羊の群れ

 群れというものは、往々にして弱者が強者から身を守る術として辿り着く一つの結論である。
 無論有象無象であっても、数の暴力というものは凄まじく、一騎当千の兵であったとしても、圧倒的数には撤退を余儀なくされることもある。
 その有象無象を片端から蹴散らし血の海にするのが得意な相方は、今は傘の中で静かにしている。
 頭を使わないというわけではない。
 群れというものは、方向性が一つだからこそ猛威を振るうことができるのであって、いくら数が多くとも四方八方散り散りになってしまえば、それはただの羽虫と変わりない。
 そしてそうした有象無象は、鼓舞であろうと恐怖であろうとそのどちらでも伝播の速度は恐ろしく速い。前者であれば多大なる暴力になろうが、後者であれば、一瞬にて瓦解する。
 傘で眠る男の、悪鬼羅刹の如き戦場での振る舞いは、その恐怖を伝播させることに長けている。
 首や腕を斬り飛ばすなど優しい方である。切った頭部を鞠のように馬上から投げ飛ばし、兵士の面を物理的に潰す。あの男にとっては、手にするもの、目にするもの全てが人を殺すための武器となる。
 怯え逃げ出した兵士は味方を踏み潰しながら、惑い走る。
 どこへ行くと至極楽しげに弾む声に追われ、捕まり運が良ければ胴とは泣き別れ、運が無ければ生きたまま、そのままの意味で使われる。痛みで気絶できればもうけもの、である。
 まだ生きているぞ、と楽しげに笑う男の背中に声をかけた回数は両手でも足りない。
 杯を交わした義兄弟といえど、自覚の薄い残忍性は目を疑うものがあった。
「何を以て、真摯で優しいなどと」
 目が曇っているとしか思えない戯言である。
「まだあなたそれを言うの」
 吐き捨てた疑問に、うんざりしながらなされた返答へ、謝将軍は白金の瞳をゆるりと動かした。
 視線の先には、常の服装とは異なり、黒を基調とした膝下まである服に白のエプロン、頭には白の三角巾、右手にはハタキ、左手には雑巾を持ったエミリーが立っていた。
 突然自室に訪れては、掃除をすると言い始め、両手で窓を開け放たれたことで、折角火鉢で温めていた部屋が台無しになり、謝将軍の機嫌は決して良いものではなかった。不貞腐れ、エミリーに投げつけられた膝掛けで火鉢を前に一時的な暖をとっている。
 寝具は取り払われ、洗剤と共に水に沈められた。
「あなたじゃなくて、范将軍なら掃除を手伝ってくれたと思うのだけれど」
「手伝うわけがなかろう。そこの本棚を火鉢に焚べる薪にするなら容易だろうがな」
「これは火鉢に焚べるようなものじゃないわ」
「喩えも分からんのか」
 ああ言えばこう言うを繰り返しながらも、エミリーはせっせと手を動かす。
 棚に並べられた本や茶器などを動かし、埃を叩いてから水拭きをする。掃除の基本は上からだと言いながら、棚が終われば、窓を拭き始める。低い位置は手が届くものの、高い位置は床からでは手が届かず、エミリーは椅子と机を動かし、椅子を足場に机に乗って、先程まで手が届かなかった場所へと手を伸ばした。
 その背に、短く、しかし明らかに不愉快さを滲ませた警告が届く。
「机に乗るな」
「脚立を忘れたのよ。土足ではないし、後で拭くから。そう言うなら、あなたが拭いてくれればいいんだわ。背も高いし、脚立がなくても手が届くじゃない」
 部屋にもう一人誰かがいれば、同意を得られるであろうエミリーの反論を謝将軍は一刀両断する。
「断る。そのようなことは、あの恥晒しにでもやらせておけ」
「なら代わってちょうだい。謝必安も范無咎でも、手伝ってくれるでしょうから」
「私の時間だ。指図される言われもない」
「火鉢を前にだらだらしているだけのくせに」
「勝手に掃除を始めたのはお前だ」
 呆れ果てたような呟きをボソリと落とし、エミリーは背中を向けて窓ガラスを拭く作業に戻る。
 バケツに張っていた水は、一見しては分からなかった窓の汚れに黒く濁っていく。水で拭い、乾拭きをする。汚れた水を入れ替える。黙々とこなされる作業に、互いに言葉を交わすことはなく、時間ばかりが過ぎていった。
 最後の一枚を拭き終わる。
 汚れてはいないように見えてはいたものの、掃除されたガラスは日の光をよく通した。
 満足げにエミリーは軽く顎を持ち上げ、文句を言われていた机から降りると、ハタキで机の上に落ちた汚れと埃を床へと落とす。
 忙しなく働く姿に謝将軍は言葉をかけることはしなかった。
 バケツの水と雑巾が新しいものに変えられ、小さく柔らかな足で踏まれた机を丁寧に拭う。
 箒で床が掃かれ、どこからともなく持ってこられたモップで床板が滑っていく。
「将軍」
「なんだ」
「火鉢を動かして。あと、あなたも移動して。掃除はそれで終わりだから」
 黙って従うのは癪である。
 しかし断る理由もなく、謝将軍は口を一度閉ざす。
「将軍」
 繰り返された呼びかけに、手にしていた本が閉じられるも不平と不満をありありとその目に浮かべて、エミリーへと返答がなされた。
「私がいない時にしろ」
「あなたが移動すれば済む話じゃない。変な意地はらないで。意地が悪いわよ」
「は、お前に意地の悪さを指摘される日が来るとはな。盗み食いをやめてから言うものだ」
「唯一の長所を顔だけにしたいの」
 喑に意地汚いと罵りながら鼻を鳴らされ、ああもう、とエミリーは大きく息をつく。
 これ以上の会話を無駄だと悟り、火鉢へと手を伸ばす。火鉢本体は高い熱を持っていないことから、持つことはできる。
 そう、エミリーは思っていた。
 丸い陶器の縁を手のひらを添え、指に力を入れて持ち上げる。
 腕だけではなく、下半身で支えるようにして火鉢を持ち上げようと勢いをつけた瞬間、エミリーは自分の判断が間違っていたことに気付く。
 手から伝わる重さは想像の比ではなく、しかし勢いをつけたがために今更動作を止めることはできなかった。当然指にかけた力は滑り、持ち上げることの叶わなかった火鉢は片側にのみ重さがかかり、斜めに傾く。
 火鉢の中央には、火こそ出ていないものの、炭が赤々と熱を発していた。火鉢が傾いたことで、ころとその熱源は傾いた方向、つまり火鉢を持ち上げようとした人間の方へと転がる。
 火傷は覚悟しなければならない。
 炭に触れてしまった箇所を流水で冷まし、いや、一瞬だけならば衣服で弾き飛ばせば、掃除はし直しが必要でと、一瞬の出来事の間にエミリーは思考を高速回転させる。
 その思考を大きな手のひらが遮断する。
「でしゃばるからそうなるのだ」
 カツン、と金属がぶつかる音をエミリーの耳が拾う。
 尻餅をつくかと思われたが、胸ぐらを掴む手によって、尻を硬い床板に打ち付ける痛みはなく、緊張と興奮から、まるで頭の中に心臓があるのかと錯覚するばかりの音が響く。
 金属製の手甲に弾かれた炭は火鉢の中央へと戻り、傾いた火鉢は底の縁をぐるりと回してから重たい音を立てて床に鎮座した。
「反省しろ」
 心音の合間に、冷静で涼やかな声音が通る。
 謝将軍が掴んでいた胸ぐらを放したことで、エミリーは尻を床板に落ち着ける。状況は理解しているものの、いまだ平静には程遠く、瞬きを幾度も繰り返すエミリーから謝将軍は視線を外し、座っていた椅子へと戻り腰掛ける。
 換気のため開けていた窓が風で揺れて音を立てる。
「あ、あり、ありがとう」
 返答はない。
 しかしまともな返答をもらった覚えは数えるほどしかなかったことから、エミリーは考え直し、床についたスカートを叩きながら立ち上がった。
 その、と短い言葉が続く。
「掃除の続きは、後日にするわ」
「そうしろ」
 端的な、結果のみの返事をした謝将軍へと、今度は噛み付くことなくエミリーは開けていた窓を閉じて、掃除道具を抱えて部屋を後にした。
 室内に静寂が戻る。
 戻った、のは一瞬だった。
 閉ざされた部屋に笑い声が弾け、充満する。謝将軍の眉間には深い皺が刻まれ、その大笑に苛立ちを隠すこともなく舌打ちをこぼす。
「優しいなあ、将軍。うんうん、いいことだ」
「五月蝿い。笑うくらいならばとっとと出てきて、掃除をすればよかったではないか」
 傘を片手に笑う男に、謝将軍は反論は無駄であると知った上で、言い返す。それに范将軍は肩をすくめ、目を細めて口角を持ち上げてさらに笑った。
「君も言ってくれたではないか。俺は片付けは苦手でな。ああ、人の片付けは得意だ」
 君もそうだろうと平然と笑う范将軍に、謝将軍は視点を合わせ、じいと見つめる。その視線に范将軍はにんまりと笑みを深めると、白い歯を見せた。犬歯が覗く。
 優しいものか。真摯などと全く馬鹿げている。
 相方の考えなどお見通しとばかりに、男は笑い、そして肩を叩く。
「あとは、真摯さだな」
「火鉢で何か炙るものが必要だと思っていたが、どうやら私の前によく回る舌があるようだ。丁度良い」
「美智子が火鉢で焼くならば餅が良いと言っていたぞ。もらってきてやろう、兄弟。機嫌を直せ」
「焼いた餅を喉に詰めてやろうか」
 呵呵と笑う男の残虐さも苛烈さも、水面下を漂うばかりで少しも表に出ない。
 羊の群れは、追い立てられる時になって初めて、その恐ろしさを知るのだ。

 

 反省した、とエミリーは范無咎を前に項垂れた。
「あなたたちがいる時にすべきだった。謝将軍もなんだかんだ言いながら、助けてくれて、本当に悪いことをしたわ」
 眉尻を下げ、心から申し訳なさそうにしているエミリーの姿を眺めながら、范無咎は単純に、ただ単純に思ったことを口にした。
「医生。謝将軍が助けてくれたのは分かったんだが、そもそも彼が火鉢を動かせばよかっただけじゃないのか」
「え」
「部屋の掃除をしてくれているんだ。部屋の主がそれを手伝うのは至極真っ当なことだと俺は思う」
 俺ならば手伝うと范無咎は続けた。
 そして、エミリーは少し考え、口元に手を添え視線を上げる。
「そう、よねえ」
 そうよねと繰り返し、やっぱり優しくはないわねと呟いた。