友と呼ぶ。
ただそれだけのことである。クロコダイルは燭台に灯された蝋燭をふぅと唇をすぼめて吹き消した。冷たく熱を持たない鉤爪がひゃりとしたまま頑丈かつ精巧に作られた机を叩き、中身の詰まっている重たい音を奏でる。
筋肉が張り詰められている腿の上には柔らかく短い薄茶の髪の毛が、黒いスラックスの上で対照的に散らばっていた。穏やかな寝息が平たい胸の上下と共に耳に届く。上から眺める限りでは、まるで子供のような寝顔であるが、起きれば全く手におえないような人間であるのを、クロコダイルという男は誰よりもよくよく知っていた。そして、それをある意味自負もしていた。
もともと、規律正しい組織に所属できるような性質でもない。海軍という組織では、全く目下の女の本質を悉く殺してしまっているように思えた。それをどうこう問うたところでどうにもならないことも承知ではあった。正義がよく似合うだとか、目指すべき海兵としての在り方だとか。ふざけているにもほどがある。時折そう口にする、彼女の子飼い(ではなく、正式な部下ではある)を思い出して軽く目を細めた。非常に楽しそうに自分の知己を語る姿を見ていると、彼が語るその姿と、自分が知る女の姿のあまりにも大きな齟齬に眩暈がしそうになる。尤も、その男と話す機会など片手で十分に足る。あの不愉快なピンク色の羽の塊同様、放っておけば勝手にぺらぺら話しているので、耳に鬱陶しい評価はいくらでも頭に押し込まれた。それを覚えていようなど、露ほども思ったことはなかったが。
クロコダイルは丸みを帯びた頭部を指輪を嵌めた手でするりと撫でる。柔らかな短髪は指の間にもぐりこみ、くすくすと指の腹を擦る。厚めの皮でその感触は多少鈍ったものの、撫でているのは自身の思考下で行われているものであるから、撫でているという実感はあった。子供をあやすように、それが死んでいないかを確かめるように男は手を滑らせる。髪に、潮が馴染んでいるかのように、女の髪の質は宜しくない。くしゃん。くしゃん。くしゃん。短い髪に突っ込んだ指で頭皮に触れ、軽く圧迫する。片手で渾身の力を籠めれば、メロンのように潰れてしまうであろう頭部である。
しかしそれはせずに、非道な英雄は頭を撫でた。騒ぎ立てる声を背中に受けるのは慣れたものであり、近い日に己が国を正攻法で乗っ取る予定の男を担ぎ上げ喜び讃えているのは、見ている分にも気持ちが良い。まさに、愚民。誰かがどうにかしてくれる、誰かが、自分ではない他の何かが。いつかやがて、とそんな楽観視ばかりしているから、こういう体制の抜け穴に自分のような男を含ませることとなるのだ。
張本人はそんなアラバスタ王国の脆弱性を嘲笑しながら、諸手を挙げ、非常に模範的な王を瞼の裏に思い描く。あれば、全くよくできた王であろう。民に好かれ、兵に好かれ、時に英断をする。民があってこその国であると口にする。それが理想論なのかそうでないのかは、王の手腕一つなのだが、現在のところ、王の言葉は理想論などではなく、現実となっている。微笑ましい限りだ。
おかげで、大層ことが上手く運ぶ。
人の思い程利用しやすいものはない。ダンスパウダーを王宮へと運ぶ手筈をそろそろ整えなければならない。王手まではあと僅か。八年の長きに渡る計画にも終止符が打てる。否、始まりはそこからである。よって、終止符ではなく、己の始点となるであろうそれを思い描き、クロコダイルは薄く笑んだ。
雨を呼ぶ粉を目撃した国民たちが一体どのような表情で絶望と失望を王へと向けるのか。それを想像することはあまりにも容易く、人という人間の愚かさと醜さを直視し軽蔑を催す。人間一番大事なのは己自身。保身が一番に働く。追い詰められた人間の行動を想像すれば、あの王への憐憫というものも湧くものだ。
この事実を、とクロコダイルは思う。この事実を、穏やかな寝息を立てているこの女が知ればどう思うか、と。どうするか、というのに対する答えはすでに出ている。海兵であるこの女がすることはただ一つしかない。クロコダイルは小さく喉を鳴らした。どう思うかなど、誠にどうでもいいことではないかと。非道であるのは既に自分自身でよく理解しているのだから、別に誰に言われたところで胸が痛むこともない。それとも、この女の言であるからそう思うのかと、自嘲を口元に含めてクロコダイルは頬杖をついた。
子供のような寝顔が膝にある。服の下に刻まれた傷は数えきれない。海兵である以上、それらは全て当然のことだろう。
潮の香が強い知己の髪を撫でながら、指先に短い髪の毛を絡める。軽く引っ張ったが、毛根がしっかりしているのか、ぶつんとそれが突然に抜けることはなかった。しかし、毛髪を引っ張られる感覚にもとより浅い眠りから覚め、女はひどく間抜けな声を出して起きた。ごりとスラックスに一度顔を擦り付け、まだ寝ていたいとばかりに体を縮こまらせたが、頭のしっかりしている部分ではそれを否定しているのか、のろのろと巨躯を起こした。
「どれくらい」
「二時間少しだ」
「そうか…」
まだ眠たいのか、女はごしごしと目を手の甲でこすっている。一つ大きなあくびで犬歯が覗き見えた。ぶるりと背筋を震わせて、伸びをする。まるでその様子は動物のようだった。人も、動物ではあるが。
駄目だな。女はそう言った。
「クロコダイル」
「んぁ」
クロコダイルは先程まで口にしていなかった葉巻を机の上から取り上げると、手慣れた様子で吸い口を切り落とし、長めのマッチを擦り、先端に火をつけた。じじと火が燃え移り、それを見届けると灰皿にマッチを投げ捨てて葉巻を深く吸う。良い味の煙が口の中へと導かれ、長く細く吐出す。
葉巻は旨いのかと眼前の女が小さい頃に尋ねられ、美味いと答えれば、目を輝かせて葉巻それ自体を食べようとしたのを慌てて止めたのをふと思い出し、首筋を掻いている女を横目で見、成程成長したものだとクロコダイルは葉巻を再度唇に添えた。もうあのような愚行は犯すまい。
名前を呼んだままその続きを口にしない女にクロコダイルは葉巻を差し出した。いつものように女はそれを断る。酒は浴びるほど飲むというのに、葉巻はよほど気分が向いたときにしか受け取らない。何故だと依然聞いたことがあったが、その答えをクロコダイルは忘れた。覚えておく必要もないことだったことは確かである。一拍二拍の後、薄い唇が声を発する形へと変わる。座っていた姿勢から両足へと体重を移し、床に投げ捨ててあったコートを手に取る。それは海軍のコートではなく、彼女の私服であった。羽織り、袖を通していく。
「お前は」
二人しかいない部屋、二人しか存在しない部屋で女は声を落とした。静かにそれは床に沈んでぽちんと溶ける。
「いつか、私に」
ああ。溜息の代わりに紫煙が吐出される。
「捕まるのかな」
その自由を奪うのかと、女は薄く、薄く、眉間に皺を寄せ、こちらをちらとも見ずにそう問うた。問うても詮無いことである。そしてクロコダイルは問われたことにゆるりと吐出した白雲の行く先を追いかけながら、顎を落とした。
「おれぁ、そんなへまぁしねえよ」
「どうだろう。だが思うよ、クロコダイル。お前を捕まえるのは私であってほしいと。海兵として私がお前を捕まえよう。お前の手に海楼石の手枷を嵌めよう。海の奥深くに沈めよう。そして何より、全力でお前と戦おう」
海兵として。
「クロコダイル。私は、お前と友であれて本当に良かった」
まるでここで全てが終わりのような言い方にクロコダイルは片眉をつつりと持ち上げる。しかし、女は振り返らないので、男の表情に気付くことはない。鍛え上げられた筋肉で覆われている逞しい背が、上下にゆるりと動く。
「なんだろう、どうしてだろう」
「何がだ」
「私はお前を友だと言うし、お前は私を友だと思ってくれている。これ以上ないほどにこの関係は望ましい」
「それで」
問われた言葉に女は天井を見上げて返答する。しかしそれは脈絡のない言葉であった。
「…私は物事を考えるのは苦手だ。私が頭をいくら捻っても、お前が策謀している事実に気付くことは、全てが露見しない限り無理だろう。もとより、お前なのだから、余程の人間でないと、お前が本当にやりたいことを知るのは困難を極めると思う。だが、この国に足を運びお前に会う度に思う」
ワインの瞳が、くるりとようやく振り返った。金色の視線がひたとそれに絡めとられる。女の喉がこくんと上下に動いた。
「海賊は、英雄たりえない。詮索はしない。今の私にはお前を取り締まれるだけの権限はない。誰からも苦情一つ上がっていない。いや、それすらもお前の策謀のうちなのかもしれない。だがな、クロコダイル。一つだけ約束してくれ」
是非を言わず、クロコダイルは女の言葉を待つ。一方、女はクロコダイルからの返事を待ったが、それがなされることがないことを知り、言葉だけを落とした。
「非道であっても何でもあっても構わない。だが、海賊であることだけは」
止めてくれるな。
悲痛な声のようにクロコダイルには聞こえた。女の言葉に男は咥えていた葉巻を灰皿の上に置く。煙は細く立ち上っていた。何かを言おうとしたが、この状況においては、何を言ったところでひどく薄っぺらい言葉にしか聞こえないような気がして、クロコダイルは口を噤む。ただただ、灰へと姿を変えていく葉巻を無言で見つめながら、その重たい沈黙を過ごした。
気付けば、いつの間にか部屋に息をする人間は一人になっていた。閉ざされている扉は大きく、もう既に音も立てていない。しかしながら、この部屋の出入り口はただそこのみであるので、その扉から女が出て行ったことは確かである。あれから何かを言っていたような気もしたが、クロコダイルはそれを覚えていなかった。なんであったか、しかし、思い出せないところを見ると大層どうでもいいようなことのように感じた。実際、どうでもよいことだったのだろう。ならば思い出す必要性は見い出せない。クロコダイルは灰皿に置いていた、半分ほどに灰へと形を変えた葉巻を指にして唇に食み、煙を吐く。苦い味がした。大人になったのだろうか。やはりそれはどう考えても美味である。
年を取った。クロコダイルはそう思った。そして自分が年を取ったということは、彼女もまた年を取ったということであろう。しかし、男はそう思ってそれを否定した。肉体的年齢を重ねたとしても、あの女が秘める激烈なまでの憎しみは一切劣化することなく、今に至るまで同じように存在するのであろうことを感じた。否、純化され過ぎた憎悪の中で牙を研いでいるに違いない。そういう女だ、あれは。
やはり煙草は苦かった。
クロコダイルは葉巻を灰皿に戻した。閉じてしまった扉へと目を向けかけ、灰皿にすぐに戻す。
「友人、か」
その言葉の響きに目を細める。音もなく登り立つ煙は天井へと細く長く消えていく。
彼女は己を友と呼ぶ。知己と呼び、それに準じた振る舞いをする。それが彼女にとって不利益になろうとも、それを厭うことはしない。ただ友であり続ける。全く、愚かであると思う。彼女の目的を考えてみれば、それこそ非常に非合理的な行動であり、論理的ではない。それでもと、クロコダイルは思う。それでも、彼女が自分の友であり続ける理由は、それだけはもう捨てられないからだろうとあたりをつける。
あの女が自分を友だと呼び続ける理由をクロコダイルは知らない。そして、一生知らなくて構わないとも思っている。
灰が皿の上に乗っている。指先で抓めば、それは指先にまだ熱さを残した。その熱さは、まるであの女のような暗さであると、クロコダイルはそう感じた。新しい葉巻を取り出す気には、どうしてもなれなかった。
男が去った部屋の灰皿には一本、吸いかけの葉巻が煙を細く上げながら残された。