海をあたう - 1/6

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 酒場で酒を嗜む。
 周囲のざわついた空気の中で、ミトはクロコダイルの半分ほどに減ったグラスに酒を注ぎ足した。こぽんと瓶の中に泡が入り、ぼとんとグラスの中を酒が満たす。あふれそうになるくらいに入れようとしたので、見かねたクロコダイルはもういいと鉤爪で瓶の口を持ち上げて制した。もっと行けるだろうと表面張力に頼った注ぎ方をしようとした女の頭をそのまま腕を伸ばして叩く。小気味よい音がした。だがしかし、女は手に持ったグラスの酒を零すことだけはしなかった。呆れてしまうほどの酒に対する執念である。
 そう、とミトはグラスに口をつけて視線を丸い木のテーブルに落とす。
「お前に言っていなかったことがある」
 話す気になったことを、女はようやく口の端に添えた。随分と距離の縮まった、それは肉体的にではなく精神的なものではあったが、それによってもたらされた会話でもあった。口につけたグラスの中で揺れた液体が唇に触れたが、クロコダイルはそのグラスを机の上に戻した。対照的にミトはグラスを一気に傾けて、中のアルコールを勢いよく仰ぐ。ふっと吐き出した息は大層酒臭かったが、女の表情に酔いは一切見られなかった。
 喧噪の中、二人が座っているテーブルだけがやけにしんみりとした雰囲気を醸し出す。まるで別世界のようなそこであった。
 女の喉がこくりと上下する。耳に伝えられる音にしようとする動作がやけにたどたどしい。うつむいた視線が映すのは手元のグラスばかりで、ミトはクロコダイルの視線と合わそうとはしなかった。一度頭を振り、そして目元に深い皺を寄せた。
「先の戦争のことだ」
 白ひげことエドワード・ニューゲート及びポートガス・D・エースが死亡した戦争のことであるのは、詳細を語らずともクロコダイルにも理解できた。女のグラスを持つ手に力がこもったのを、男はその目で見てとった。僅かに目が細められる。
 ミトは黙ってきた、ドフラミンゴの下から脱走し、マルコの船で知った事実を口にしようと息を吸う。未だに、その事実を口にするのは辛いものがあった。誰に言ったところで、死んだ人間が蘇るなどそんな都合のいい話があるはずもなく、ただ黙っていたのはクロコダイルも、彼にとって最も大きな存在を失ったからであり、それを気にかけていたからだった。そんな感情は結局見事に一蹴されてしまったのだが。
 黙ったまま、ふと思い出した時に辛い表情を見せるよりかは、話しておいて少し肩を貸してもらう方がよいとミトはようやく判断した。判断できるようになった、というのが一番正しい表現であろう。
 テーブルの上のボトルをつかみ、空になったグラスにこぷこぽと酒を注ぐ。満たされていく杯を眺めながら、それにヴィグの仕草や表情、声を思い出す。思い出に浸る時点で、彼は既に記憶の人間になってしまったのだと、そんな感慨にミトは耽った。思い出の中の人間は、これから以降一切成長することはない。変化もまた、ない。振り返ることだけに、思い出すことだけに存在が認められる、それが人の死である。
 くと喉を鳴らして、ミトはグラスに注いだ酒を半分ほど飲み、もう一度注ぎ足してから、ボトルをテーブルに戻した。ボトルの中の酒はもう後一杯分くらいしか残ってはいなかった。
 目の前の女の様子を眺めつつ、クロコダイルは一度は机に置いたグラスの酒を一口片づけた。思えば、今日飲んでいる酒は随分と度数が強い。こいつの悪い癖だとクロコダイルは思った。とは言っても、いくら度数が強くともすぐ酔えるはずもなく、本数を重ねなければ、女は酔うことはないのだが。その女の視線が手元から天井へと登った。
「あの戦争で、その、」
 ああ、とミトは未だにその事実を口にするのを僅かに躊躇う。この一線を越えてしまえば、もう、生きているかもしれないという限りなく皆無に等しい可能性(尤もマルコが最期を看取ったという時点でそんな可能性ははなからありはしないのだが)に、心のどこかで期待することもなくなるのだろうと、それを考えれば少しばかりやはり躊躇われた。それでもその言葉を口にせねば、結局のところ堂々巡りもいいところになってしまうことは目に見えている。ミトは、手の中のグラスをくるりと回した。天井が揺らぐ。
 見上げていた視線をミトはクロコダイルへと漸く戻した。肺に空気を取り込み、そこから先の言葉をようやく紡いだ。これを口にすれば、本当にさようならである。
「…あの戦争で」
 ヴィグが、そう、続けようとした言葉は女の喉で消えた。頭が、真っ白になった。見開かれた瞳の方向は酒場の入り口で、店主と酒を売りに(もしくは運びに)来た人間が楽しげに会話をしている。
 クロコダイルは突如黙り込んだミトを見、怪訝そうに眉根を寄せる。あの戦争で、の女の言葉の続きを考える。あの戦争に参加した、主力であったのは白ひげ海賊団である。その中で目の前の女が自分に何かを言おうとして口籠る対象と言えば、彼女の家族であった(今でも家族であるのかどうかは定かではないのだが)航海士ヴィグのことではないかとあたりをつけた。さらに加えて言うならば、話しづらいを加えれば、おそらく死亡したあたりが適当だろう。
 呆然、驚愕としているミトに一体何なんだとクロコダイルは椅子に座ったまま体を捻り、ミトが凝視している方向へと視線をやった。店主と酒を運んでいる男。その男の姿を確認し、クロコダイルは眉間に皺を寄せた。その姿、顔、名前をクロコダイルはよくよく知っていた。無論その知っているというのは、二十年以上前の姿でしかないのだが。予測が外れたことに、それではミトが話そうとしたことが何であるのかをもう一度問おうとして、クロコダイルは体を元に戻しかけたが、それと同時にがたんと眼前の椅子に座っていた女がそれを転がした。酒場の喧騒の中では、それは些細な音にしかならず、大きな笑い声や談笑に紛れた。
 体がすぐ横を風を耳に叩きつけながら過ぎ去る。クロコダイルがもう一度振り返った時には、ミトは店主を押し退け、既に姿を消していた男を追うために、扉を押し開けて飛び出していた。ぎっぎと扉が内外に寂しげに動く。店内の誰も女のそんな行動を気に留めることはなかった。ただ、店主だけが押し退けられて後ろによろめき、気をつけろ!と声を上げていたが。
 酒瓶が置かれている机には刀が放置されている。肌身離さず持っている武器でさえ忘れる程に、女はひどく驚いていたようだった。そう、まるで。
 まるで、幽霊でも見たかのように。
 クロコダイルは立てかけられたままの刀を手に取る前に、机の上に飲んだ分だけの金を置いてそれを手に取る。刀身が海楼石でできたそれはずしりと重い。そして、ミトが飛び出した道に追いかけるために出たが、女の姿も男の姿も既にない。
 一度店内に戻ると、クロコダイルは店主に先程クロコダイルが見た男のことを尋ねる。しかしながら、返された答えはクロコダイルが想定していたのとはまた別物であった。元七武海ということもあって、店主は多少怯えの色を滲ませたが、問われた事にはしかと答えた。問われた以上のこともつるつると話しているのも事実である。
「…リッキーですか。あいつはただのアルバイトですよ。一つ向こうの町にいる腕の大層良い医者の所に居候していましてね。いやその、ちょっと気にかかることと言えば、ほら、先の戦争で白ひげが死にましたでしょ。その白ひげの刺青が首にあるんですよ。本人は白ひげ海賊団なんて知らないって言ってるんですけどね。何分私たちは賞金稼ぎでもなし、誰が白ひげ海賊団に所属してたかなんて逐一覚えちゃいません。確認のしようもないし、それに、あいつは働き者でいいやつだから」
 そこまで聞いてクロコダイルは男に背を向けると、ミトが行ったであろう方角へと走り出した。足が速い女の姿は当然もうない。腕に刀を持って走るなどと、滅多に経験しない男は、片手に物を持つ走り方の何とも邪魔臭い事実に刀を幾度か投げ捨てたくなりながらも、足を動かした。
 砂のめぐる音だけが、雑踏に紛れて己の耳に響く。周囲の人間は当然のことながら、走る男を避けた。羽織っている厚手のコートが風で揺れ、整えていた黒髪は動きに合わせてはらりと一筋額にかかる。ああ面倒だと思いつつ、しかし鉤爪でそれを整えるわけにもいかず、クロコダイルは先へと急ぐ。
 泣いているような気がしたのだ。今傍にいてやらねばならないような気もした。
 しかしとクロコダイルは考える。何故あの男がこんな所にいるのかと。あの男の性分からして、白ひげ海賊団を抜けるとは到底考えられないのである。かつて、それこそ二十年以上前の姿しかクロコダイルは知らないが、それでも、海賊団を抜けた上に、かつて己が所属していた船を知らぬというような男ではなかったと記憶している。さらに言うならば、知らぬのであれば、白ひげのあのマークは消して然るべきであろう。何故残しているのか。それともあれば別人か。別人ならば、何故あの刺青をしているのか。否、別人ではないだろう。クロコダイルはそう確信していた。別人であれば、ミトが、あの女があんなに必死になって追いかけるはずもない。そうするとそうなると。
 やはり、あの男は死んでいたのだ。
 そう、クロコダイルは結論付けた。ミトがずっと自分に対して話さなかったことは、他ならぬ彼女がかつて乗っていた船の最後の家族の一人の死なのだろうと、それであれば、今まで自分に話そうとしなかった理由も分かるというものである。
 滑らかな砂が視界の端に散る。暫くも走れば、町の姿は次第に薄れていき、閑散とした田舎の風景が入る。民家も次第に減ってきており、点々とあるのみである。ふっとクロコダイルはその遠くにある一軒家に荷馬車がついたのを確認した。そして、その横に尻餅をついている男と、その胸座を掴んでいる女を見た。
 手の内にある刀の重さを再確認しながら、クロコダイルは私が、と言った声を聴いた。女の背中が、震えていた。声がひどく痛く響く。
「見間違えるわけが…ないだろうが…ッ!」
 は、と2,3m先で足を止め、クロコダイルは息を落とした。胸座を捕まれた男は、女の手を引っ張り振り払おうとしたが、掴んでいる手はあまりにもきつく、服が破けそうなほどの印象を受けた。放せ、と男の声が上がる。
「知らねぇよ!海賊なんてあんな暴力的な連中」
 そこまで言って、下になっている男の目がふっと開かれる。何を見たのか、その頬に水滴がついた。女のきつくきつく掴んでいたその手がゆるりと離れる。一歩二歩、女は胸座から手を放して男から遠ざかった。声は響かない。ただ、クロコダイルはミトが泣いているのだと分かった。
 おいと声をかけたその瞬間、女の姿はそこから掻き消えた。自分の元に帰ってからも鍛錬は欠かさず行っており、通常の剃よりも速い。目で追うのがやっとの速度である。足が地面を蹴りつけ、砂がばばと地面の上で弾ける。視界の一瞬横、端をすり抜けたその腕を捕えようと手を伸ばしたが、掴もうとした手はすり抜けた。耳の横を音も何もなく、女は消えて失せた。
 振り返っても、女の背中などもう見えない。気配も何も残っていなかった。ミト、と名前を呼んでも返事などあるはずもない。くるとクロコダイルはそこに座り込んでいる男へと視線をやった。ただ呆然と女が消え去ってしまった場所を眺めている。
 クロコダイルは男をもう一度見下ろす。下を向いて頭を掻いている男の首筋には、クロコダイルの方向彼見れば逆さの、クロコダイル本人も見間違えるはずもない刺青が刻み込まれている。
「お前」
 見下ろした男は我を取り戻して、しかし、頬に落ちた水滴をぬぐってどこか呆然としながら、大柄の男を見上げ、視線を合わせた。ただただ状況についていけていない男がそこにいた。そしてクロコダイルは男を見下ろしその視界に入れる。二十年以上前の面影は確かに残っている。
 ミトが驚いた理由は、このヴィグという男がすでに死んだものだったからに違いない。生きているはずの人間が死んでいた、死んでいたはずの人間が生きていたなどと、このグランドラインでは、新世界ではそうそう珍しいものではない。しかしながら、彼の死はミトの中では確定したものだったのだろう。クロコダイルは考える。だからこそ女は驚いたのだし、そしてそれを否定されて逃げ出した。だとするならば。
 クロコダイルはもう一度男を見る。二十年以上前に見た顔で、確かにそれ本人だといえるだけの確証はクロコダイルにはなかった。それを知っているのは白ひげ海賊団の人間、そしてミト本人だけであろう。もしくは、戦争までの彼を知っている人間のみである。しかし、それを知っている人間は、彼が死んだと認識し、そしてそれを確信している。
 これは誰だ。
 視界に映し出された人間がまるで幽霊のように思えた。クロコダイルは座り込んでいる男に戸惑いを覚える。そんなクロコダイルに座っていた男の方が声をかけた。
「あんた、誰だ」
 そんな珍しい問いかけにクロコダイルは目を見開いた。彼が自分を知らぬはずもない。互いに二十数年も前の話であるから、外見もそれなりに変わっているだろうが、二十代頃の面とは到底そうも変わらないはずでもある。自分が彼をミトのかつての仲間だと知っているように、彼も同じく知っていなければおかしい。先程のことと言い、おかしい。
 何かが欠落している。もしくは、これはヴィグ本人ではないかのどちらかである。
 おれを、とクロコダイルは口を歪めて、努めて平静に笑った。
「おれを知らねぇのか。とんだ世間知らずだな」
 クロコダイルの言葉に男はようやくむっと顔を顰めて、膝を叩き不平不満を述べる。それは至極当然の反応でもあった。
「あんたと言い、さっきの女と言い、さっきから一体全体何なんだ。おれを誰と勘違いしてるのか知らねぇが、海賊なんてよしてくれ!あんな物騒な連中と一緒にするんじゃねぇよ!」
「まぁ、間違っちゃいねぇな」
 その見解は、とクロコダイルは男の言葉を否定しなかった。その考えは人口に膾炙している。懐から葉巻をと出して、先を切り火をつけるとクロコダイルは長く煙を吐き出し、座っている男に吹きかけた。それを男は顔をこれ以上ないほど顰めて手で振り払う。
 そして、問うた。
「…なら聞くが、おれの間違いでなければ、お前のその項の刺青は、てめぇが今さっき否定した海賊のマークじゃねぇのか?それとも、それはただのおれの勘違いか」
「これか」
 そう言うと、男は自身の項をかさついた手でさすった。一瞬見えたその手は船乗りの手である。海で生きてきた人間であるクロコダイルにとって、それを間違うこともない。目を細めて、すぅと煙を肺に吸い込んだ。
 男は溜息交じりに、こいつはと続けた。
「おれも知らねぇんだ。ただ、おれはあの白ひげ海賊団の一員だった覚えはない」
「覚えがない?」
 眉を潜めたクロコダイルに男はそうさ、と肯定を示した。
「…おれは、ここの医者に命を救われたんだ。爺さんが言うには、おれはリッキーって名前で、ここから一つ二つ離れた島の出身らしいがな」
「らしい?そりゃ、なんだ」
「覚えてねぇんだよ。頭を撃たれたところを、爺さんの手術で一命を取り留めた。それで話はしまいだ。おれは爺さんに感謝してるし、その白ひげって海賊が死んでからってもの、この村にもいやってほどに鬱陶しい海賊がやってきて村を荒らしていく。海軍だって首が回ってないような状態だ。この前だって、海賊の一人に知り合いの娘が一人斬り付けられた。あんな、人の命を軽々しく扱うような奴らと一緒にしてほしくないね」
 肩を竦めて、侮蔑の色を込めて吐き捨てられた言葉を一度耳に入れ、クロコダイルは再度考えた。逡巡し、そして男に尋ねる。その医者は何処だ、と。それに男はもう一度クロコダイルを頭の上から下までまじまじと警戒心を含めた視線で見る。鉤爪のあたりでその視線は止まった。
「あんた海賊か」
「おれは海賊だ」
「言っただろう、おれは海賊は好かねぇんだよ。とっとと帰んな」
「海賊がどういうものか、知っているのか?」
 鉤爪をちらつかせた男に、そらきたとばかりに男は軽蔑を込めた視線を送った。
「馬鹿な野郎だ、二言目には暴力しかねぇのか。ここで暴れるつもりなら、今すぐにでも海軍を呼ぶぞ」
「海軍は首がまわらねぇと今し方聞いたばかりだが」
 男はクロコダイルの返答に舌打ちをし、そして背中の帯に挟んでいた短刀に手をかけた。ぞく、とクロコダイルは肌を打った感覚に目を細める。口元が自然と吊り上った。肌を打つその感覚は覇気である。一般人がそんなものを持ち得ているはずもない。
 やはりこの男は。
 知らせたら喜ぶだろうかとクロコダイルは立ち去ってしまったミトを思い起こし、砂を立ち上らせる。男は悪魔の実の能力者か、と小さく呟き、そのナイフを前に構えた。自然系、と口をついて出てきた言葉を耳にし、クロコダイルは確信する。目の前の男は、ヴィグだというそれを。
 そして、鎌をかけるようにして問うた。
「てめぇも、そうだろう。カナヅチ野郎」
「…泳げねぇがな、能力を実感した覚えは一度もないんだよ。どうした、その鉤爪はお飾りか?とっととかかってこいよ、『ワニ』野郎」
 記憶の断片は男の頭にはあるらしいことを、先の言葉で確認し、クロコダイルはざらりと砂を掌に収縮させた。サーブルス、そう言おうとし放とうとした技は、背後の家の扉が開いたことで止まった。白髪の、しかし矍鑠とした態度が見られる老人であった。リッキー、とその老人はナイフを構えている男をそう呼んだ。
 クロコダイルは老人から目を離さない。そして、老人は目を細め、葉巻を咥えている男に告げた。葉巻は嫌いなんだ、と。

 

 走る。走る、走る。
 風すらもはるか遠くにあるような感覚に捉われながら、ミトは肺の中の息を一気に吐き出すと、ようやく足を止めた。走り出した車が急停止はできないように、ゆっくりと速度を落として、とんとんと最後はステップを踏むようにして停止する。
 止まったそこは小さな丘で、大木の下であった。は、と呼吸をする。息は乱れてはいなかったが、感情が忌々しい程に乱れていた。
 ミトは己の手を見下ろす。その手に掴んだ男の胸座を思い出した。戸惑う男の表情が脳裏を勢いよく通り過ぎていく。その面は見間違えるはずもない、ミトが知っているヴィグという男の顔であった。そして、追った際に見えた項には白ひげの刺青がしかと彫り込まれていた。ヴィグなのか、とそんな希望を抱く。しかし、あのヴィグが海賊を嫌うはずもない。そして何より、マルコのあの時の表情をミトははっきりと覚えていた。あれは、看取った者の顔である。死体は海に帰したとまで言った。ならば、ヴィグが生きていることはない。ヴィグは死んだのである。
 死んだ。
 そう、ヴィグは、自分のかつての仲間は死んだのだ。
 ならばあれは誰だとミトは頭を振る。違うと思えば思うほどに酷似している。それに何よりも、首にある白ひげの刺青が動かぬ証拠ではないかとそう考える。髪の毛を手でぐしゃりとかき混ぜる。上手く表現ができない。頭が混乱をきたし、整理ができない。
 新世界、このグランドラインに置いて、死んだ「はず」の人間が生きていたなんていうことは珍しくもない。しかしである、「死んだ」人間は生き返りはしない。死者はどうあがいても死者であって、生者ではない。ミトはそれを誰よりも知っていた。そんなことが起こり得るのであれば、起こり得るのであれば。違うとミトは浮かんだ考えを振り払った。死人は、生き返らないのである。
 ヴィグは「死んだ」のだ。He is dead、であり、He is understood to be deadではない。マルコが看取り、死体を海に流した。ヴィグに双子の弟か兄はいない。そして、同時に仮に存在していたとしても、そんな人間はエドワード・ニューゲートこと、白ひげの船には乗っていなかった。
 あれは一体誰なのだ。
 記憶喪失という考えもちらと頭を過ったが、それは生きているという仮定が成立してこその言葉である。死んだ人間はそもそもそんなことにはならない。七武海の一角であったモリアはゾンビを使っていたが、ゾンビだって死んでいる。中身は別の人間である。尤も、目にしていた先刻の男は生身の体であったが。
 頬を伝っていた涙をぐいと強く袖で拭い取る。
 ヴィグと同じ顔で、海賊を否定される言葉を吐かれると流石に辛い。ヴィグかもしれない、しかしヴィグではないかもしれない。白ひげは世界最強の男だったのである。遊び半分で刺青を彫る者もいないとは言い切れない。ミトは頭を抱えた。そして思うのである。自分がかつての仲間を見間違うはずなどありはしない、と。しかしながら、ミトが今現在持っている情報と現状から、どう考えてもヴィグは死んでしまっており、生きているはずなど万に一つもない。
 座り込み、木に背中を預けた。深呼吸を数度繰り返し、気持ちを必死に落ち着ける。必死に、という時点で既に落ち着けてなどいないのだが、本人はそれどころではなかった。
 苦しく、胸がひどく痛い。息が苦しい。
 眩暈を感じて口元を手で抑えた。吸ったはずの息が吸い込めていないような感覚に陥る。苦しい。過度に繰り返される呼吸に動悸が異常に早くなる。過呼吸かとそう判断した時は、手足に痺れが来ていた。きんぎんと喧しい耳鳴りが頭を打ち付ける。呻こうとしても、呼吸の方が早く襲う。
「おい」
 誰かの声が聞こえた。
「おい!」
 目に痛いピンク色が広がる。平気だと、そう返事をしようとしたが上手くそれができない。何故このまっぴんくの男がここにいるのかという疑問を先に考えるべきであったが、今はそれどころではなかった。大きな手がミトの口を覆い隠し袋の役目を果たすと、吐き出した二酸化炭素が肺の中に戻っていく。
 ひゅ、と数度呼吸を繰り返し、青い顔で息を整えた。肩に添えられていた手に体重を預け、ドフラミンゴを見上げる。その手を払う余裕は今は一切なかった。そして、もう一二度ゆっくりとした呼吸を繰り返すと、口元に添えられていた大きな手に繋がる手首を掴み遠ざける。
「…すまん、助かった」
「いや、いいけどよ。ワニ野郎はどうした?」
 クロコダイルの名前を出され、そこでようやくミトはぐちゃぐちゃになっていた思考を正常に働かせ始め、ドフラミンゴの問いかけに答える前に自身の問いをした。
「それより、お前なんでここにいるんだ」
「可愛い鳥を追いかけてきた」
 ちょいと見かけてな、そうニタリと口角を吊り上げて笑った男に懲りない男だとミトは息をついたが、取り敢えず助けられたことは助けられたことなので、有難うと礼を述べる。おっと、とそんなミトにドフラミンゴはさも愉快気に笑みを深めた。
「そりゃ、追いかけてきてくれて有難うってことか?」
「…馬鹿言え。さっきのことだ、助かった」
「どうしたよ。お前が過呼吸なんざ、らしくもねぇ」
「らしくもないも何もない。思うところがあっただけだ。無論、お前に教える義理もないがな」
「おお、ツれねぇ。いつも通りだな、そういう所は。覇気はねぇが」
 軽口を叩く余裕がないというのが正しいのだろうなとミトは足元の草を見つめながら、その言葉を無視した。今はこの舌のよく回る男に傍にいてほしくないと思い、ミトは膝を払って立ち上がった。
「用がないならとっとと、行ってくれ。生憎私はお前の相手をするほど元気じゃないんだ。今は、酒も飲みたくない」
「…熱でもあるのか?」
 お前が酒を飲みたくないなんて、とドフラミンゴはすいとミトの額に手を添えた。その手をミトは払い、私にだってそんな時はあると一歩踏み出し、ドフラミンゴに背を向けた。それを追いかけるようにして、ドフラミンゴも大股でその隣を歩く。
 用はないんだろう、と繰り返そうとしたミトの言葉をドフラミンゴは先に話して潰す。
「用?あるとも。好きな女を振り向かせるための努力ってやつだ。なぁ、おれの船にのらねぇか?」
「乗らん」
 ぴぃちくぱぁちくと囀る鳥から離れるように足を速めたが、コンパスの絶対的な長さはそれを全く無意味なものに貶めた。
 ついて来るなと言ったところで男がついてくるのは目に見えている。ミトは深い溜息を付き、もう何を言うこともやめて宿への岐路を進んだ。