その表情が子供のように変わる。
「私がもう待てない。居ても立っても居られない。待たせているんだ」
 あいつを、とその唇が動く。どうやら引き止めることもできそうにないので、マルコは代わりに気をつけろよいと言葉を渡した。そして、思い出したように懐を探り、ミトに紙片、もといビブルカードを差し出す。
 一拍、間を持たせた。
「おめぇは、オヤジのビブルカードしか持ってなかっただろい」
「…ああ、うん。そうだな」
 オヤジの名前にミトは視線を軽く落として頷く。そして差し出された紙片をじぃと見つめた。受け取ろうとしないミトの手を掴むと、マルコはぐいとその掌に押し付け、そしてしっかりと握らせた。
 いいんだよい、と続ける。
「ここは、おめぇの帰る場所でもあるんだ。ヴィグは、あいつは死んでもおめぇの家族だろうが。そんでもって、おれたちの家族でもある。家族の家族は、家族だろう。クロコダイルのとこが嫌になったり、辛くなった時は、いつでも里帰りしろよい」
 笑えたか。
 マルコは顔の表情を作る筋肉を意識して話す。やはりまだ、オヤジやヴィグのコトを語るのは多少涙がこぼれそうになる。胸の奥がツキンと小さく痛みを伴う。それでも、彼らの名前を出しても笑えるようになる。その思い出に穏やかな表情を浮かべられるようになる。そうやって、自分たちは海を行く。
 片腕を伸ばし、ミトの頭部に手を回すと自身の肩に押し付けた。高い背丈の分少しばかり屈めさせることになる。
「上手く泣かせてやれなくて、悪かったよい」
「謝ることじゃない。お前だって、辛い時くらいある。人の荷物まで背負って自分が潰れたら本末転倒だ。だから、いいんだ」
「…そうかよい」
 耳元で穏やかに聞こえる声にマルコはほっと息をつく。
 彼女が、ミトは、こんなにも穏やかな声を出せるようになった。復讐と恨み辛みの海の底で死人の目をして、生を厭い、ただふらふらと仇を討つためだけに生きてきた彼女が、ようやく海に帰ってきた。海兵で在った時も時折酒を持って、船に来ることはあったものの、気付けばふらりと居なくなってしまった。別れの挨拶もなく、まるで猫のように。この女が船に来る度に、ヴィグは生きていたのかと喜び、そして帰る度に辛そうな顔をした。
 おれだけに、なるかもしれねぇ。マルコ。
 海を眺め、消えてしまった背中を憂い、ヴィグはぼんやりと口にしていた。仇を討ち果たしてしまえば、彼女が歩く理由は既になく、ただ疲れ果てその場に崩れ落ち死に至るだけだろうことを、彼は恐らく誰よりも、それはきっとクロコダイルよりも、知っていたのだ。それだけは避けたいと口癖のように繰り返していた。あのまま逝かせては船長たちに顔向けができないと。そして何より、嫌なのだと。あの痛々しい姿を、辛そうな顔をあれ以上、させたくないのだと。あんな道を、あいつは今まで誰の助けも借りずに独りで歩いてきた。孤独と復讐に心と体を蝕まれながら、
 たった、独りで。
 マルコは思い出す。最期にヴィグが握りしめたあの手の感触を。あの馬鹿を頼むよとその言葉がはっきりと耳に蘇る。友の言葉を胸の内で噛みしめながら、マルコは言葉を紡ぐ。
「独りじゃ、ねぇからな」
 その言葉に肩に押し付けられていた額が小さく皺をよせて微笑む。ああ、と短く答えが返ってきた。
「もう、忘れない。見失わない」
「絶対だ」
「ああ、絶対だ。約束する。海賊として生きて、海賊として死ぬ。独りで逝ったりは、しないよ」
 返事を聞き終え、マルコはミトの頭から手を離した。押し付ける手が無くなり、ミトは顔を上げて、マルコの視線をまっすぐに受け止める。子供のように笑った女の顔に、マルコはほっと胸をなでおろす。そして、手に持っていた鞄をミトに渡した。
「保存食と水だよい。それから短剣も入ってる」
「食料と酒なら、そこにあるのを頂いたんだが」
「…ちゃっかりしすぎだよい。酒は水分じゃねェから、取敢えず持ってけ」
 悪気の無い笑顔を向けられたマルコは頬を引き攣らせながら、その鞄も合わせてミトに押し付けた。
 最初に渡されたビブルカードをミトはじぃと見つめる。白ひげのビブルカードなど、渡されていたビブルカードは刀の柄の部分に細工をして入れてある。尤も、彼のビブルカードは既にないものだろうが。燃えて、消えてしまったことだろう。あの戦いの最中、自分が刃を振るっているその間に。傷を負い、愛する息子たちの先を守るために。
 あの偉大な男は、死んだのだ。
 小さなころ自分を撫でてくれた手。大きく笑った背中。長い滑り台にもなりそうな髪の毛。愚かだった自分を止めようとしてくれた、その人。思い出の欠片は胸の中に納まっている。鼻の奥がつんとしたが、そこは堪えて笑みに変えてマルコを見やる。
「有難う」
「それから、こいつ」
 そう言って、マルコはミトに葉巻が一ダース入った箱を差し出した。葉巻は吸わないんだが、とミトは返したが、マルコはおめぇにじゃねぇよいと続ける。
「クロコダイルにだ。泣かせたりしたら承知しねぇと伝えとけ」
「反対に泣かせるから心配するな」
「どうだかない」
 はは、とマルコは笑った。だが、一度その笑みを失くし、真剣な瞳でもう一度ミトに問うた。
「おれたちの船には、乗らねぇんだな」
「ああ。私の船は、あいつの船だ」
「なら、仕方ねェナァ。名残惜しいが」
 渡された葉巻を鞄にしまうと、ミトはそうだなと笑った。ヤッカが待ち遠しげにくるくると喉を鳴らしているのを見て、そろそろ行かなくちゃなと続ける。向けられた背に、マルコは声を掛けた。
「行って来い」
 嘴を寄せたヤッカを撫でていた手をミトはふと止めた。マルコはミトが振り返った理由を察し、もう一度同じ言葉を繰り返し紡ぐ。
「行ってらっしゃい、だよい。ミト。家族なんだ。次に会ったら、お帰りだない。おめぇから、おれたちに言う言葉は、たった一つだろう?」
 長らく、その言葉を口にしていなかった。何十年とも知れぬ。自分の家族を失って以来、一度も、その意味を込めてそれを口にすることはなかった。喉が張り付いて上手く言葉にならなかったが、唾を一つ飲んで、ミトはその言葉を言い直した。
 マルコの顔を見る。
「行って…きます」
「行って来い」
「行って来る」
 ミトは首を垂れたヤッカの背に乗った。ふっと柔らかな羽毛で包まれる。大きな翼が一気に広げられ、その翼で空気をかき集める。鋭い爪が甲板からゆるりと離れた。一つ、優しげに羽ばたいてその体を宙に浮かせた。すい、とヤッカは風を読み、その体を大気の流れに乗せて船を然程揺らすこともなく空に舞う。
 あっという間に船は小さな点になった。だがその中で、ぼぼ、と青い炎が船に灯される。
 マルコの火。不死鳥の炎。
 まるで送り出すように光り輝くそれを、ヤッカはミトにも見えるように背を斜めにして飛んだ。別れを告げるように、高く細く、柔らかい声で一声鳴く。もう一二度旋回し、ヤッカは空の闇に紛れて船から離れた。

 

 白い姿が失せて消える。マルコはその消えた方向へと視線を向けたまま、青い焔を収めた。
「行ったのか」
「なんだ、起きてたのかい」
 マルコは甲板に転がっていたジョズに困ったような笑みを浮かべて見せる。
「…行っちまった。まぁ、大丈夫だろい」
 口端を歪め、大きく伸びをしたマルコだったが、その時甲板に転がっていた船員たちがわらわらと起き上がってくるのを見て、目を丸くした。そして、とある事実に気付き、かかかっと顔を首筋から赤くする。
「おっ、おめぇらまさか…!」
「いやー狸寝入りも楽じゃねェ。なぁ、イゾウ」
「全くだ。いやでも、マルコのあの言葉聞いたかい?」
 からからと棒立ちになって、マルコは言葉にならぬ声をぱくぱくと口の動きだけで酸素の足りない魚のように喘ぎながら、顔を押さえた。誰がどう考えても恥ずかしい。恥ずかしがることないじゃないか!や、男前!などと、どっと声が沸きながら、また酒樽が甲板に持ってこられ、各々のカップで飲み始める。数人はほろ酔い度合いなのか、先程のマルコとミトのやりとりを確実に誇張しながら、演技する者さえあらわれ、マルコはそれを張り倒した。
 ふぅふぅと肩で息をしながら、マルコは項垂れて側に在った木箱に腰かける。その前に大きな影がかかり、それがジョズだと知れる。黙ったままのジョズにマルコは、とうとう居たたまれなくなって、何か言えよいと口をへの字に曲げる。からかわれると思ったのか、その耳は赤い。だが、ジョズはからかうようなことはせず、のったりとその隣に腰を下ろした。
「行ったな」
 短いけれど、それに多くの意味が込められていることを察し、マルコはああと返した。
「行ったない。ようやく」
 夜空に浮かぶ星の数を数える。誰が言ったか、あれは死んだ人の魂だと。マルコは星を見上げていた瞼をそっと閉じ、行ったないともう一度繰り返し、体の力を抜いた。
 帰るところがあると、そう、言った。ならばもう心配はいらない。それでも多少の心配をしてしまうあたり、自分もヴィグに毒されたと言ったところだろうか。やんちゃで無鉄砲だったあの小さな娘は、どう転んでも人を心配させるらしい。
「…ようやく、海に、行ったよい」
 オヤジ、ヴィグ。
 最後の言葉は言葉にせず、胸の内だけで囁く。
 そんなマルコの前に一杯の酒が差し出された。ジョズの太い指がそれを持っている。ふふとマルコは笑い、ありがとよと礼を一つ言うとそれを受け取り、ぐいと飲み干す。酒は、大層旨く。
「もう一杯」
 と、そう所望した。