預けもの

 酷い咳が連続して個室に響く。
 簡易ベッドに横たわる女の額には冷たく絞られて畳まれた布が置かれている。しかしその冷たい布も、女の額の熱を吸い込んであっという間に温くなる。顔色は酷く悪く、青色を通り越して紙のように白くなりかけていた。吸い込んだ息はすぐに咳込むことによって外に吐き出される。
 額を冷やす役割を果たさなくなった布を武骨な手が取り払い、桶に張られた冷たい水につけられ再度絞られると額に返される。女の意識は切れてはおらず、うすぼんやりと開かれた瞳が室内の状況を映し出した。女の目には白髪で服の前を大きく広げて筋肉を曝け出し葉巻を咥えた上官と、それから少しばかり安堵の表情を混ぜた性格にやや難ありの新参者の男の姿が飛び込んできた。
 固定されたベッドからは、船をゆるりと揺する波の動きを感じる。
 たしぎは目を二度ほど擦り、ひどく重たく感じる上半身を持ち上げるとベッドの背凭れに体を預けた。頭を寝ていた位置から上げる際に眩暈が襲い倒れ込みそうになるものの、片手をついて体を支える。皮膚が二重になったように感覚が鈍い。
「いやあ、風邪をひかれてもまたまた色っぽいですね。役得役得。汗でぬれて気持ち悪いでしょう。着替えと体を拭くの手伝いますよ」
「…自分でやらせろ」
 こんな状況でも憎まれ口を叩くことを忘れない部下に注意する気力もなく、スモーカーは上半身をようやく起こしたたしぎに目を落とした。あれあれ残念と笑いながら言う部下の頭に拳骨を落とすことも忘れない。
「すびま、すびません、すも、かさん」
「…ったく、ふぬけてる証拠だ」
 心配するなど柄でもなく、スモーカーはたしぎにキツイ一言を喰らわせ、すびませんと再度落ちこんでしまった部下に溜息を漏らすことで止めを刺した。
 ギックは落ち込んでしまったたしぎの口に体温計を咥えさせ、もうちょっと太かったら最高なんですけどと下ネタを容赦なく口にした。度を越したセクハラにスモーカーに泣きつく気力はたしぎにはない。
 スモーカーは再度ギックの頭に拳を落とした。しかし、男に反省の色は一切認められず、からからと笑うばかりである。
「船医によると、一つ前に停泊した島でウイルスにやられたようです。女性にだけ感染するって話ですけど、これはもう眼福ですね。俺としちゃ是非ともこのウイルスを広めて、熱っぽい潤んだ瞳で可愛い女性をどんどん看護したい次第です、大佐殿。上のお世話から下のお世話まで楽しんでできますよ、おれは。あ、もしかして大佐殿も経験なさりたい!成程成程…そのお気持ちよく分かりますが、譲れません」
「いらん」
 頭のネジが一つも二つもぶっ飛んだ発言にスモーカーは気の毒なほどに頭を痛めた。
 この男の上官が海軍の籍を剥奪され、インペルダウンへと連行後、不本意。否、とスモーカーは咥えていた葉巻から煙を大量に吐き出した。不本意などではなく、最終的には自分から引き受けたのだからと思い直し、ギックの顔をじとりと睨みつけるようにして見つめる。
 ミトの私物が全て片付けられた部屋で、以前上官が座っていた椅子にぼんやりと座っていた姿は記憶に新しい。こうやって軽口を叩く姿からは想像ができないほどである。呼び出しに応じなかったため、足を運んだ先で見たのは、女が座っていた椅子に寂しげに腰かけていた姿だった。ミトの、あの女の背中をいまだに追い続けているのは、時折痛々しささえ感じさせる。
 湿気た部屋にいると考えまで湿気たものになるのかとスモーカーは随分と短くなった葉巻を灰皿に捨て、新しい葉巻を取ろうとして予備の葉巻がなくなっていることに気付き、大きく溜息をついた。それを見たたしぎがベッドから出て、買いに行こうとしたのを頭を枕に押しつけて留める。大佐殿は酷い男ですねえと茶々が入ったが、そろそろこれにも慣れてきた。
 スモーカーはたしぎに一言安静にしていろと言いつけると大股で部屋を出た。そして、ちょこちょこと律儀に後ろを付いて歩き船外に出た部下に思わず頭を押さえた。
「…おい」
「はい」
 悪気のない笑顔がきらきらと目に眩しいほどに飛び込んでくる。
 ついてくるなと言おうと口を開きかけたが、大人しく聞き入れるような男でもないことを思い出し、スモーカーは口を閉ざした。しかし、その賢明な諦めも他所にギックは軽い口を開く。
「よろしかったんですか、大佐殿」
「何がだ」
 街中を歩き進み、葉巻を売っている店をショーウィンドウ越しに確かめて探す。なかなかお目当ての店は見つからない。その間にも新しい部下の下らない会話は進む。
「たしぎ曹長を置いて出ても。寂しがっておられるやもしれませんよ」
「…そういうタマじゃねえだろう。大体ガキじゃねえんだ」
「おれは、寂しかったですけど」
 会話に混じった不純物にスモーカーは返答を忘れる。なんと答えてやるのが一番なのか、一寸思いつかずに言葉に詰まった。その間を意にも介さずギックは口から生まれたように話を途切れさせない。
 まあ、と口調が一気に軽くなる。
「たしぎ曹長の寂しさを紛らわせるため、同衾もやぶさかではありません」
「…あのマヌケにお前の前だけでは言わねえように忠告しておいてやる」
「ああひどいひどい。ひどいですよ、大佐殿。男ばかりのこの群れの中、たしぎ曹長という紅一点をいいようにできる絶好の機会じゃあありませんか!」
「お前相当ひどいこと言っている自覚はあるか?」
 なにがいいようにできるだ、とスモーカーは綺麗に刈り上げられた頭を強く殴りつけた。日が昇ってからこの男の頭を殴った回数をもはや覚えてすらいない。たしぎも大概怒鳴りつけてきたが、この男よりはまともだったと間抜けと故意的な間抜けは質が違うのだということにげんなりした。がっくりと肩を落とす。
 スモーカーが意気消沈したところで、ギックはその背を一二度軽く叩き、爽やかな笑顔を顔一杯に広げ、どうですかと問う。
「…何がだ」
「やーですねえもう。男同士でどうですか、なんて答えは一つに決まってるじゃありませんか」
「つまり」
「…え?なんですか、大佐殿。実はチェリーボーイだったりします?」
「誰がチェリーだ!」
「でしたら答えは簡単でしょう。女の子の素敵なお店に決まってるじゃないですか。おれに言わせるなんて、大佐殿ぉ、野暮ってもんですよ」
「悪いがお前が何を言っているのかおれには理解できない」
 歩く足を速めるものの、部下は平然とした様子でそれについていくる。スモーカーはミトの言葉を振り返りながら、癖が強いなんてものではないと苛立たしげに葉巻を噛んだ。
 ギックは横を涼しげな顔で歩きながら、それにと続ける。
「たしぎ曹長も暫くは動けませんし。街の見回りもかねて、いかがですか?」
「…お前は」
 病気の人間を見舞うという言葉一つこの男からは出てこない。
 スモーカーは足をようやく止めて、ギックへと顔を向けた。人懐っこい笑みが浮かべられているが、どこかうすら寒いものを感じる。上官の違和感を感じ取ったのか、部下はそれに対して、笑うことで返した。
「たしぎ曹長の病気が良くなるわけじゃありませんから。でしたら、いつも通りに過ごしたほうが余程価値がある」
「…それでも、見舞いの品一つ買ってやるくらいの優しさはねえのか」
「では、買って帰りましょうか。ポルノ雑誌も添えて」
 取ってつけたような言葉はスモーカーの神経を逆撫でした。胸座を掴もうと手を伸ばすが、その手はあと一歩のところで下げられた。スモーカーは残された一つの目が自分を試すように見ていることに気付く。そして、そうだったと思い出す。
 この男は、いまだ自分を上官と認めたわけではない事実を。
 軽口や飄々とした態度につい忘れてしまいそうになるが、そうだったと思い出し、伸ばしかけた手でスモーカーは髪の毛をかき混ぜた。通過しそうになった沸点が徐々に下げられる。
 冷静さを取り戻した上官に部下はつまらないとばかりに肩をすくめてみせる。
「…お前は、誰かこいつと決めた女でもいねえのか」
「おれは全世界の女性全てを愛していますが?やーもう、女性って本当にいいですよね!柔らかくて気持ちがいい!」
「…その最低発言は聞かなかったことにしてやる」
「大佐殿は?」
 問いかけに問いかけで返すのは反則のようなものである。しかしスモーカーはお前はどうなんだと再度質問をし返した。歩みを再開する。ギックはスモーカーの半歩後ろを歩きながら、そうですねえと口元に人差し指を添える。
 そして、一拍の後、どう思いますと返してきた。
「その軽そうなナリじゃいるようには見えねえな」
「おっとすごく傷つきました。そんなに軽そうに見えるだなんて…身持ちは固い方なんですけど」
 妻子もおらず、始終女の尻と胸を追いかけ、ポルノ雑誌を机に大量に詰め込んでいる男の台詞とは到底思えない。一体どの口がそんな嘘八百を並べ立てることができるのか、スモーカーには全く理解できなかった。
 葉巻を売っている店を見つけ、いつも吸っている葉巻を二ダース手に取り、店員に渡して会計する。
 会計を済ませ、葉巻を手早く服に差していく。一本二本と全て嵌め終え、ようやくスモーカーはいつもの重さに胸を撫で下した。以前ヒナにヘビースモーカーだと小言を言われたが、全くその通りである。
 一本しか口に咥えていないのは酷く口寂しく、スモーカーはもう一本咥え、火をつけて深く吸い込んだ。
 そこで、先程まできゃんきゃんと騒いでいた部下の口が閉ざされていたことに気付き、店に入ってきていないのかと思い首を振るって周囲を確認すれば、一ダース、葉巻の入った箱を手に取って静かに眺めている。
「買うなら早くしろ」
「…おれ、葉巻も煙草も吸いませんよ」
 そう言い、ギックは棚に葉巻の箱を戻す。なら何故手にしていたと口にしようとしたが、そこまで聞くのも野暮である。スモーカーは問質すことをしなかったが、目は口ほどに物を言ってしまったのか、ギックは小さく口元を笑わせ、これはと答える。
「サー・クロコダイルが好んで吸っていた葉巻です。よく大佐に匂いが染着いていましたから、懐かしくてつい」
 店を出て、雑踏に戻り果物を売っている店で、熱で呻いているたしぎのために林檎を二つ購入する。それを隣でギックがお優しいですねえとからかうものだから、二つの内一つは砕けてしまった。
 歩いている最中でも、隣の部下はすれ違う女性の品定めをして、さらっと声をかけに行ったりするのをスモーカーは首根っこを引っ掴んで幾度も止める羽目になる。一人で買いに来た方が余程早く済んだ。
「大佐殿」
 また女かとうんざりしながらスモーカーはギックの問いかけに何だと答えた。しかし、それは次に続けられた言葉によって全身の神経を張りつめることになる。部下の姿は既に人混みにまぎれコートは小さく消えかける。
 耳に、ギックの言葉だけが取り残された。
「海賊です」
 駆けだした先には男女の一組。違う。スモーカーはその顔を見たことがあった。アラバスタで、確かに。
 麦わらの一味。
 この島に停泊していたのかと全身がざわついた。海賊船は周囲にはなかったはずだと思ったが、帆を畳んでいたか、別の港に停めていたならば話は簡単である。周囲に部下はギック一人しかおらず、同時進行で停めている海賊船を探させるのは不可能であるが、目下眼前の二名を捕縛することは可能である。
 人混みは思いのほか邪魔で、のけ、とかき分ける。人混みをすり抜けるようにして駆けた部下は既に海賊と会い見えたようだった。
 背に差してある十手を引き抜く。ギックも自身の武器を手にしていた。武装色の覇気を纏っており、硬度が高い。ギックの突き出した棒の先端は鼻が長い男の右脇腹、肝臓を的確に突いていた。男は激痛に膝から崩れ落ちる。ウソップ、と男の後ろに隠れていた女が悲鳴に近い声を上げた。
 地面に膝をついた男の後ろにいた女に突いた勢いを殺さぬまま、ギックは中央を支点に棒を回転させ渾身の力でナミの首筋を打ち据えようと振り下ろすが、ナミは天候棒を両手で持ち、ギックの一撃を防ぐ。
 嘘。
 ナミは目を疑った。確かにウソップが作った天候棒は三つに分かれる機能を持つため、その強度はそこまで強くはない。しかし、上から打たれただけで壊れるような代物ではない。その天候棒の接合部にひびが入っている。これ以上すると壊れかねない。
 両足のヒールの間でウソップが激痛に悶えている。急所を突かれたのは一目瞭然だった。せめて、せめて立ち上がって逃げることが可能であればと口元が引き攣り笑う。
「今時の海兵は女相手でも、容赦なし?」
 サンジのようにとは言わないが、隙ができれば儲けものである。だが、ナミは即座に自分の読みが甘かったことを悟る。
 海兵の残された片目は自分を女としてなど欠片も見ていない。いっそう力のかかった天候棒が悲鳴を上げる。
「女?」
 黒く陰った顔の中で、一つ目だけが鋭く開かれている。
 容赦のない敵とは今までも邂逅してきた。ナミはこんな目を知っている。この目は、本気の目である。一つの信念を掲げて、それに命をかけている人間の目である。
「アンタ、海賊でしょう」
 男の気迫に地を踏みしめる両足が震えかけた。慈悲だとか慈愛だとか、そういったものが一切削ぎ落とされた声は、耳からぬめりを帯びて入り込み、心臓を凍らせた。
 しかし、こちらとてここで引くわけにはいかない。ナミは腹に力を籠め、必死で頭をフル回転させる。見間違いでさえなければ、この男と同伴していたのは白猟のスモーカーである。ウソップが負傷した今、あの海兵と戦って勝てる自信などナミには一欠けらもなかった。
 万策。
「ナミさんから離れろ!」
 黒足がギックを武器ごと蹴り飛ばす。ギックの靴底が地面を砂埃をたてながら後退した。
 サンジのナミすわぁんと甘い声を他所にナミは天候棒を最大活用する。周囲に人は多く、逃げるには最適の環境下にある。この人混みのお蔭で、一番厄介なスモーカーはここまでたどり着けていない。
「蜃気楼!サンジくん、ウソップ担いで!逃げるわよ!」
「仰せのままに!ナミっすわん!」
 待て、とスモーカーの声が三人の背を追ったが、その声が逃げた背中を掴むことはなかった。
 騒然とした広場にスモーカーは人混みをかき分け、抜け出たころには三人の姿はとうに人の中に紛れ、白いコートがその後ろを追いかけている。人は海賊と海兵の戦闘に巻き込まれないよう両脇に避けはじめ、スモーカーは一気に速度を上げ、ギックの隣に追いつく。
 それ、とギックは笑った。下半身が煙になっている姿はどうにもおかしいようだ。
「いつみても面白い。しかし大佐殿」
「何だ」
「どうやら、ここまでのようです」
 人混みを抜けた先、頼りない紐が張られているその先は、一面の海である。三人の背中が軽やかに飛んだ。青い海に向かって、一切の躊躇なく、その姿が飛ぶ。翼が生えたようにすら錯覚した。
 一面の海に、三つの背中が消える。
 ギックは三人が飛んで消えたところで足を止める。下を覗くまでもなく、少し離れたところを帆船が走り去っていく。風はどうやら麦わらの海賊団に味方したようで、その足は大層速い。
 三人同様に船に飛び乗ろうとしたスモーカーのジャケットをギックは掴んで引きとめる。
「大佐殿、悪魔の実の能力者でしょう?おれ、ごつい男を泳いでまで助けたくはないです」
「…船で追う」
「絶対安静のたしぎ曹長乗ってるの分かってらっしゃるでしょう。それに、今から船に戻って追いかけたところで見つかりません」
 くそ、とスモーカーは吐き捨て、杭の上に乱暴に腰を下ろした。咥えた二本の葉巻の煙を大量に吸い込み、吐き出す。
 仇敵を眼前で逃し、気が立っているスモーカーにギックは恐れることを知らず話しかけた。吐き出した葉巻の煙が開いた海軍コートに包まれる。
「大佐のカヤアンバルのような足があれば追いかけられもしたでしょうけど」
「いい加減にしろ!あいつはもう、海兵でもなんでもない!ただの囚人だ!」
 声を荒げて、スモーカーは直後に悪いと苛立った感情を収めるかのように片手を額に押し当て、深く息を吐いた。ギックを預かって以来、延々と溜めつづけていた感情が肺腑を上がり、喉を焼く。
 この眼前に立つ部下が、気の毒なほどにあの女の背中を追うているものだから、スモーカーはいつも言葉に詰まる瞬間がある。会話の中、ふとした瞬間にギックはミトの話を混ぜる。それはひどく懐かし気で、大切な思い出を手のひらであまりに大事そうに持っているその姿に、一体何度あの女は既に海兵ではないと怒鳴りつけそうになったか。スモーカーはもう数えるのを止めた。
 不本意な怒鳴り方をしたため、すわりが悪そうに頭を下げている上官へとギックは声をかけた。
「大佐殿に想い人はおありで?」
 あまりにも唐突で、脈絡のない言葉にスモーカーは目を一二度瞬き、いないと正直に答えてしまった。すると、ギックはおれもです、と笑って返した。
 あれだけ好色な一面を持ちながら、想い人も恋人もいないのだからそれは多少おかしくもある。スモーカーは話が理解できず怪訝そうに眉を顰めた。
「駄目なんですよねぇ、人が泣くの。この仕事してると、いつどうなるか分からないでしょう?おれは本気で誰かを愛したら、たとえおれのことであったとしても、その女性には泣いてほしくない。その人がよくても、おれがよくない」
「…我儘だな」
「ええ。本気になるって、怖いと思いますよ。本当に。悲しみ以上の幸せだったりはあるんでしょうけど、それでもおれはその小さな悲しみがおれの愛しい人を傷つける様は見たくないし考えたくない。おれが死んでしまったら、おれを愛した人は、おれが愛した人はって考えると、結局最初からそういうお付き合いになる」
 スモーカー大佐、とギックは火傷が残る左目をなぞった。
「おれの大佐は、おれにとっての理想なんです。今でも。あの人の背中に刻まれた二文字が目を瞑ればそこにある。おれが生まれて初めて人に命を預けてもいいと思えた人が、大佐です。おれはまだ、あの人に命を預けっぱなしなんですよ。押しつけて、そのまま預けて。大佐は、あなたにおれの命渡したつもりなんでしょうけど、でも、つもりです。人の命ってのは他の誰かに預けるなら、一度返さないと。おれはまだ、大佐からおれの命を返してもらっていない」
 だから、と笑ったギックの顔にスモーカーは目を細める。
「あなたの部下には、まだなれない」
 本気になるって怖いでしょう、と男は笑った。
「怖いのか」
「怖いですよ、とても。恋愛でさえおれは怖いと思う。性別を抜いた人間関係なら尚更です」
 頷ける。スモーカーは単純にそう思った。この男の腕を初めて掴んだ上官が何も言わずに消えてしまえば、確かにその理由を問うだろう。お前は本当に残酷だと、血塗れで部下を預けた女を思い出しながら、スモーカーは煙を吐いた。
 杭から腰を上げる。たしぎに買った果物はどこかで落としてきてしまったようで懐が軽い。
「…全てが清算できたら」
 言っても詮ないことかとスモーカーは口を閉ざした。代わりにギックの肩を一度叩いて隣を通り過ぎる。
 それ以上の言葉は出てこなかったし、何よりそれで十分だと思った。林檎買って帰りますか、と上官が部下への土産の品を落としたこともしっかりと見抜いて進めた言葉にスモーカーはああと短く二つ返事をした。そして、ついでにポルノ雑誌もと続けたギックの頭を盛大に殴るのも忘れなかった。