お前とおれの

 アンタにとって、と掛けられた声にクロコダイルは海風に当たっていた背中から、隣で体を鍛えていたダズへと視線を向けた。空は快晴、雲ひとつなく、雨の匂いはどこか遠くへ流れ、今は唯潮風の匂いばかりが鼻を擽る。あの馬鹿の好きな香りだ、とクロコダイルは目を細め、紫煙を口から一つ吐いた。そして、ダズの質問の続きへと耳を傾ける。
 ダズは続けた。
「アンタにとって、あの女は一体どういう女なんですか」
「まさかあいつに興味でもあるのか?やめておけ。迂闊に手を出せば、食い千切られるぞ」
 クハハ、とクロコダイルは苦く笑い、水平線を眺める。薙いだ海は今、波一つ立っていない。今頃どうしてるのだろうかと考え、軽く頭を振るった。海で待ってろと言われたのだから、海で待っていればいのだ。あの女は、約束を破らない。「友」との約束であれば、尚更である。そう遠くない空で、窓を叩き、何気ない表情でひょっこりと戻ってくるだろう。片手を上げて、楽しげに笑い、自分の名を呼ぶことだろう。窓の鍵は、今はもう、締めていない。
 腰に差している一口の刀の柄を柔らかく右手で触れて、クロコダイルは目を細めた。海楼石で作られているそれに触れれば、力が抜けるものの、特注で作らせた鞘に納められているのでそれもない。邪魔と言えば邪魔なのだが、帰ってきたら取敢えずこれで殴りつけようと、未だ少し痛む肩の刺傷に服の上から指を滑らせる。
「そうではなく」
 そう、ダズは言葉を続けた。食いさがった男にクロコダイルは金色の、爬虫類を思わせる瞳を向ける。潮が、肌を湿らせる。
「あの女は、アンタの女なんですか?」
 つまり愛してるのかどうか、恋愛対象なのかどうかとダズは尋ねた。戦場でのあの別れ際の二人の言葉を聞けば、そうだとしか頷きようがないのだが、何故だかダズにはそれが不思議と素直に飲むことができなかった。それは、自身が彼女に思慕を抱いているといったそう言う意味ではなく、ただ、純粋に、彼らの間は何かが違う様な、そんな気がしたのである。だからこそ、この質問を自身の上司にしたわけなのだが。
 ダズの質問にクロコダイルは、ぽろりと葉巻から灰をうっかり落とした。少し大きく見開かれた目は驚きを露わしている。
「…あぁ?」
 質問を咀嚼し損ねたような返事に、ダズはですから、と言葉を重ねた。
「あのミトと言う女は、アンタが河岸で引きとめた女は、アンタの想い人なんですか」
「想い人?」
「違うんですか」
「…」
 どうだろう、とクロコダイルは右の人差し指と中指で挟み取り、思案する。ダズが隣で言葉を続け、それに耳を大人しく傾けた。
「…あの場のあの言葉は、一般的に考えてみればそうかと」
 アンタらは一般的じゃないけれど、と最後の言葉は呑み込んで、ダズは葉巻を吹かす男の言葉を待った。尤も、あの場の熱烈な告白の言葉とも取れないわけではない。むしろそう取る方が簡単に頷ける。サー・クロコダイルという男の今までから鑑みれば、彼が大声を張り上げて女を引き止めることなど考えられないし、船を戻せと叫ぶ姿はまさに異様であった。
 ならば、あの女は彼にとってとても大切な存在、詰まるところ愛しい人と考えるべきなのかとダズは頭を悩ませる。関係があるのかと問われれば、ありませんと答えるしかないのだが、何とも、気になる。
 クロコダイルはダズの質問を一二度口の中で繰り返して、ようやく答えを探すかのように口を開いた。
「さァ…なァ」
 零れた声は大層頼りない。
 想定範囲内の回答ではあったものの、少なからずダズは驚いた。その驚きは必然的に声や言葉に影響をもたらす。そうなんですか、と唯の一言のはずなのに、それにはたっぷりとした驚愕が含まれた上に、コーティングまでされた。予測と驚きは一致するものではない。これ以上言ったら殺されてしまうかもしれない、というギリギリの綱渡りを試みながら、ダズはクロコダイルにその驚きを伝える。
「しかしアンタ。あれだけ、あれだけ熱烈な告白をしておきながら…そういう感情が無いんですか」
「告白?」
 んぁ、と反対に問われ、ダズは告白です、と頷いた。
「おれのために生き」
 ろ、と最後までは言わせてもらえなかった。否、ダズの方が言うのを憚った。ワニの瞳は大きく見開かれ、瞬きを数度すると、ぽかんと口を開けると、はくはくと声もなく上下に動く。葉巻はしっかりと右手に持たれたままであったが。
 気のせいか、耳がほんのりと赤い。ああこの人も照れたりすることがあるのか、とダズは遠いところでそんな事を考えた。ごほん、と大きく咳が一つなり、クロコダイルはぎろりとダズを睨みつけた。
「…油売ってる暇があったら、展望台でも見てこい」
「はい、社長」
 一礼してダズはその場を後にした。大きな体がマストを登っていく様子を一つ眺め、クロコダイルはそれから視線を外すと広がる大海原へと視線を向け直した。そしてダズが先程口にした言葉を頭の中に思い浮かべる。
 想い人。
 いやどうなのだろう、ともう一度考える。よくよく考えて振り返ってみれば、確かにあの時あの場所で自分が叫んだ言葉は他者から聞けばそのように取れなくもない。聞かされたあの女は一体どう思ったことだろうか、と首を傾げる。何も考えていなかった、そう、それが一番正しい。クロコダイルは気不味さを覚えながら葉巻を咥え直した。
 ただ死なせたく無くて、ただ生きていてほしくて、ただ、側にいさせたい。
 結論的にやはりそれだけなのだ。愛しているだの好いているだの、そう言う感情で持って引き止めたわけではない。だが、桃色のコートにその体が包まれようとした瞬間、腹の奥底が沸騰する様な粘ついた怒りを覚えた。触るなと。
 おれの女に触るなと。
 ああそう思ったのか、とクロコダイルは灰を海に落とす。いつの間にか
「当り前になっちまってたのか」
 しっくりとした。あの女が隣にいるのが当たり前になっていた。何一つ自分の言うことなぞ聞きやしない乱暴でひたむきで愚かで馬鹿で、見ていられない女だったが(今もそうだろうけれども)気付けばそこに女がいるのが酷く懐かしく、当然であった。
 今はもう、普通に笑えるのだろうか。
 クロコダイルは広がる海の向こうのどこかに居るであろう女を思う。下卑た笑みを想像するのは容易いが、そんなものに屈する女ではない。然程心配する必要もないだろうが、やはり気に食わない。行け、と叫んで選んだ女の顔を思い出しながら、やはり苛立ちと言う名の焦燥が背筋を焼く。腰に帯びている刀が一層ずしりと重たく感じられた。馬鹿野郎、と小さく吐き出した言葉は潮風に乗って女に届くだろうか。そんな、女々しいことを考える。思うくらいなら考えるくらいなら、取り返しに行けばいいだけの話だと言うのに、ここを動けない。動かない。
 待っていろと、そうあいつが言ったならば。
 助けに来られるのも、助けられるのも、あいつが望むところではないのだろう。
 そう、クロコダイルはミトという女をよく知っているからこそ、そう思った。そういう女なのだ。何故来たとそう怒鳴られるのは目に見えている。怒鳴られても抵抗されても罵られても、うるせぇと一喝して助け出してやれば良い気もしたが、やはりそれは何かが違う。あの女ならば、なればこそ、全てにけりをつけてくる。それを邪魔するのは野暮というものだ。
 これも下らないプライドの一つかと薄く笑いながら、クロコダイルは紫煙を風に乗せる。吐き出した煙は、大層旨く口に残っていたものだった。だが、帰ってくると待っていろと言ったならば、必ず帰ってくるのだ。鎖に繋がれていても、どこに閉じ込められていても、あの女の自由だけは誰にも奪われない。ドフラミンゴ程度の男に捕えられる存在ではないのだ。手に余る。長くあの女を知っている自分でさえも、手を焼く。行動をいくら先読みしても、幾重に鎖で体を縛りつけても、海を愛した男の娘はただひたすらに自由であり続ける。恐怖も何も、あの女を縛ることは叶わない。
 強い海風が横を通り過ぎ、羽織っているコートに大きく大気を孕ませた。
 どこに居ても、何をしていても、海風の匂いをさせておこうとそんな事を思う。そうしておけば、それを頼りに女は自分の所に帰って来るであろうから。
 踵を返しかけた時、上から社長、と声が落ちてくる。見上げれば双眼鏡を目に当てたダズが展望台に登り、はるか遠くを見ている。そちらに目をやり、両の瞼を使って視界を狭めれば本当に小さな島のようなものが見えた。島です、と上から降ってくる声。
「どうしますか」
「上陸だ。他に、なにかあるかね?ダズ君」
 クハハ、と冗談交じりの言葉遣いでクロコダイルはそれに応じた。ダズは一度目を見開き、そして分かりましたと了解し、舵を取る。船長室に戻ろうとした足を反対側に向け直して、船首へと足を運ぶ。海をたっぷりと孕んだその潮風はほんの少し体に重たい。海の重たさが体に沈着する。
 どこで何をしているのか。
 海を全身で受けながら、時折それが脳裏をよぎる。全く馬鹿馬鹿しい選択を取った、否、あの場所では正解ではなかったが、それが最善である選択ではあったのだ、女を思う。帰ってきたらまず一発頭を殴ることは決定事項である。煙が進行方向とは逆に流れた。空を見上げても、大きな鳥のあの姿は見えない。見えない。見え、ない?
 否、巨大な翼が空を塞いだ。
「社長!」
「撃つな!」
 大きく目を見開き、見慣れたはずのその巨大な鳥の来訪にクロコダイルは制止を掛けた。尤も大砲の一つや二つ、そのスピードで軽くかわすことのできる種ではある。ご、と潮風を圧縮させた風が甲板を叩く。大きな鳥は、ヤッカと名付けられていたカヤアンバルはその大きな体を甲板に納めた。船が大きく揺れる。波が甲板を濡らした。その飛沫をかぶりながら、しかし、そんな事を厭う暇もなく、クロコダイルはヤッカに駆け寄った。
「ミト!」
 クロコダイルの姿を見たヤッカは嬉しそうに喉を鳴らし、その周囲を探る。その仕草で、クロコダイルはああそうかと納得した。こいつは今、あの女を乗せていないのだと。落胆する。首をめぐらせても主の姿を認められないヤッカはせかすようにクロコダイルを嘴でつついた。濡れている今、つつかれると非常に痛い。痛ぇよ、と文句を言って、クロコダイルはヤッカの嘴を叩く。
 叩かれたことにヤッカは不服気に目を細め、主を出せとばかりに甲板を叩いた。船が揺れる。
「居ねぇよ、馬鹿鳥が」
 口にすると、それは重い。
 帰ってくるまで、自分の所にまで辿りつくまで、想えば容易いが、考えれば重い。待つという行為には慣れたはずなのだがとクロコダイルは自嘲に似た笑いを小さく零す。その隣に、先程まで展望台に上っていたダズが降りてきて、驚愕に満ちた表情で大きな鳥を見上げる。怒っているのか、羽毛はふわと逆立ち、丸くふわふわとしたその体をさらに一回り大きく見せている。
「虫の居所が悪ィんだ。近付きすぎると食われるぞ」
「こりゃ…カヤアンバルですか…」
「そうだ」
「アンタ、カヤアンバルなんて危ない生物飼ってたんで」
「おれのじゃねェよ」
 だんだん、と鳥の脚が不満気に甲板を叩きながら船を揺らす。このままではうっかり転覆しかねない。落ち着け、とクロコダイルはヤッカの腹に手を乗せようとしたが、膨れ上がった羽毛に手が埋もれただけだった。高い声が上がる。怒っているのが、良く分かった。何故お前の隣に居ないのかとばかりにその瞳で体で嘴で全身で、怒りを表現する。
 おれだってと言い訳をしようとして止めた。結局、それを女に選択させたのは自分の弱さであるし、それだけは間違いのない事実である。もっと強かったならば、と考える。それを選択した女も憎たらしいが、選択させた自分の不甲斐なさにも腹が立つ。目をそ向けがちでいたその事柄を、彼女の愛鳥が現れたことで突きつけられる。
「社長、転覆します。このままじゃ」
 流石のダズも鳥の憤懣した状態に顔を顰め、体を刃へと変化させたが、クロコダイルは待てとそれを制止する。くんと鼻を混じったのは潮風と鳥と、それから血の臭い。体を大きく揺らし、ミトの姿を探すヤッカの体をよく見れば、ところどころに小さな(それは彼の体と比較しての話だが)剣が突き刺さっており、足首には大きな傷が山程できていた。致命傷ではないにせよ、それなりの痛みは伴う。
 考えてみれば、ヤッカのような有効に使える生き物をミトが居ないからと言って海軍が手放すはずもないのである。自由に飛びまわれるようにミトはヤッカを鎖に繋いだりすることはなかったし、餌と散歩を終えれば、この鳥は空を旋回しながらミトの家に併設されている寝床に戻ってきた。だが、主がインペルダウンに収容されてからは、脚に鎖をつけられ、大人しく海軍が使用できるように繋ぎとめられていたのだろう、と憶測を付ける。そしておそらくそれは間違いではない。
 待てど暮らせど音の無い主に痺れを切らしたこの鳥は、自身の強い嘴で鎖を叩き割り空へと逃げ、その際にいくらかの傷を負いながらここまでたどり着いたのだと考える。居場所を告げる嘴はインペルダウンに入る前に取られたと本人が言っていたため、この鳥は一度インペルダウンにも向かったに違いない。だが、居なかった。そしてこうやって海を巡り、自分を見つけたのだろう。
 不機嫌になる理由も、よく、分かる。
「手当しろ。こいつは勝手に主を見つけ出す。おい、大人しくしろ、馬鹿鳥が」
 伸ばした手を大きな嘴が突いた。既に水分は飛んでいたので、それはさらさらと砂になって無事に済んだのだが、水で濡れていれば痛いでは済まされないことは目に見えている。主同様気性の荒い、とクロコダイルは一つ舌打ちをする。腕を砂へと変化せて、暴れている頭を甲板に押さえつける。暴れるとなお強く船は揺れた。
 睨みつけてくる瞳は、女とよく似ている。溜息をつきながら、クロコダイルはいいかとヤッカの嘴の鼻に触れた。ほんの少しだけ震わせていた羽が静まる。
「ここには、居ねェ。いつか帰ってくるが、それが待てねぇようなら自分で探しに行け。手当はしてやる」
 獰猛極まりない瞳の色が少しずつ落ち着いて行き、クロコダイルは攻撃色が薄れたヤッカの拘束を解き、薬箱を持ってきたダズに道を空けた。こりゃひどい、とダズは剣に一度手を触れたがそれを抜くことを一瞬躊躇った。暴れやしないだろうか、と不安げな視線をクロコダイルに送り、それを受けたクロコダイルはさっと右手を振り、気にするなと示す。
 あの女に躾けられたこのカヤアンバルは敵には容赦がないが、味方と判断すれば非常に大人しい。好意でもって接すれば己を傷つけることなど、多少の痛みでもしはしない。
 ダズはクロコダイルの言葉を信用して、あまり痛みを与えぬように剣を引きぬく。身が大きく震えたが、ヤッカは一声も漏らすことなく大人しく治療を受けた。ダズの治療は的確で早い。船医でもやらせてやろうかと薄く笑う。
 怪我の手当てが終了し、主が居ない船に用はないとばかりにヤッカはその重たい体を持ち上げた。飛び立とうとしたその一瞬手前、ヤッカは何を考えたのか、クロコダイルの方へとその首を突き出す。がちがちと嘴が威嚇する様な音を立てる。海に突き落とす気じゃあるまいな、とクロコダイルは身構えるが、その足元に一粒の礫が落ちた。それはヤッカの嘴の一部であり、それさえ持っていれば、カヤアンバルはどこに居てもクロコダイルを見つけることができる。
 腰をかがめ、クロコダイルがそれを拾い上げたのを確認すると同時に、ヤッカはその大きな翼で海風を拾った。そして宙空にその巨体を飛ばす。高い声で一声鳴くと、そのまま雲の向こうに消えた。
「社長」
 それは、と掛けられた声に、クロコダイルは掌に残った嘴を掌で転がす。
 カヤアンバルは主の思いを汲むと言う。彼らを手懐けられる人間は滅多にいないが、それができれば彼らはまさに一心同体のように行動する。ほんの少し、まだ嘴が温かい。100km四方にカヤアンバルが居る証拠である。これをヤッカが自分に渡したということは、それ即ち、彼の主が自分の所へと戻ってきたいということである。
 自分が一番女の近くに居たと思っていたが、それは少し間違いだったかとクロコダイルは思い直す。いかなる時も、誰よりも長くあの女の側に居たのは他の誰でもない、あのカヤアンバルである。主のほんの小さな、小さすぎる程小さな願いを知っていたのか。全ては想像にすぎない。粋な真似をしてくれる。
「どうした、ダズ。とっとと上陸準備をしろ」
「ああ…はい」
 呆然としているダズの隣をクロコダイルは通り過ぎる。手元に残ったまだ温かみの残るヤッカの嘴をポケットに入れた。これがまた温もりを持つ時は。
 そう、その時は。
「取敢えず、殴るか」
 馬鹿野郎と、殴ろう。