わん。
動物、それも人との歴史が最も長いとされている四足歩行する生き物の鳴き声をスモーカーは聞いた。聞き間違いかと、ぐるりと周囲を見渡して何もいないことを確認し首を傾げる。幻聴か、それとも耳が悪くなっただけなのか。そうこう悩んでいると、もう一度同じ声が耳に届く。それが届くと同時に、ぐいと足元を引っ張る感覚を覚え、スモーカーは慌てて視線を下へと移した。灯台下暗しとはこのことである。
映した視線の先には犬が一匹いた。白、真っ白、と言うわけではなく、毛先の方は日にでも焼けているのか僅かに茶色に焼けている。尻尾はふさふさだが、体の毛は短い。子犬でもなければ成犬でも老犬でもない。丁度、成長期の子犬のようにスモーカーには見えた。ただ、四本の脚は大きく、将来的にはかなりの大きさになるのではないかと想像される。
尻尾を人懐っこくぱたと振る犬はブーツ紐にじゃれて噛付いている。ぐいぐいと引っ張られる紐は牙に引っ掛かって今にも解けそうであった。止めろと一つ犬を叱り、紐を加えこんでいる口を軽く叩く。犬はスモーカーの機嫌を伺うような視線を一瞬上へとやったが、それに反して靴紐で遊ぶことを止めない。とうとう靴紐は解け二本の紐へと姿を変えてしまった。後でまた結び直せばいいだけの話ではあるのだが、スモーカーは軽く溜息を吐く。犬を蹴り飛ばすような趣味は持たない。
しゃがみこみ、遊んでとばかりに目を輝かせている犬と視線を合わせる。憎たらしい気持ちもその顔を見ていると何故だか湧いては来ず、もう一度深く溜息を吐いて首を垂れる。どうしようもなくなって、項を手袋をはめた手で引っ掻いて押さえ、あーと言葉にならない声を零した。そして、大量にあるズボンのポケットの一つに手を突っ込み、そう言えばと探る。ごそりごそりと動かせば、目当ての物はすぐに指先に触れ、それを壊さないようにして取り出す。クラッカー。
周囲を一度見渡し、誰もいないことを確認してから袋を開け、犬の鼻先にクラッカーをスモーカーは近寄せた。嗅覚は人とは比べ物にならないほどに鋭いとされる犬であったが、流石に知らぬ人間から差し出されたものをほいほいと食べるほどに馬鹿でもないのか、数秒間、皮手袋が掴んでいるクラッカーを匂い、刺激臭などがないと判断してから、犬はクラッカーを大きな口にはさんで食べた。あっという間の出来事である。一つ、旨いかの言葉をスモーカーがかける暇もなく食べ終え、もう一つと犬は体をスモーカーの膝に摺り寄せた。膝上に、ぴんと耳の立った顔を愛らしく乗せる。小賢しい犬である。それでもまだあったか、と食べもしないのでスモーカーはクラッカーをもう一つやる。わん。犬が鳴いてそれを食べる。
もうポケットに犬が食べられるそれはない。しかし、犬は何かを期待するかのようにスモーカーの足の周りをぐるぐると回る。
「…もうねぇぞ」
傍から見れば、自分のイメージが崩れるかもしれないと多少の不安を抱え、しかし周囲に細心の注意を払いながら、スモーカーは足元の犬へと話しかけた。
「名前はなんてぇんだ。どこの犬だ。主人はどうした」
勿論、ここで犬が人語を解し、質問に答えでもすれば腰を抜かすかもしれないとスモーカーはふと思い、小さな笑いを零すと犬の頭を大きな手でぐしゃりと撫でると、中腰で犬に語りかける。わん。また犬が鳴く。
「おれは生憎お前の主人になるつもりはないんでな。迷子ならもっと優しそうな奴にでも案内役を頼…」
め、と最後まで犬は言わせなかった。ひらりと飛び上がると、胸元の予備の葉巻を拝借される。ぎょ、とスモーカーは犬の口に葉巻に目を瞬かせ、手を伸ばしたが、犬は体を捻ってかわして、蹴り脚で強めに床を飛ぶと、捕まえてみろとばかりに駆けだした。
そもそも部屋を出たのは、予備の葉巻が残すところ後一本になったので、追加を買いに行こうとしたためである。その一本は、見事に犬の口に咥えられている。誰かが今火をつけたら、その人間を全力で怒鳴り飛ばすだろうとスモーカーは確信した。わん、と鳴くかわりにフン、と犬は鼻を上げる。スモーカーは我に返り、犬を追いかけた。
「おい、待て!」
走るスモーカーを尻目に、ある程度走ると犬は立ち止まり、ちらりと振り返る。尻尾ははたはたと揺れ、男が追いかけてくるのを楽しんでいるようであった。はたん、ぱたん。
最初は可愛らしさを覚えた笑みを浮かべたような口元も、このような態度を取られれば、馬鹿にされているようにしか思えなくなる。スモーカーは咥えていた葉巻を圧し折らんばかりの勢いで噛み締めた。このバカ犬。溢れそうになった罵倒を理性で押し留める。犬に本気になる必要などどこにもない。否、馬鹿馬鹿しくもある。速度を落とそうとして、しかし最後の一本を狙い澄ましたかのように、奪い取っていった犬の顔が気に食わない。
犬との追いかけっこは終わりを見せない。相当に足が速い犬である。それだけではなく、尻尾を揺らしながら、必死のこちらを嘲るようにして、小さな窓から、大きな窓、ぐるぐる回ったり、大柄なスモーカーが通るにはいささか問題のある場所をからかうように走り抜けていく。体力には自信があるスモーカーであったが、強烈なアップダウンと犬のしたり顔(を、しているかどうかは大いに主観が混じるところである)に苛立ちとペースを崩され、僅かに息を乱す。
次の角の先で犬はお座りをしていた。口に咥えていた葉巻はご丁寧に揃えた前足の前にちょこんと添えられている。いいか、スモーカーは極力足音を立てないよう、忍び足でその犬に近寄る。
「動くなよ。いい子だ…」
あと少しばかりで手の届く位置に入る。悪魔の実の能力での捕獲範囲にもしっかり入っていた。この距離なら、絶対逃がさない。
一歩、スモーカーは腿の力で脚を上げた。だが、それと同時に、犬はぴんと垂れていた耳を立たせ、鼻先を反対側の廊下へとやる。わん、犬は一声高く鳴いた。そして、後ろ足で勢いよく廊下を蹴り、葉巻などどうでもよいとばかりにスモーカーの視界から一瞬にして消えた。
一体何だったんだと不思議に思いつつ、スモーカーは放っておかれた葉巻を拾い上げ、犬が駆けて行った方向へと視線を上げる、と。同時に。
「いっ…!!!」
痛みを堪える男の声が響いた。
完全に視線を上げきった先には、白いコートが舞っている。さらにその向こうには、はっきりと凹凸の見えた女海兵。それは白く正義の二文字が刻まれた将校コートを羽織った男よりもいくらか低い。男は帽子を被っていた。動きに合わせてずれた帽子の下には髪の毛はなく、見事に剃り上げられていた。
海兵服の向こうの女は、スモーカーの存在に気付いたのか、口元を微かに引き攣らせ、目前の男に頭を下げると、足早に立ち去った。そして男は、犬に、尻を噛まれていた。
「大佐!」
振り返りもせず、こちらが誰か分かったのかとスモーカーは目を瞬かせる。低い唸り声を上げながら、犬は将校コートごと男の尻に噛付いて離れない。
「やめろ!」
大佐、の次の制止命令にスモーカーは首を傾げつつ、しかしその背が一体全体誰なのかは重々承知で、しかし多少の憐みを覚えて、大丈夫かと声をかけた。
「おい、放してやれ。犬」
そうスモーカーはぐるぐると鼻に幾重にも皺を寄せて唸りつつ、男の尻に噛付いている犬の頭を叩く。大佐、尻を噛まれている男は強めにその名称を呼んだ。まるで叱るような響きを持ったそれに、スモーカーは唖然とするしかない。
ようやっと犬は閉じられていた顎を開け、男の尻を解放した。ううと低い声で唸るのは相変わらずである。
「何やってんだ、てめぇは」
襟をただし、男はスモーカーの問いかけにさも当然のようにきりりと顔を引き締めて答える。それは、顔を引き締めて答えるような内容では断じてない。
「無論、女性職員との交友を深めておりました。スモーカー大佐殿。我々に重要視されるのはチームプレーであり、チームワークです。集団行動を行う際には可能であれば互いの意思疎通が円滑に行われるのがベストです。ですから、おれは日頃から交流もとい交友を深めようとしているわけです、大佐殿」
お前のそれは交友ではなく単なる交遊、あるいはナンパだとスモーカーは言いかけたが、言ったところで詮無いのは明らかなので、言葉を飲み込む代わりに溜息を吐く。彼の上官はよく毎日これに付き合っていると一種の尊敬の念さえ浮かんだが、彼女自身相当の変わり者であるので、苦ではないのかもしれないと思い直す。
「ところで、どうして大佐殿が大佐を?」
「…ああ?」
訳の分からないことを言われ、スモーカーは思わず聞き返す。ああ、と男は自分の失態に思い立った様子で、軽く手を叩いて笑みを浮かべる。
「大佐、です。大佐殿。その犬の名前は『大佐』と言います。何分おれたちの部隊で飼育している犬でして」
「…飼い犬に手を噛まれる、尻を噛まれたのか、てめぇは」
「よく。最近目敏いんですよ。大佐に告げ口…犬に口はありませんから、告げ口というよりも、おれが大事にしている諸々の男の聖書を引っ張り出して大佐に見せたりですね、隠し場所をここほれワンワン方式で発見したり。色々厄介ですよ。全く困りものです。秘密の花園ならぬおれの花園を悉くダメにしてくれています」
「全部お前が悪ぃんだろうが、それは」
「そうですか?ちょっとした息抜きですよ。むさ苦しい男ばかりですし詰めにされてごらんなさいよ、スモーカー大佐。女性だけなら大歓迎ですが、男だけというのは全面的に御免被りたいところです。何が減るっておれの心が磨り減ります」
人の忠告を悪びれもなく、しれりと言ってのけた男にスモーカーは煙を吹かし、肩を落とした。足元で唸り声を上げ続けている犬の正当性を認めてもよいと真剣に思う。おそらく十人に聞けば十人がその通りだと首を縦に振るに違いない。スモーカーは一分の間違いもなくそう確信できた。
唸り続ける犬を横目に中佐階級の男は軽く肩を竦めて見せた。
「どこで育て方を間違ったのか…おれがいい所まで押しているときに限ってどこからか嗅ぎつけてこの有様ですよ。おかげで最近は女性と話す機会が減って困ります」
育て方は何処も間違っていないだろう。
疑いなど一切持たずにスモーカーは心の中でしっかりと頷いた。むしろこの場でぐるぐると唸り続けている犬の方が賢い上に、役に立つ。少し固めの毛を手袋越しに一撫でする。
「大佐、お前ご主人を噛むんじゃない」
わんわんわん!!
ご主人、と言う単語に反抗するかの如く、犬は先程とは比較にならぬほどけたたましく吠えた。お前が主人など認めてたまるかと言わんばかりの態度である。わん、もう一度吠える。片や中佐と言えば、全く懲りていない様子で、小さな溜息を吐いて、小さい頃は可愛かったのにと首を傾げる。
「大佐ってどこに行っても可愛くないんですかねェ。おっと、スモーカー大佐殿を可愛いなんて欠片も思っておりませんので、ご心配なく。からかい甲斐があるとは思っておりますが」
「思われたかねぇ。お前の口をどうやったら黙らせられるか模索中だ」
「おやおや大佐殿ぉ、黙らせる、だなんて嫌ですネェ。照れるじゃありませんか。でもおれ、男同士でキスする趣味ないんです。ご期待に添えられず申し訳ありません」
言葉もない。スモーカーの額には堪えようのない青筋がくっきりと浮かんでいた。体は怒りでわなわなと微震している。葉巻は顎に込められた力で今にも食い千切られそうであった。辛うじて怒鳴らずにいられるのは、僅か程に残った理性のためかそうなのか、スモーカーには判断はつかなかった。
ああ、そう男は楽しげに、まるでとどめを刺すかのように笑う。
「大佐殿が女性でしたら、勿論喜んで!枕を交わすこともやぶさかではありませんよ?」
てめぇこの野郎。
いい加減にしろよ、と怒鳴ろうとした口は、足元で唸っていた犬が突然ワンと楽しげに鳴いたことに途切れた。それと同時に、いたたと目の前の男の顔が歪む。中佐よりも頭一つ二つは大きい女がその男の耳を引っ張っていた。まるで、母に怒られる子のような構図である。
スモーカーの足元に居た犬は力強い味方を手に入れたとばかりに、その女の足元をくるくる回り、二三周すると、中佐の足首に噛付いた。痛い!と今度はかなりの痛さを込めた悲鳴が男の口から飛び出た。
「中佐」
怒っているのか一声で分かるような口調が、女の噛み合わせの良い歯の間から発される。同階級である女と厄介者だと名高い中佐のやりとりをスモーカーは両目で目をそらすことなく見ていた。溜飲が下がる思いがする。
「い、ったた、痛いです、痛いです大佐。痛いですってば、耳を放して下さいませんか。大佐馬鹿力なんですから。おれの繊細な耳なんてすぐに千切れちゃいますよ」
「ほう?引き千切られる覚えはあるわけだな、中佐」
「…やぁ、そりゃもう」
へら、と笑った部下の耳元に口を寄せ、鼓膜が引き裂かれんばかりの大音声で女は、馬鹿もん、と怒鳴った。さしもの中佐もこれには参ったのか、目をちかちかとさせている。犬は男の足から牙を放し、体に前足をかけると、追い打ちをかけるようにわんわんとひたすらに吠える。
「女の尻を追いかけている暇があったら、体の一つでも鍛えてこい!」
「つ…っと、大佐の許可が頂けるとは。ではおれはちょっとそこらのホテルにでも」
「…本当に引き千切られんと分らんようだな…大佐!」
「な、」
んだとスモーカーは反応しかけ、すぐさま女は犬を呼んだだけの事実に気付き、口を噤む。
「あの、大佐?待て、大佐!」
「…無駄口叩けんように、下の方を引き千切ってもらうか?そいつに」
「ちょ、っと軽い冗談です!冗談です、大佐。仕事に戻ります。机とデートしますって!」
すみませんでした!と顔を真っ青にして謝る男の姿をスモーカーはまるで夢でも見ているかのような心地で眺めた。そうでなければ、この男のそんな顔を見ることはこれから先一生あるまい。
本当ですと確約した部下に女はようやく耳を放してやる。仕事に戻れと人差し指を詰所へとやった上官に部下はすごすごと口先を尖らせながら帰って行った。まるで、犬に対するハウスである。
「迷惑をかけたな、スモーカー。まあ…適当に聞き流してくれ」
「…ああ」
ちんたらせずに、しゃきしゃき歩け!と背中に怒号を飛ばされた中佐は駆け足で部署へと戻っていった。女も頭に手をやり深い溜息を一つ吐くとその後を追うように、しかしゆっくりと歩いて消えた。
スモーカーはそして足元できちんと座っている犬へと視線をやる。わん。犬は一声吠え、そして同じように女大佐の、正しくは主人の背を追うようにててと足取り軽く駆けて行った。
嵐のように過ぎ去った出来事に、スモーカーは葉巻を変えようと犬から取り返した葉巻に火をつけようとマッチを擦り、
「…くそ」
唾液で湿って火など点くはずもない葉巻をゴミ箱に放った。