遺志 - 1/2

1

 私も連れて行け、と女の声が音の反響する監獄に暗く静かに響く。
 ルフィは目の前に居たジンベエから目を反らし、その対面に坐し、暗がりに潜む囚人へと目を向けた。大きな瞳に人一人の姿が映し出される。男だろうか女だろうか、体格からは判断しづらいその人にルフィはようやく声をかけた。
「お前」
「久しぶりだな、麦わら」
 久しぶり、と声をかけられ、ルフィはほんの少し移動してそこに坐していた人間の顔をようやく確認した。そして、そこに座っていた人間に対しての驚きが表情に現れる。元来、表情豊かで、すぐに顔に出るタイプの人間ではあったが、あからさまなまでの驚きがそこには乗る。
 ミトは口角を吊り上げると最初の言葉をもう一度口にし直した。
「私も連れて行け、麦わら」
「連れてけって、お前…なんでこんなところにいるんだ?お前、海軍だろ?」
「元、な。ともかく私を連れて行け、麦わら。ここから私を出せ。助けになると、火拳と約束をしたんだ」
「エースと?」
 耳に届いた兄の名をルフィは口にすることで確認をする。それに対して、ミトはああと頷いた。少しばかり迷っているように見えるルフィに畳みかけるように言葉を紡いだ。
「出せ。今は一人でも多くの手が必要だろう」
 判断をと両手を上で吊られている状態で、ミトはルフィに迫った。ルフィは一拍二拍間をもたせると、分かったと頷く。
 ああこれで。
 牢獄の扉が開けられ、腕を戒める枷を外されて少し鈍った足を動かし立ちあがりながら、ミトはそう思った。そこから先の言葉はふと途切れる。これで、いったいなんだというんだろうかとミトは思考する。目の前の男の兄を助けるために手を貸して、そしてそれから。
 それから、どうなる。
 どうなるのだろうか、そんなことは分からなかった。すべきこともしたいことも、もうないのだ。緩慢に過ぎ去っていく生の中で、腐れ落ちて死ぬだけだと思っていた。戦場で死ねばよいかもしれないと、それで十分だろうかとそう考える。何に対して十分であるかないのかは、やはり分からない。
 ひょっとして、それは生きていることに対して十分ではないのだろうか。十分に戦った、十分に生きた、十分にすべきことをした、十分に十分に。緩慢に死んで行くのは、やはり性に合わないのだ。肌に合わない。一瞬を流れ星のように煌めき、そして死にたい。海で死にたい。戦いの中で、海の中で、野望の中で、夢の中で、満足して死にたい。疲弊しきった心で生きていくには、もう疲れた。死ぬことにですら疲れたのだ。だから、これは言い訳なのかもしれない。
 死に場所を探している自分への。
 戦場であれば、突っ立っていれば殺してくれるだろう。やるべきことを、約束を果たして、そこにいさえすれば、体は刃に貫かれ血を流し、生命維持ができなくなった体は多く転がる躯の一つへと成り果てることだろう。もう、それでいいだろう。生きることにも死ぬことにも疲れ切り、ただ新しくできた目標を果たせればそれだけでよい気持ちになった。
 誰も悲しむことはない。誰の心にも残らない。元来、自分の身に何かがあって、そういった行為をしてくれる人たちはすでに海の藻屑となってしまった。
 自分のことを覚えていてほしいと思う人たちは、もう、いない。
 船長も副船長も、コックも船大工も、剣士も船医も。自分と同じように生き残ったヴィグは、もう新しい家族と居場所を見つけている。彼は彼でその船で生きていけばよい。自分のことなど、忘れてくれて構わない。
 そもそも、あの時あの船で死んでいた命が偶然にも助かっただけなのだ。奇跡的に。死人が歩くとはよく言ったもので、今までの自分はまさにそれそのものだったことだろう。死者のために歩き、死者のために腕をふるい、死者のために死を撒く。死人と変わらない。
 自由になった腕をさすりながら、ミトは冷たい床へと視線を注ぐ。隣でかわされていたクロコダイルやジンベエ、イワンコフたちの会話は一つも耳に入ってこなかった。
 ぼうと呆けているミトの頭をクロコダイルは小突く。顔を上げれば、顎で先を示された。
「ああ。もう、行くのか」
「…てめぇは話を聞いていたのか。服や武器を手に入れる…ニューカマーランドに行く」
「そうか、武器か」
 刀はあるかな、とミトはクロコダイルの隣を歩きながら、ぼんやりと尋ねる。そのぼやきに一拍置き、クロコダイルはミトへと向けていた訝しげな視線を外すと、さぁなと答える。向けられた背中は、何か言いたげに見えたが、それを追求することをミトはしなかった。したところで、なんの変りもないことを、ミトはまた知っていた。
 イワンコフを先頭に道を歩きながら、ざわつきのある部屋へと進む。網タイツをごつい足に滑らせている姿はいっそ異様なのかもしれないが、ここまで堂々と身につけられると反対に、似合っているのではないかとすら思えてしまう光景がクロコダイルたちの前に広がっていた。ジンベエは一寸黙ったが、言及することはせず、奥へと進み、ミトたちもそれに倣う。
 クロコダイルは服を変えれば済むことなので、適当に(とは言ってもなんだかんだでケチをつけて自分が気に入ったものを選別しており、靴まで磨かせていたが)服を選び、手早く身につける。ミトも囚人服を脱ぎ捨てて、手近にあった服で済ませる。幅の大きくとれた服だが、動きを制限することはなく、自由に動ける分楽な作りになっている。
 刃がある武器でなければどうにもならないと思いつつ、ミトは刀や剣が刺してある方へと目を向け、そしてその目を大きく見開いた。震える手を、そのうちの一本へと伸ばし、触れ、そして鞘ごと取り出す。それは、最も手に馴染み体に馴染んだその一口であった。
 これをどこで、と震える声で聞けば、保管庫に納められていたものをとってきたとの返事がなされた。マゼランめ、とミトは軽く口元を歪めた。盗られてしまったのでは葬るも何もない。だが、今ばかりはそれに感謝した。
 海楼石でできてるそれは、通常の刀とは違い、余程のことがない限り、柄を外して茎の手入れをする必要はなかった。最後の戦場になるのだし、折角だから丁寧に手入れをしておこうと、ミトは刀の手入れをする道具を借り、目釘を抜くと柄を外した。
「あ」
 あ、とミトは小さく声を上げた。クロコダイルはその呟きに気付き、靴を磨き終わったことでミトの傍らに立ち、その手に握るものを見下ろした。柄を外している様は一度も見たことがなかったため、その光景は新鮮にも映ったが、それよりも、黙っていたミトの方へと視線が注がれる。
 ほたり、とその頬に滴が伝った。震える唇から、せんちょう、と言葉が零れ落ち、ミトはその腕で柄を払った先に在った茎に指先を滑らせた。そこには通常、刀を作った人の銘が記されているものであるのは、ミトも知っていた。だが、そこにあったのは、製作者の名前ではなかった。
 ミトへ
 ただ一言、そう添えられていた。
 物心つく前から、船長はこの刀を帯びていたので、後から銘を入れたことは間違いない。いつか、と言っていたことを今更ながらに思い出す。自分も戦うための武器がほしいと強請れば、大きくなったらこれをあげようと腰の刀を見せてそう言ってくれたのだ。
 ああとミトは刀を抱きしめる。鞘の冷たい感触が頬に触れ、体の熱を奪っていく。背を丸めていたその体に黒いコートが掛けられる。顔を隠すように掛けられたそのコートからはまだしっかりとは染みついていないが、葉巻の香りがした。有難う、と小さく呟けば、布の上から頭が金属で軽く小突かれた。
 三分だ、と言いかけたその言葉は、クロコボーイと耳障りな声で遮られる。クロコダイルは青筋を立ててそちらへと視線を向けた。己の弱みを握るオカマ王。舌打ちを一つして、クロコダイルはミトの側を離れた。今側を離れても、女は死なないことは、分かっている。
 クロコダイルの足音が離れていき、ミトは暫くじぃと留まっていたが、指先に触れた船長の文字を頬に添える。小さな凹凸だが、そこには確かに己の愛しい人が生きていたという証が残っている。何よりも大切で、何よりも大事で、何よりも何よりも。守りたかった人の存在が残っている。これを彫った時、自身の船長は一体何を思ったのだろう、どんな顔をしたのだろうとミトは考える。優しく頭を撫でてくれて、優しい笑顔を向けられた記憶だけが胸の奥にただただ鮮明に思い浮かぶ。思いだせなかった、あの人の笑顔がくっきりと瞼の裏に思い浮かんだ。
 一体何の御褒美だろうか。
 ミトは涙を指の腹で拭いとり、指先の感覚だけで柄を元に戻し、上から目釘を打ち直す。一口の刀に全ての重みが戻ってきた。この刀を振るう最後の時に、その笑顔を取り戻せたことをミトは心から喜んだ。あの笑顔を思い出して死ねるならば、これ以上の幸せはないだろう。一人死んでいくものだと思っていたからこそ、「仲間」の側で死ねること程嬉しいものはない。
 その時、なぁ、と少し焦り気味にすら感じられる声がコートの向こう側から届いた。下からは、草鞋が二足覗いている。ミトは涙が落ちていないか指先で確認してから、掛けられていたコートを頭から肩まで落とした。その先に居たのは、まだかと言わんばかりに急いている青年の姿だった。
「もう、終わった」
 ミトは口元に笑みを添えて、ルフィへと言葉を掛けて下ろしていた腰を上げる。するとルフィはそうか、と返事をして、お前と話の続きを求めて呼びかけた。まっすぐな瞳に見上げられ、ミトは何だと答える。
「何で、エースを助けてくれるんだ?お前は、ワニみてぇに理由があるわけでもねぇし、ジンベエみたいに白ひげっていう海賊に恩があるわけでもねえ。エースの友達でも、ねぇんだよな?」
 麦わら帽子がルフィが立ち上がったことでゆらと動きに合わせて揺れた。
「それに、お前なんか変だぞ。前に会った時は、もっと、こう」
「人は変わるものさ、麦わら。私も変わったんだ」
「そんなもんか?まぁ、エースを助ける手伝いしてくれるんならそれでいいんだけどよ」
 ちょっと気になった、とルフィは未だにミトから視線を逸らさず、心の奥まで見抜くかのようにそのレッドワインの瞳を見詰めた。痛い程の視線を受けながら、ミトは視線を泳がせることはせず、ただその若い目を見つめ返す。
 答えを返すために、唇を使って音を紡ぐ。だが、ミトの口が音を紡ぐ前に、ルフィの言葉が先に飛び出した。考えなしに、というわけではないだろうが、思ったことをすぐに口にする性質なのは見ればすぐに分かる。
「お前さ、どっかロビンに似てる」
「ロビンに?私は黒髪でも、あそこまで美人でもないし、スタイルも良くないぞ?戦闘タイプも違うしな。能力者でもない」
 ミトの答えに、ルフィはそうじゃなくて、とその黒髪をクロコダイルの手と比べれば小さな手で混ぜながら、うんと唸る。一つ一つ、言葉を探すような会話が口に上がる。
「こう、うん?いや、違うな。あー…っ!難しいな!」
「私もお前の頭の中は読めないから難しいよ」
「お前さ」
「うん?」
 ようやく言葉を見つけたようで、ルフィはミトの顔を見つめる。ルフィは視線をそらさぬまま、ミトへとその言葉を投げかけた。それはウォーターセブンでロビンが何度も何度も口にした言葉だった。
 死にたいのか?
 そう、ルフィは言葉を紡いだ。ミトはそれに言葉を反対に失う。しかしルフィはさらに続けた。
「お前見てるとさ、もういいんだって言ってるような気がする。生きたくねぇのか?前会った時のお前は、もっと生きてたぞ」
「…たとえ死んでもやらなくてはいけないことがあったんだ」
「それが終わったから、死んでもいいのか?」
「そうだな」
「生きたくないのか?」
 生きたくないのか、と問われ、ミトはそうだなと腰帯に鞘を縛りながら、小さく笑いながら言葉を返した。
「麦わら、お前は今エースを助けたいんだろう。余計なことで頭を一杯にする暇などあるのか?寧ろ今、お前がそう言わなければいけない相手は私ではなく、火拳だろう。足掻けと、もがけと。生きろ、と」
「そうだな。でもさ、お前知っといた方がいいよ」
「何を」
 腰に帯びた重みにしっくりともがれた身体の一部を感じながら、ミトはルフィの言葉を聞いた。
「おれがエースを心配するように、お前にだって、お前を心配する人がいるんだ。そういう奴ら、泣かせちゃ駄目だろ。悲しいからな」
「…残念だがな、麦わら。私にはもうそういう仲間は残って無いんだ」
「ワニは違うのか」
「あいつは違うな」
 ははとミトは軽く笑ってルフィの言葉を否定した。そして少し離れたところで、イワンコフと話しているクロコダイルの背を見つける。そして、肩に掛けられたコートを手に取り、手早く折り畳んだ。
「私は、死んでいるのさ。麦わら」
「え!お前死んでんのか!なのに生きてんのか!?すっげー!」
 きらきらと輝いた目にミトは肩を揺らして笑い、そうじゃないさ、と天井を見上げる。海底監獄のそこは海の中。
「あいつは生きて、私は死んでいる。あいつは私の友人で、でもなぁ、仲間じゃないんだ。家族でもない。私の彼らは死んで、今頃は海の一部さ」
 天井を見詰めたまま微動だにしないミトを眺めて、ルフィは良く分かんねぇ、と首を傾げた。幼い表情でのその行動は、可愛らしい。ミトはルフィの頭をポンと撫でた。
「分かる必要などないさ。お前はただ、前に向かって進めばいい。海賊」
「…死んだら、終わるんだぞ」
「知っているさ。死んだら終わるから、全てが終わってしまうから、私は今まで死ねなかった。足を止めてはいけない理由があった、死人が足を動かして前へと進んで、必死に生きたふりをしていた。だが、その理由が無くなった。私は、あの時にあの場所で、皆と一緒に沈むべきだったんだろうな。本当は」
「仲間は、誰も仲間の死なんか望まねぇぞ。仲間だから、守りたいんだ。生きていてほしいんだ。お前の仲間は違ったのか」
「…仲間の遺志はそうでも、私の意志は違った」
「クロコダイルは、そう望んでないのか?」
 ワニ、ではなくクロコダイルと正しい名を呼んだルフィに、ミトは目線を戻す。なぁ、とルフィは一番初めに語りかけたように言葉を続けた。
「もっと周り見ろよ。誰もお前が死ぬことなんて望んでないだろ。人は、一人じゃ生きてけないんだぞ。死んでねぇよ、お前ちゃんと生きてたよ。海で会った時は、お前、生きてたし、今もまだお前は」
 生きてるよ。
 死人に掛ける言葉にこれほど相応しくない単語は無い、とミトは薄く笑う。愚かな程にまっすぐで、清々しい。まるで潮風のようだ。するりとミトは刀の柄に手を這わせる。
「心臓が動いているのと、生きているってのは、違う。私の心はもう」
 死んでいるのさ。
 船長が殺された時に。仲間が死に絶えた時に。奪い尽された時に。あの惨状が瞼に焼き付けられた時に。
「麦わら、行こう。今助けるべきは、今生きているお前の兄だろう。全てを求めれば、全てを取りこぼすぞ」
 クロコダイルと呼びかけて大きな背に足を向けた女の背を、ルフィは静かに眺めていた。