籠の鳥

 意識が浮上する。ぼやけた視界に白衣を纏った男が映し出される。それと同時にやはり同じく鮮明ではない音で、国王様、と不愉快極まりない名前が呼ばれた。そして、次第にはっきりとしていくボケた視界を目障りな色が覆い尽した。思わず顔を顰める。ここ数日だろうか、使っていなかったと思われる顔の筋肉は、引き攣らせる程度の動きでさえもぎこちなくさせた。
 ミトの表情が動いたことに、ドフラミンゴはニタニタと笑いながら、側に控えていた医を軽く手を振って退出させた。扉は静かな音をさせて閉まる。
 眼球を動かして、ミトは周囲を眺める。白い簡素なベッドの他にはあまり、というよりも全くと言っても過言ではない程に何もない部屋である。窓、向こう側に見える景色から測るとここは随分と高い場所にあると考えて間違いない。そしておそらく、おそらくだが、あれは強化ガラスであり、余程の力を加えなければ割れることもないだろう。自分の能力を過小評価していなければ、それくらいしていてもおかしくはない。この男、ドンキホーテ・ドフラミンゴならば尚更だとミトは腹の中で舌打ちを噛ました。
 他にはやはり何もない。それはつまり、武器にできるものが何もないと言うことである。やってくれる。部屋の中に備え付けられているであろう、少しばかり出っ張った部分はシャワールームとトイレではないだろうかと見当をつける。間違っていてもあっていたとしても、あまり問題はないのだが、やはりどちらも武器を与えてくれそうなものは何もない。食べ物は外から運ばれてくるのだろうか。冷蔵庫が部屋に備え付けられていなければそう考えるのが妥当であった。
 目障りな桃色を視界から外して、鬱陶しい程に白い天井を見上げる。シャンデリアの一つでもあれば、叩き落して武器の一つにでもできたものを、それもない。用意周到、そう表現するのが全くぴったりと言える程にぴったりである。憎らしいくらいに。
 この糞野郎、と悪態をぶちまけようとしたのだが、喉から声は出なかった。一体どれほど使っていなかったのか、どれほどの間自分は気を意識を無くしていたのか、ミトは知らない。無論今更知ったところでどうこうなる話でもないのだが、長らく使われていなかった喉は声の出し方を綺麗に忘れていた。かすれた息しか出てこない。暫くもすれば元に戻ろうものだろうが、思った事を即座に口にできないのは不便なものだとミトは溜息を吐くに留めた。それを上から眺めていたドフラミンゴは白い歯を見せて笑う。お前は歯科医か。
「フッフッフ!ようやくお目覚めか。長らく待たせてくれるじゃねェか」
 黙れ。
 そう、言おうとしたが、はーっと声は吐息でしか表現できない。数回試みて、ようやく「あ」と声が出た。
「だぁ、れ」
「おいおい、記憶喪失の冗談はもう勘弁だ。マァ?あれか、そんな目で睨みつけておきながら、おれのことを忘れたなんてこたァねェだろうが」
 フッフ、と大きな肩を揺らしてドフラミンゴが笑えば、その体を覆い尽す程の羽毛がこすれ合い、体を一層大きく見せた。ベッドの端に3mを越す大男が腰掛け、そこに横たわる女を覗き込む。吐息が交わりそうなほどに近い距離で、ドフラミンゴはサングラスの奥を睨みつけてくる女の目をしっかりと見つめ返し、満足げに笑う。長い舌をちろりと覗かせ、触れる程に、否、実際にその赤い、毒林檎の如き色をした舌でかさついていた女の唇に湿り気を与えるように、ねっとりと舐め上げる。
 ミトは不愉快気に眉をこれ以上ない程に顰め、ドフラミンゴを押しのけようとしたが、持ち上げようとした腕に激痛が走り、それは叶わない。そう言えば、黄猿に撃ち抜かれた上に、パシフィスタにも思う存分地面に叩きつけられたと、そんな事を思い出す。呼吸をしようとすれば肺が、正しくは肺や心臓などの重要な器官を保護する肋骨が痛みを走らせ、脚も同じく動かすことを体の防衛機能が痛みと言う形で拒否した。
 もとより限界などとうに越していた体を精神だけで無理矢理動かしていたのだから、そのつけが回ってきたのだと考えれば至極当然のことでもある。
 ようやくかすれかすれで言葉の紡ぎ方を思い出しながら、ミトはドフラミンゴを睨みつけた。顔にもいくつか傷を負っており、表情を動かせば、それなりの痛みが生じる。とはいえども、それは体の痛みに比べれば十分に軽いものであった。
「さわ、る、ぁ、げす、やぉお」
 あからさまな拒絶と嫌悪感をあらわにした女にドフラミンゴは一度だけ動きを止め、そして唇が触れあう程の近距離で独特な笑いをこぼしていく。歪んだ瞳をサングラスの向こうに、ミトは見た。歪んだ顔は、見ている分には全くもって不愉快の極みである。
 男はひとしきり笑うと、怪我人の唇を貪った。口を覆い隠すようにしっかりと塞ぎ、拒絶ししっかりと堅固に閉じられた歯茎を歯列を、舌でこれ以上ない程に濃厚にしっとりと舐める。舐める、というよりもむしろ食べるような印象が強い。歯をしっかりと閉じているために、相手の食道に入らない唾液は、女の口端からつぅと厭らしいラインを引きながら滴った。
 窓の外、そして天井から零れ落ちる光から女を隠すが如く、大きな体が覆い被さる。既に視界はくっきりと鮮明に周囲の風景を脳へと電気信号で送り続けている。不愉快な顔も、忌々しいこの部屋も、毒すらも思わせる目に痛い色の数々も。白い部屋にはやけに鬱陶しい程浮いていた。
 鼻で呼吸を続け、口付けを頑なに拒む。もとい、歓んで受け入れるつもりなどさらさら無い。捕まったのはこちらの過失、実力不足だったとしても、嫌なものは嫌である。痛いと悲鳴を上げ続ける腕や足は無理に動かせば、悪化することは間違いない。そんな愚行は犯したくないものだ。ミトは手詰まりの状態で眉間に寄せた皺を深くした。
 ゆるりとミトは視線をサングラスの奥に定めた。眼前の男の何一つも悦ばせてやるものか、と。静かな、静かな、ただ見ているだけの目であった。ドフラミンゴはその視線を受け取り、自身ではなく、女の顎に手を添えた。いくら力を加えたとて、腕の、それも男の力に敵う筈もなく、固く閉ざしていた口内への侵入を許す。ぬるり、と熱く鳥肌が立つような舌が滑りこむ。息が詰まるような感覚を覚えた。良いように弄ばれる。舌の根まで吸い尽し、味わうと言うよりむしろ凌辱する。
 しかしその行為下でも視線を逃さず、嫌がってはいるものの、あからさまな抵抗の色は薄い、だが拒絶はしているミトをドフラミンゴは視線を受け止めながら、キスと言うよりも貪り食っているような状態で観察した。あまり、面白くはない。お前など相手にしないとはっきりと言われているようで、そう、全く面白くない。あまり、などではコト足りない。性感帯と俗に呼ばれるそれを刺激しても反応は薄い。実はこいつ不感症なんじゃないだろうかとそう思わされるほどに反応がないのである。頬の一つ染める仕草でもあれば可愛らしいものを、レッドワインの双眸で見栄据えてくるだけで他の行動が無い。
 これ以上すれば、自分と言う存在が女の中から消え去りそうな、そんな悪寒が背筋を突き抜けた。
 それは表面上、おくびには出さずドフラミンゴは思う存分に口内を味わい尽し、最後に舌先で唇を一舐めしてから距離を取った。だが、それと同時に唾が吐きつけられる。どちらの唾液の物かは知らない。初めて会った時も唾を吐きつけられたな、とドフラミンゴは頬につけられた唾を指先で拭いとりつつ、口元を歪めた。
「行儀が悪ィじゃねェか」
「こ、の…この、状態で、笑って自分の骨をへし折った男の来訪を喜べと?どこのマゾヒストだ、私は」
 声がようやく普通に出せるようになり、ミトは鼻でドフラミンゴを笑った。
「手負いの女の唇を奪って愉しげに笑う男を受け入れてやるような器は生憎だが持ち合わせとらん。駄目元で聞いてはみるが、お前、私を開放する気はあるか」
「ねェな。折角手に入れた女を…ん?」
 突如笑いだした女にドフラミンゴは軽く持ち上げた手を止め、愉快そうに持ち上げていた口元から笑みを取り払った。対照的に、ベッドに転がされている、正しくは安静にしている以上の行為は身体的に不可能な女は、笑う度に痛む肺で肩を震わせて小さく声を零し続けた。
 何がおかしい、とドフラミンゴは口をへの字に曲げて、歯を閉める。それにミトは、はは、と笑い目を細め、そして下からではあるが、ドフラミンゴを見事なまでに精神的に見下した。
「笑うな。笑いが止まらない。お前が、私を手に入れた?冗談じゃァない。お前は何を持って私を手に入れたなどとほざけるんだ?ええ?冗談はその不愉快で不細工なコートだけにしておけよ」
「…少なくとも、ワニ野郎からは奪い取ったとは思うが?現に。現に、てめぇは身動き一つ取れねェ状態で、おれの考え一つで生死を左右される」
「ほう?やってみるか?私を殺してみるか?殺せるものならばそうしてみろ。私はもう海兵ではない。お前に対して手加減してやる必要などどこにもなくなった。王下七武海などと言う馬鹿げた肩書きが守ってくれると思うな」
「満身創痍でそこまで啖呵切れりゃ十分だ」
 一週間近く昏睡状態だったミトにドフラミンゴは口元を歪め直した。医者に命は保証できませんとまで言われたのだ。実際に出血量がひどかったし、自分が骨を折った所もなかなかに酷い様子であった。この状態で戦場で暴れまわっていたと笑えば、医者はとんでもない生物を見るような目つきを女に向けたのだった。
 尤も、戦場においてはあらゆる想定できないことが起きる場所であり、あの白ひげもそしてオーズの動きも人間としてその状態で動けるのは明らかにおかしいだろうという状態で動いていたのだ。それから考えれば、まぁ、なんら不思議もない。現に今目の前で寝ている人間は、左腕にはひびが入り、左足首は二度の捻挫していたと言うのだ。一週間という短期間でそれが治るとは思えず、その状態でここまでの啖呵を吐く。
 砕きがいのありそうな女である。
 ドフラミンゴの思考を妨げるようにミトは笑った。嗤った。
「はっ、は…ッ!お前は、私を手に入れてなどいない。今から犯してみるか?残るのはただお前の虚無感ばかりだろうよ。お前ごときが奪えると思うなよ。御褒美が欲しけりゃ政府に汚らしい尻尾でも振っていろ、駄犬が」
 相手の神経を最低逆撫でしないぎりぎりの綱渡りをミトはしていた。吐き捨てて行く言葉で相手を罵り、しかし手は出させない。ドフラミンゴもそれを知ってか知らずか、恐らく気付いてはいるのだろうが、ミトの言葉に対して、体をベッドに押し付けるという真似はしなかった。座った場所から、悔しげな色を口端に滲ませ、多少引き攣った笑みを口角に乗せる。
 空気が痛い程に冷たく、静かに二人の間を埋め尽くす。
 殺意すら込められた視線と汚い口上にドフラミンゴは口元を大きく歪めた。流石に癇に障る。
「助けてやったおれに対してその対応はないだろう?」
「助けてやった?恩着せがましい!人の肋骨を踏み折った野郎の台詞じゃないな。これだけは覚えておけ。私は必ずクロコダイルの元へと帰る。引き止められるものならば引き止めてみろ。手足の骨をへし折ったところで無駄だと言うことは初めに言っておくぞ」
「ワニ野郎の何がそんなにイイのかね」
 おれには少しも分からねェ、とドフラミンゴはミトの挑発には乗らず軽く肩をすくめるに終える。酷く理性的で頭の回る男だからこそ、仲間に一人いればかなり役に立つ。だが男としての魅力はどうだろうか。欲しいものを欲しいと言えずに、側に居させていただけの男の一体何が良いのか、ドフラミンゴには理解できない。欲しいものは何をしてでも欲しいと迷わず口にし、ねじ伏せてでも手に入れてきた己と比べれば、魅力など感じない。
 あの船上での別れ際のあの行動も、クロコダイルという男の性格から鑑みれば異質も異質、驚きの行動ではあったのだ。否、あれが元々の男の顔であって、今まで理性と言う仮面を被ってきただけならばそれも頷けるのだが。しかしどちらにせよ、長い間被ってきた仮面を取り外して素顔を見せるというのは、あの男の性格上酷く困難を極めたことだろう。矜持が先に来るような男である。それをかなぐり捨ててまで叫んだというのに、今その女はこの手のうちに居る。ざまァねェとドフラミンゴはフッフと笑う。
 しかし面白くないのが、この女のこの態度。怯える、は、まぁ、想像はしていなかったものの、もっとこう絶望にも近い表情を見せて、ケダモノのように自分を愛しい男から引きはがした男を殺さんばかりに睨みつけてくれると思っていたと言うのに、やけに冷静で全く面白くない。心の中を見透かされているようで、アア、面白くないにも程がある。見透かしたような目をしたうえで、こちらを見るのを止める。取るに足りない相手だと判断し、鼻で笑って背を向ける。
 面白くない。
 こっちを向け。
 話していても、言葉を交わしても、女の心は此処にはない。
 手の中に入って来ない。触れることもかなわない。
 お前の心は何処にある。あの男のところだろうか。海に居る、あの黒髪の、山よりも高いプライドの持ち主か。
 そうなのか。
 ドフラミンゴは、ミトの首に指先を触れさせた。そして、そのまま一気に掌で白いシーツに押し付ける。息が一瞬で詰まり、ミトは苦しげな呻きを思わず漏らした。思考が少しぶれているのを第三者視点で眺めながら、ドフラミンゴはミトを見下ろす。僅かな間酔いを与える色をした瞳が細められたが、それはすぐさまこちらを見据えるだけのそれに変わる。どこか遠くに、上から下から、遠くから。
 お前の手には落ちないよ、とそう笑う瞳がある。
 引きずりおろしたい。その高みから、自分のステージに叩き下ろして、自分と言う存在を確認させたい。そして向き合いたい。手に入れたと思った女は全く指先にすら触れることかなっていない。実体に触れても、何の意味もなかった。苛立ちと焦燥が身を焼く。苦しげな声が鼓膜を叩いた。
「いった、はず、だ…ッ!お前とあいつを一緒にするな、と。あいつは、お前とは違う。あいつは、」
 あいつは、と続けられた言葉の先にあるものをドフラミンゴは耳にたたき込まれる。
 無二だ。
 そのたった一言だった。
「お前に、私は奪えない。お前は、違う!」
 そう、ミトが叫んだと同時にドフラミンゴは大きな手を離した。片手で女の首を容易く一周していた指先の痕がくっきりと残っている。顔を横にして、ミトは数度咳込んだ。暫く呼吸を置いて、ミトはドフラミンゴの問い掛けに答える。
「何が、いいか?私がクロコダイルの隣を選んだのは、あいつが私の死を奪ったからだ。私の死際を奪いやがった」
 だから、と続けた言葉に耳をふさぎたい衝動にかられる。面白くない。
「私はあいつの隣に帰るんだ」
 二つの瞳は揺ぎ無い。全く、揺れ動かない。憎たらしい。
「おれはてめぇを逃がさん」
 怪我に触らぬように、シーツに両手両足を付けて、女を覆った。随分と小さな体が大きな体の下で隠れる。ゆっくりと、と口元に笑みを作った。負け惜しみからくる笑みのようだ、と腹の底でドフラミンゴは笑う。強ち、それは間違いではないのかもしれない。否、間違いではない。この女の価値観の中において、自分はあのクロコダイルと言う男に圧倒的に負けている。負けていると言うか、既に、同じ壇上にすら立たせてもらっていない。
 ああとドフラミンゴはミトの目尻に親指を添える。そしてゆっくりと眼球を抉りだすかのようにその下をなぞった。
「ワニ野郎がやったのと同じように、おれも奪い取ってやるよ。てめぇから、全部。体から、心から、一切合財、全て」
 瞼と眼球の隙間に爪が入りそうになり、ミトは目を閉じてそれを防ぐ。そうすると、人差し指と親指が無理矢理瞼を強制的に開かせた。赤いざらりとしたぬめりを持った舌が視界に飛びこむ。舐められた。悪寒にも近いそれが、体を詰る。腕が持ち上がるのであれば、その頬を強烈に殴り飛ばしてやりたい衝動にかられつつ、しかしそれができないので、ミトは大人しくそれを受け入れるしかなかった。
 べろり、と赤い舌が眼球を一舐めした。ド「フラミンゴ」ならば突く方が好みそうだがな、と末恐ろしいことを考えながら、ミトは男が距離を取るのを待った。抵抗は加虐心を煽るに終わるのは知っている。得策ではない。
 指先が掌が、シーツに埋もれている体のラインを外側からなぞっていく。肩、胸、脇腹、太腿、膝、脛、足の親指。手の触れた場所が全て己の所有物になるとでも言わんばかりの触れ方をドフラミンゴはした。
「全部、だ」
 そして最後にその言葉と共に胸と胸の中心、心臓の上に人差し指を乗せた。それが心を意味するものなのか、それとも命を握っていると言う意味なのか、定かではないが、どうせ両方を意図してのことはミトも理解した。そして、その上で、く、と小さく喉を鳴らした。
「奪い返せるものか」
「あいつを殺せば、全部てめぇに返ってくるだろ?」
「は、はっははは!それこそ笑い話だ!お前程度の男に殺せるか!笑わせるな、折れた肋骨が痛いわ。覚えておけ、お前がそうやって在り続ける限り、私は手に入らんぞ」
「何か?手に入れさせてくれる余地はあるのか」
「無いな。可愛らしいおねだりの仕方でも練習しておけ。『上』から骨っこでも落ちてくるかもしれんぞ?」
「心底ムカツク野郎だ」
「最高の褒め言葉だ、鳥野郎。長い首に食らいつかれないように気を付けることだな」
 この言い合いのこの瞬間だけは、この女はこちらを見ている事実にドフラミンゴは気付く。そして何とも言葉にしようの無い感情を胸の奥に覚えた。どうしようもない。
 言い合いを止め、口端を小さく吊り上げて、今までとは少しばかり違う笑みを浮かべたドフラミンゴにミトは同じように口を閉じた。サングラスの奥の瞳は、大きな掌に隠れてしまって覗き見ることができない。目の前に座る暴力的なまでに貪欲な男が一体何を本当は求めているのか、ミトには判断がつかない。尤も、彼が何を考えているのか何を欲しているのかが理解できたところで、それに従うつもりなど毛頭ないのだが。
 先程とはうって変わった調子で頬に指先が触れた。どこか、慈しむような触れ方をする。
「ああ、本当に」
 気をつけねェとな、と自嘲すら滲ませた口元からその言葉が零れ落ちた。少し傾けられた頭は光の加減でサングラスの奥が覗き見えない。見えたところで何も変わらないけれども。
「大切に大切に、『飼って』やるよ。飼われていることすらうっかり忘れるくらいに、大事にな」
「狗の分際でペットでも飼うつもりか。いい度胸だ」
 ドフラミンゴの言葉をミトは鼻で笑い飛ばした。それにドフラミンゴは一瞬だけ触れさせた優しげな指先を強いものに変えて、しっかりとした顎を掴んだ。視線が、光が反射して見えない奥の瞳と絡み合う。
「飼われる快楽を骨の髄まで叩きこんでやろうか」
「可愛いペットに手を噛まれる痛さを教え込んでやろう。手と言わず、首ももぎ取ってやるからそのつもりでいろ」
「ああ、そいつァ、そいつは、楽しみにしとかねェとな。まずは口輪でも買って、てめぇに嵌めるとするか。ボールギャグの方が好みか?」
「悪いがSMプレイに興味はない。嵌められたければ、それの店でも行ってきて鞭打ってもらえ。案外そっちの道に目覚めることができるんじゃないか?その趣味の悪いピンクのコートなんぞぴったりじゃないか」
 ひゅぅ、と息を吐いた女の顔色はひどく悪い。考えてみれば、目覚めたばかりで、食事と呼べるものはここ一週間していない。全ては経口摂取ではなく、点滴で持たせていたのだ。無理もない。そんな状態でもなお、噛付くことを止めない忘れないのには全く敬服に値する。折れた肋骨は会話をするたびに酷く痛むであろう。
 ドフラミンゴは喉を軽く鳴らすと、まずはとミトの頬をするりとなぞった。逃れるように顔が横に逃げられる。可愛いもんだ、とドフラミンゴは肩を揺らした。
「マァ、まずは飯にでもしようじゃないか?ええ?お嬢さん」
「今更紳士気取りか?化けの皮は既に剥がれていると言うのに、滑稽なことだ。だが頂こう。毒でも入っていなければ良いがな」
「媚薬でも入れてやろうか。足腰立たなくしてやるぜ?」
「既に立てない状況なんだがな、鳥野郎」
 軽口を軽口で返し、しかし嫌悪感だけを残した瞳で見られたドフラミンゴはフッフと声をこぼす。
「ああ、全く、その通りだ。おれも怪我人を抱く趣味はねェンでな」
「ああ、全く、それは全く有り難いことだ」
 ミトの軽口にドフラミンゴはサングラスの奥で目を細め、にぃと白い歯を見せた。
「二週間もすりゃ歩けるようにはなるだろうよ。多少の痛みはあるだろうが」
「そうか、二週間もすればお前のその不愉快な顔も見納め。喜ばしいことだ」
「…忘れねェようにしっかり見とけよ?逃がしてやるつもりはさらさらねェけどな」
 直ぐに帰ってくると言う意図を含め、椅子にピンクのコートを引っ掛け、ドフラミンゴは白い、ミトが横たわっているベッドからその重たい体を退けた。ぎっと大きくベッドが軋む。古いベッドではないと言うのに、全く大きな男が一人座っているだけでこれである。
 舌で唇を一舐めして、ドフラミンゴは直ぐに戻ってくる、と振り返って笑い、一度部屋から出ようとしたが、ミトは待てとそれを一度引き止める。寂しくなったか?とからかう男に黙れと一言投げて、そして窓を見た。
「窓を開けてくれ。お前のその鼻に付く香水の匂いは嫌いなんでな」
「言ってくれる」
「もう一度繰り返してやろうか」
「いいや、結構だ」
 ドフラミンゴは両手を上げて、ひょいひょいとその外股で窓まで近寄り、強化ガラスの鍵を持ち上げて窓を開ける。さぁと心地よい風が入り込み、頬を撫ぜる。その足では逃げられないことを知っているのか、ドフラミンゴは取り立てて何を言うまでもなく、部屋から一度出た。
 一人になった鳥籠の中で、ミトはぴゅいーと高く口笛を吹く。ヤッカが近くに居ればもうけものだが、彼の存在を知らせる嘴が無いので、完全に手探り状態である。最高速度は時速300km近く出るカヤアンバルだが、それでこの強化ガラスが壊れるかどうか。どちらにせよ、ヤッカに居場所を知らせて置いた方が良い。口笛の調子で自分の考えを伝えながら、ミトは痛む肺と動かぬ体に舌打ちをする。届いているかどうか分からぬこの口笛の音。ドフラミンゴはどうせ、口笛でカヤアンバルに意志を伝えることができるなどと言うことは知らないだろうし、何も知らぬ人間からすれば、自分はただ口笛を吹いているだけだ。暗号よりも、なお難しい。
 ミトは窓の外を見た。空の色に海を見る。
「お前は今、」
 どうしているんだろうな。
 海に居るんだろう、そう、ミトは死を奪った海賊の姿を思い浮かべる。必ず帰ると約束した。待っていろと言った。
「すぐに、行くから」
 だから待っていろと、ミトは届かぬ言葉を静かに口にした。