指先の触れる

 いつからだろうか。
 いつから、隣にこの女が居ることが普通となったのだろうか。
 いつからなどともう既に覚えていないクロコダイルは、海楼石で作られた手枷の重さを腕にずっしりと感じながら、そんな事を頭に思い浮かべた。実質、それを考える他に取り立ててすることもなく、静かすぎる程静かな監獄においては、思考までも止めてしまえば、それはもはや死と同義であるようにすら思えた。
 義手である鉤爪よりも、枷はさらに重たい。
 インペルダウンに連行される前、麦わらに敗北する前、アラバスタで英雄とされる前、七武海として恐れられる前、海軍本部マリージョアで出会う前、それよりももっと前、ルーキーの自分が海に居た時代。海の上で出会った。見るからに人のよさそうな船長に、海で会ったんだなど、あまり正確には覚えていないが何だかんだで宴に巻き込まれた。その時に出会ったのだ。その時の自分は青年で、その時の女は少女だった。子供のような顔をして、きらきらとこちらを見ていた。今よりも前髪も後髪も少しばかり長く、背丈も当然ながら小さかった。成長していないのは、その平坦な胸と凹凸の少ない体だけだろう。使えるだけの筋肉はつき、身長も馬鹿みたいに伸びたようだが。
 風の便りで、その時の船長が殺されたと言う話だけは耳にした。その時、ふとあの少女は一体どうなっただろうかと、そんなことをらしくもなく考えている自分が居たのは確かである。心配したわけではなく、ただ普通に疑問に思っただけだった。グランドライン生息種大型鳥類カヤアンバルを手懐けて、そう言えば大層聞こえは悪いが、そうしていた少女はやはり奇妙でやけに印象に残る存在ではあったのだ。
 夜の海で、まだ小さなカヤアンバルを肩に止まらせ、爪が痛いと笑っていた、奇妙な不思議な塊だった。酒の席でもあったので、ひょっとするとそれも手伝っていたのかもしれない。
 カヤアンバルは生後一二年は普通の鷹や鷲などとそう大きさは変わらないが、三年を超すと途端何の突然変異かと思われる程に大きくなる。日に日に巨大化する、と言うのが最も正確である。ある程度の大きさになると、またぴたりと成長を止めてしまう不可思議な生物だ。最速、とまでは行かないが、グランドラインにおける鳥類では、上の中の速度を誇り、空を疾走する。また、彼らの頭部から生えている二本のたなびく触角のような羽と、その内臓は薬になることから非常に高額で売買された。カヤアンバルの人懐こい性格も不幸して乱獲され、現在では絶滅危惧種であり、希少種となっている。ただし、人を背に乗せることは極度に嫌い、背に乗ろうとする人間は容赦なくその鋭い鉤爪で引き裂かれるか、嘴で食い殺す。
 その、カヤアンバルを肩に乗せている。常時というわけではないが、口笛を一つ吹けば、どこからともなく空から舞い降り、その肩に納まっていた。二度目に会った時は、カヤアンバルも爪を立てずに肩に止まる方法を学んだようで、少女が痛そうな顔をすることは無くなっていた。
 カヤアンバルが大きくなってからは、少女はどこからともなく空からやってくることが多くなった。クロコダイルと楽しげな顔をして、色々なものを自分に見せた。空島に行ってきただの、夢物語を口にしては、そこはとても面白い場所だったと語る。そして、今度はこちらがどんな旅をしてきたのだと問う。船長が心配してんじゃねェのか、と問えば、行ってきますと言ってきた、と屈託のない笑顔が返事であった。海に突き落としたところで、能力者でもない少女は溺れることも知らず、それどころか、カヤアンバルという鳥類を従えている以上、海王類など恐ろしくはないだろう。何しろ、大人になったカヤアンバルの主食は海王類なのだから。
 少女の話は大抵海の事と、海賊の事と、海軍の事と、海の男たちの戦いと、それから少女の船の話だった。船長のこと、副船長の事、コックの事、船大工の事。兎も角、話は尽きなかった。餓鬼の浅知恵分かるまいと思いつつ、考古学の話をすれば、それでそれで?と目を輝かせて聞くものだから、ついつい夜を明かして話しこんでしまい、その度に後悔した。聞き上手な人間は、全く厄介なものであった。
 少女は、自由そのものであった。海を空を陸を、どこまでも自由に奔る。
 空と海の青に帰る少女を、白い朝焼けと共に眺めていれば、こいつを捕まえることは誰にもできはしまいと思わされた。去る者は追わず、逃げるものを捕まえたくなる性分ではないし、特に捕えたいと思ったことはないが、そんな自由奔放な人間が唯自分も帰る場所の一つなのだと認識されている事は、何故だか不思議と小さな優越感があった。
 だが、ある日を境に少女は自分の前に姿を現さなくなった。探そうとは思わなかった。元々自分のものではなかったのだし、どこに行くにも水のように風のように自由な人間だったから、その来訪が無くなっても、仕方がないと考えられた。ただ、時折空から来ないだろうかと、海よりも空の方を眺めている自分が居た。
 居たのが、訪れるのが、帰ってくるのが通常だったから、訪れなくなった一二年は非常に非日常であった。しかし、三年もすれば来ない方が日常になって、それが普通になった。海に生きていた少女だから、海に散ったのかもしれない。ここは常に死と隣り合わせの世界なのだから、何があってもおかしくない。少女を守るものは少女でしかないし、力及ばずであれば、海の藻屑になったことだろう。
 だが、少女は生きていた。少女とはもう呼べぬ年頃の女と再会したのは、それから何年も経ってからのことだった。
 正義の名のもとにその女が従っているのは、大層不思議な光景に思えた。そもそも、従僕という単語がこれ程似合わない人間はいないのだ。さらに言えば、あれほど自由を掲げる海賊を愛した女が、海軍に在籍しているのも腑に落ちない。しかしながら、自分はそれにもう関与するだけの興味関心はないだろうと声をかけるのを止めた。そして、女もすれ違った際に何のアクションも起さなかった。
 それが、答えだ。
 何年にも渡り、非日常が日常に変わった。空から下りてくる自由奔放な摩訶不思議な人間が隣に居ることはもうない。
 ないのだ、と思っていたが、いつの間にか、またその日常から非日常になり、日常へと変化してしまった。女は隣で笑って落ち着いてそこに居るのが当然になってしまった。気付けば、あの時のように空を見上げている自分が居る。
 葉巻が無いのは口寂しいものだ、とクロコダイルはかちんと歯を鳴らした。
 ただ異なることと言えば、女は冷たい目をするようになった。悪夢を見るようになった。愛しいものを奪われたその悲しみで、時折押しつぶされるようになった。
 どれだけ、どれほど、女にとってあの海賊が愛おしく大切で、掛替えの無いものであったか、想像に難くない。楽しげに笑ったり、冗談を言ったり、頬を膨らましたりした姿しか見たことが無かったから、そんな一面を見せられて酷く驚かされた。
 泊めてくれ、と疲れ切った顔をしてベッドを占領された日は、時の流れとは残酷だと思い知らされた。海賊王という単語を笑うようになった自分も、復讐に生きる女も、如実に時の流れを示している。嫌味なまでに。部屋の隅で蹲り、何かに怯える様からは、空を飛ぶ少女を思い浮かべることは到底不可能であった。
 久しぶりの対面をプライベートで果たした時、女の第一声は「生きていたのか」だった。それは、大切なものを亡くした人間からしか出てこない一言である。女の口から過去を語られた、否、何があったと返事が無いことを前提に尋ねて返ってきたのは、ほぼ予想通りの言葉だった。そうでなくては、女が海軍に在籍する意味を見いだせない。
 お前に海軍は似合わねぇ、と言えば、海賊にはなれない、と女は辛そうに笑う。何故なれないのかと、聞くまでもなく、彼女の目的は海賊では果たせないからである。復讐のために生きて、復讐のために死ぬ。全く馬鹿げている。だが、自分はそれを止めるだけの権利は無く、止める気も起らなかった。
 復讐という目的を失えば、女は死んでしまうだろうと、そう思ったのだ。空からの来訪者が居なくなることを、日常が非日常に変わってしまうことを、どこか拒絶していたのは他ならぬ自分だったのだろう。無為に空を眺めるのは、単純に嫌だったのだ。寂しいなどという感傷的な感情は持ち合わせていないが、無駄に眺めるのは御免被りたかった。来訪者を、心待ちにしていたのかもしれない。己を友だという奇妙な隣人に、そう悪い気もしていなかった。
 全てを一度失って、くたばりそこなって、女はひょっとすると死に場所を探していたのかもしれない。不愉快極まりない。ここには窓もなければ空もないが、相変わらず隣に居て当然の女が居る。「生きて」存在している。それを人は生存と呼ぶ。だがしかし、どこか女は空虚で、何かが足りない。突き詰めれば、生きようと思っていないのだ。生きる意志というものが、基本的に枯渇している。笑いもすれば疲れたと愚痴を言うこともある、何気ない会話を交わすこともある。だが、女はやはり存在しているだけで、生存はしていないのだ。
 ただ、在るだけ。
 何もかもから解放されて、自由になったのかと言えば、そうではない。単純に、目的を失って漂流しているだけである。自由とそれは全く意味が異なる。自由は、生きているからこその自由であるが、漂流はただ死んでいる。流されるままに諾々と在るだけだ。誰かいっそこの女を楽にしてやれば良いのに、とそんな事を考えつつ、自分で殺してやろうとは思わない。
 待っているのか、とクロコダイルは口元を歪めた。
 また空を見上げる日が来る日を待っているのかもしれないと。クロコダイル、と本当の笑顔で空からやってくる女を待っているのだろうと。ただ自由という名の翼を背中に持ち、空を奔り、海を駆け、体一杯に潮風を受けて、海面を散らすその姿がまた見られる日々を待っているのだろう。
 馬鹿馬鹿しい程に人間らしい感情が自分に残っていることをクロコダイルは笑った。そして、いつの間にか少女が、女が自分にとって、側に在って当然の存在であることに、喉から表現のし辛い笑いとなって零れ落ちた。クハハ、と声が空気を震わせる。周囲の囚人は何故自分が笑っているのか分かっていない様子で(分かったら分かったで気味が悪い)奇妙なものを見る視線を向けてくる。
「何か、おかしいのか?」
 隣の牢から女の声が聞こえ、クロコダイルはその笑いを止めた。そして考える。
「いや」
 短い返答から、女の答えはまだ無い。一分二分、三分四分、五分目にようやく返事が短く、そうかと返ってきた。それだけの言葉を言うためだけに、これだけの時間を要したのかと思えば、笑いが止まらない。その笑いが果たして、その女に対するものか、それとも自分に対する嘲りなのかはよく分からなかった。
 この感情も、変化も、自分にはまったく似合わないものである。
 そんな事を考えたところで、女の穴を埋められるなどとは到底思えず、言葉もない。これだけの長い付き合いであると言うのに、単語一つ思いつかないのだ。水の一滴もない砂漠で水を失った魚に水を与えるのは至難の業だ。そして、何よりも問題なのが、魚が水を求めていないと言うことだ。えらで空中の酸素に喘ぎながら、死絶えて行く。そしてその死を受け入れてしまっている。
 そんな魚を砂漠で見下ろしながら、一体何ができるだろうか。何もできはしまい。死にゆく魚を死なせてやる方が、いっそ情に厚いのではないだろうか。そう、思い感じる。ただ、空を見てももう鳥が飛ばないのは、無意味に空を見上げ、誰も居ない隣に指先をまさぐるのは、同じくらい面倒で嫌なことだ。
 酷く矛盾した考えを抱えつつ、クロコダイルは壁に体重を預ける。見上げた天井は恐らく海楼石入りのもので、薄汚れた灰色をしていた。
 死にたい。
 女がその一言を口にすれば、自分はその水分を全て吸い取り、冷たい鉤爪で心臓を貫き殺すことができるだろか。馬鹿な女だと骸を見下ろして、海に帰してやることができるだろうか。分からない。
 海で死にかけたあの瞬間から、この女は既に死んでいたのかもしれない。ただこの女を動かしていたのは「復讐」の二文字だけで、他には何もなかったのだろう。自分との戯れの瞬間は、ほんの少し時間を巻き戻したまどろみの一時。友だと呼び、懐き、触れ、抱きついたのは、女にとって、自分が唯一の拠所だったからに他ならない。
 だから、「友」だったのだろう。
 男でも女でも無く、友であった。それよりも大事なものを女はきっともう作れないのだ。それは恐ろしいからでも悲しいからでも守れなかった自分を悔いているからでもない。それを作ってしまえば、邪魔になるからに違いない。目標のために、他の全てをそぎ落とす。助かった命も、そこから先に繋げられたであろう人生も何もかも、斬り捨てなければ、女はあそこまで這いあがって来られなかったことだろう。
 全く、馬鹿な女だ。
 クロコダイルは見上げていた天井の汚れを一つ目にした。汚い。
 生きる意味を欲しがらない人間に、それを与えることはとても難しい。本当に、難しいのだ。自分がシャバに出たがらないように。放り投げた手足は異様に重たく、手足を戒める鎖など無くとも、ここから出る気にもなれない。それでも、何か面白そうなことがあれば、脱獄の一つでもしてやろうかという気持ちになる自分は良い。そこから先も、また何かを見つけられることだろう。それは一種の切っ掛けにしか過ぎないのだから。
 だが、女はどうだろうか。例えば何か見つけたとして、外に出ても、それが終われば、もう死んでしまうだろう。生きながらにして死んでしまうだろう。呼吸をし、食事をし、歩くだけ、居るだけの、なんの面白みもない、死ぬまで死んでいるものになってしまうことだろう。
 憐れなことこの上ない。見ていられない。
 息を一つ吐いた、所に、更なる来訪者が訪れた。近頃人の出入りが激しいのは気のせいだろうか。クロコダイルは引き連れられてきた囚人を見て目を見張った。まさか、の人物である。
 血の臭いがむわりとLEVEL6に広がった。その人物、正しくは魚人はエース、そしてミトが収容されている牢獄へと入れられた。背でも痒いのか、立ち上がったところを獄卒獣に殴られていた。クロコダイルは静かに二人の会話を耳にする。そして、その内容に、ぞくりと心躍らせた。何とも、楽しい会話が聞こえてくるものだから、自然と喉を震わせる笑い声が漏れてしまった。
 会話を盛り上がらせるために、鉤爪を撫でさすりながらの発言した言葉に、監獄が湧く。それほどに、白ひげという存在は大きい。
「この海にゃァ、ごまんといるんだぜ!!…クハハハハ!!」
 その笑い声にエースは静かに眉間に軽く皺をよせ、クロコダイルを品定めするかのような視線を向けた。その隣で、ミトは久々に声を立てて笑った。張りのある笑い声にクロコダイルは一瞬耳を疑う。
 弾けた笑いにその牢に居た、ジンベエとエースの視線はミトへと移動した。あぁ、とミトは笑うだけ笑って、笑うのを止めた。
「良いな、良いよ、海賊は。それでこその、海賊だ」
「ミト…お前でもオヤジに対する侮辱は」
「侮辱じゃないさ、火拳。考えてもみろ、だから、海賊なんだ。自分の力全てを持って、海の男として殺し合い奪い合う。負けても勝っても恨みなし。生き残れば涙をのみ、再びあい見え、戦うか。そう言う生き物だろう、海賊は」
 子供のように屈託なく、憧れの表情でそう笑うミトにエースは言葉を失う。ミトは笑ったまま、ゆるりと言葉を続けた。
「白ひげが討ち取られれば、確かに、海は荒れる。だが、遅かれ早かれ白ひげも死ぬんだ。彼も不死身じゃァない。嘆く者も居れば喜ぶ者も居る。白ひげを助けようとするものが居るように、殺そうとするものが居る。それは至極自然なことだと私は思う。死ねばそれまで、そこまでの男だったと言うことだ」
「う…む。まァ、オヤジさんは強い男じゃ」
 む、とジンベエは剥き出しにしていた牙を収め、ミトを見、そしてはっと気づいたように、今更ながら、何故ここにという質問をした。それにミトは諸事情だと笑って流した。尤も、同じ牢に捕えられている時点で、何かをしでかしたことも、罪人だと言うことも、言わずとも知れたことではある。
 ミトは、だがと口元に大きく笑みを引く。
「私も白ひげには世話になった。手を貸せるものならば貸したい。まずは、エース。お前をどうやってここから出すかだな」
「何か策でもあるのか?」
「もう少し、エースが早く来ていれば手も打てたが…生憎、私も両手が塞がれていては全く身動きが取れない」
「クハハハ!口だけか!」
 嘲笑を交えたそれに、ミトは唇を尖らせ、眉をへの字に曲げる。エースはその隣で、注意深く、用心深い視線をミトへと向けていた。
「お前の事は良く知っているつもりだが…それは、本心か?」
「クロコダイルの事を言っているのか、それは。ならば心配はいらない。私はあいつの味方をしているわけでは無いし、白ひげの味方をするわけでもない。白ひげを守りたいとは思わない。ただ、手助けをしたいだけだ」
「…それを助けるって言うんじゃねェのか」
「いいや?言わないさ。私個人が動きたいから動くだけだ。勝手に助かれ」
 エースの質問にミトは肩を震わせて、笑って答えた。水を得た魚の笑みは、大層愉快のものであった。そして、ミトはゆっくりと、しかししっかりとエースをその両眼で見据えた。
「私は、お前を助けるために全力を尽くそう。この力を貸そう。約束する。絶望するにはまだ早いぞ、エース。ポートガス・D・エース。白ひげはお前に一体何を教えたんだ?えぇ?諦めることか、挫けることか、弱音の吐き方か、自暴自棄になる方法か。あの立派な男は、そんな事は教えまい。あの男から、お前は一体何を教わった?」
 ミトの言葉の渦に、エースは顔を上げて、軽く唇を噛む。
 クロコダイルはその会話を静かに聞いていた。そして、女に目的ができたことを知る。エースだけでは足らなかった目的が、白ひげという海賊の名前で、目的ができた。
 だが、その後は。
 一抹の不安が胸をよぎる。例えば、エースを無事に脱獄させ、白ひげと海軍との戦争に介入したとして、それに結果がついたとしよう。ミトの、女のそこから先は存在しない。そこからどうするのだろうか、とクロコダイルはようやく笑った女の顔を見て思う。
 ふと会話に加わる。
「…死に場所でも、探してるのか」
 落とされた言葉にミトはいいや、と首を横に振った。そして向かいの檻で腰を落ち着けているクロコダイルへと、檻越しではあるが、まっすぐな視線を、それはかつてクロコダイルが見た生き生きとした瞳だったのだが、向けた。
「死に場所は、死んだ時に考えるさ。今は、手を貸す。お前はどうするんだ?脱獄した時は」
「白ひげの首を取るに決まってんだろうが」
「取れるのか?」
「取るんだ」
 ジンベエの気が鋭くなるのを肌で感じつつも、クロコダイルはそう言いきった。ミトはそのクロコダイルの返答に、満足げに笑った。それでこそ、と続けていく。
「高みに挑戦するのは、海の男の性だな。一発KOされた時の慰めの言葉は考えておいた方が良いか?」
「…てめぇは一度本気で枯らした方が良いみてェだな…アァ?」
 ひくりと頬を引き攣らせたクロコダイルを、ミトはからからと楽しげに笑った。場にそぐわないその明るい笑みがこだまの様に牢獄に響き渡る。その明るい声は、先程の牢を打ち鳴らす音よりも、歓喜の嗤いよりも、牢獄を簡単に染め上げた。
 ミトは、すぅと一息吸う。クロコダイル、と牢獄の反対に居る友へと呼びかけた。それにクロコダイルは眉間に寄せていた皺を軽く取る。
「先の事など考えても、仕方がない。今は、したいことをする」
 だからそれが終わったらお前はどうするのだ、と問いただしたい気持ちは十分にあったが、クロコダイルはその問いを口にすることはしなかった。したところで、分からないとそんな答えが返ってくるのは目に見えていた。伊達に長年付き合っているわけでもない。ただ、今は女の瞳に久方ぶりに光が灯ったことが、どこか喜ばしいと思えた。この女に、しけた面はやはり似合わない。空と海を思わせる、広がるものを彷彿とさせる空気が良く似合うのだ。
 フン、とクロコダイルは鼻で笑う。まるでこれでは、自分がこの女に恋心の一つでも抱いているようではないか。否、似たようなものなのか、と自分の感情変化をクロコダイルは笑った。友では表現しきれぬこの気持ちは、それに近いもののように思える。近いだけであって、それそのものと呼べるとは到底思えないが。そんな、ちゃちな感情ではないのだろう。
 空を見上げるのは、嫌いではなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
「どうした?」
「何でもねェ、ウスラトンカチが」
「…失礼だな。ワニ頭」
「誰がワニ頭だ」
「お前だ、ばーか」
 何だと、と言い返そうとして、我に返り、クロコダイルはふいとそっぽを向いた。一瞬完全に緩みかけた空気に気恥しさを覚えながら、ここに葉巻が無いことを、インペルダウンを訪れてから何度となく悔やみ、そして今同じように悔やんだ。
 天井に向けて息を吐く。全てが終わった時の微かな不安を胸に抱き、海楼石の鎖を少しだけ打ち鳴らした。
 ところでとミトはジンベエへと視線を向ける。
「この戦争に承諾するとは思って無かったが…ここに収容されるとは思って無かった」
「わしはあの人には返せん位の大恩があるからのう。わしとしては、お前さんがここに居ることの方が驚きじゃ。確かに海賊との垣根は低いお前さんではあったがの」
「海賊は好きなんだ。海の屑と呼びならわされて久しいけれど」
「海の屑…センゴクがようわしらを総称してそう言いおったわ」
 軽く肩をすくめたミトに、ジンベエは思い出したようにふんと口を閉じる。
「世間一般では否定できないな。だが夢を追い求める、自由で、海を愛する奴らだと、私は思う」
 にかっと笑って言いきったミトにジンベエは何とも言えない表情をする。
「そんな考えの持ち主とは、驚いた」
「そうか?」  心外だな、とミトは小さく笑ってみせた。