尻に火

 人目を憚る。その言葉を覚えて欲しいと切に願う。
 エミリーは、明日のゲームに向けての作戦会議に参加していた。メンバーはマーサ、ノートン、イライの三人である。テーブルに置かれた地図には、幾度となく走り回り、いい加減に頭に入ってしまった暗号機の位置と、ハッチの出現場所、それから椅子の箇所が丁寧に書き込まれている。
 テーブルには地図だけでは味気ないとばかりに、紅茶とそれから茶菓子が添えられ、ノートンは黙々と手製のドーナツを口に含み咀嚼する。がっしりした顎が上下に動き、迫り出した喉仏が嚥下と共に甘い澱粉質を食道へと落とした。水分を奪い取られた口を潤すべく、紅茶を口に含む。それとは反対に、マーサは紅茶のカップもドーナツも手にすることなく、地図と睨めっこを繰り返す。生来真面目な性格が如実に現れていた。
 中間のように、イライは紅茶とドーナツを美味しそうに片付けていく。あまり、地図は見ていない。
「マーサ」
「ん、なんだ」
「地図に穴があくわ。息抜きも必要よ」
 そう、エミリーが差し出した皿とカップにマーサは恥ずかしげに俯き、礼を述べて紅茶を口にする。そして、その目を大きく見開き、慌ててエミリーの方を見やる。
「エミリー。あの、これは」
「蜂蜜ミルクティー」
「わ、私は。ストレートでも」
「あらそうだった?でも甘いものも好きでしょう」
「ん、んん。その、ありがとう」
 エミリーはマーサが以前ブラックコーヒーを飲んだ後、大変渋そうな顔をしていたことを思い出しながら、自身も紅茶のカップに口をつけ、ほっと一息つく。
 地図の上に、厚めの手袋が嵌められた指が乗せられ、教会中央部を指した。
「最初の位置にもよるけど、とりあえず、救助は僕が行く。粘着するから、他の人は解読に集中して。負傷しても助けに来なくていい。いいかな、ダイアー先生」
「え、ええ」
 負傷すれば救助に真先に向かうエミリーへとノートンは二つ目のドーナツを頬張りながら視線を向けて釘を刺す。しかし、そのノートンの言葉にマーサは席を立つ。表情からは明らかなまでの憤りが感じられた。少し、声が張り上げられる。
「待て。救助ならまず私が行くべきだ」
「一番理想なのは、君が初手になることだけれど。耐久時間も長い」
「反対にダイアー先生が初手を引くのは避けたいところかな。治療が早い人がいてくれると助かる。ああ、それともしよかったら、梟を飛ばして欲しいときは一言飛ばしてもらえば、すぐに飛ばすよ」
 肩に止まった梟を撫でさすりながらそう続けたイライにマーサは怪訝そうに眉根を寄せて、首を傾げる。
「見ればいいのでは?」
「解読を中断するよりかは、最近そっちの方が建設的だって思って」
「なるほど」
 もっともな言葉に、マーサは首を縦に振って納得する。
 部屋にかけられていた時計が重たい音を鳴らし、夜九時が訪れたことを知らされた。まだ温もりの残る紅茶を一飲みして、エミリーは広げられていた地図を丸めて片付ける。この辺りで切り上げておかねば、のめり込みがちなマーサは日を跨いでも作戦会議を続けそうである。
 案の定、地図をしまい始めたエミリーの手をマーサは片手で押さえた。
「もう寝ないと」
「いやだが、万全を期して臨まねば」
「僕はもう相棒が眠そうだからお暇しようかな」
「お、おい。イライ!」
 欠伸を一つして立ち上がったイライの背中に手を伸ばすも、その反対側に座っていたノートンまで立ち上がり、マーサはどちらを引き留めればよいのか分からず左右へ交互に頭を振って口をへの字に曲げる。
 そんなマーサの様子を気に留める様子もなく、ノートンはまだドーナツが二つほど乗っている皿を取り上げ、エミリーへと顔を向ける。
「先生、これもらって帰っていいかな」
「ええどうぞ」
 すぐに返事をしたエミリーにノートンは一寸その動きを止め、表情は変わらないものの、じっとエミリーを見つめる。穴が開きそうなほどの視線に、エミリーの口元に思わず力が入る。
「怒らない?」
 続けられたノートンの言葉に、エミリーは首を傾げた。そんなに食い意地が張っているように見えたろうかと、頬に手を添え、返すべき言葉を探す。
 その逡巡に気づいたのか、ノートンは足らなかった言葉を継ぎ足して、再度エミリーへと向ける。
「仮に、これを僕が持って帰っても、怒らないかな。彼は」
「彼?」
「そう」
「こんばんは」
 扉を開けて普通に入ってこればいいというのに、何故かそれを一向にしようとしないハンターが白い波の中から現れ、傘を取る。綺麗に編まれた三つ編みが視界の端で揺れ、動きに合わせてその三つ編みは下へと落ちた。
 そして、その大きく長い体躯は、自然な動作で背後からエミリーを引き寄せ、腕に囲う。
「彼」
 三度目になる言葉をノートンは繰り返す。エミリーから視線を、突如現れたハンターへと変えて向けた。しかし、その表情に驚きはなく、エミリーの部屋に未だ留まっているイライにせよ、マーサにせよ悲鳴をあげたり信号銃が放たれることはなかった。
 彼がこの部屋に訪れることに誰も違和感を抱いていない。かくや、部屋の主だけは、深い溜息をついていた。その頬はほんのりと恥じらいのためか上気し、腹に回された手を押しのけるように、その小さな掌で払おうとする。無論、その程度の力で腕が剥がれることはなく、反対に引き寄せられる。
「謝必安。扉から入ってちょうだい。何度も言っているわよね」
「私とあなたの仲ではありませんか。構わないでしょう」
「構うわ」
 言葉のキャッチボールを断ち切るように、ノートンは声を挟む。
「先生」
「怒らないわよ。持って帰」
「いいえ。それは私たちがいただきましょう」
 エミリーの了承の返事を上から被せるように謝必安は言葉を重ね、ノートンが手にしていた皿に長い爪先を伸ばす。しかし、それが白磁の皿に届く前に、ノートンは意図的にその皿を自身の方へと引き下げた。
 その行動に謝必安の瞳はすうと細められ、口元に刷かれていた人を食ったような笑みが取り払われる。室内の空気に不穏なものが混じる。
 しかし、ノートンは一切臆することなく、エミリーをその腕に抱きしめるハンターへと視線を合わせた。
「例えば」
 ドーナツの乗った皿の端がほんの少し持ち上げられる。
「これを、先生の許可を無視して、あなたに渡したら、明日のゲームでの見逃しはあるかな」
 爛れた皮膚の奥から覗くその瞳は冗談などという色はなく、至って真剣そのもので、謝必安は一度は取り払った笑みを再度その口に乗せ、端的な回答を口にする。
「いいえ」
 そう告げると、ノートンが持つ皿の上に残されたドーナツを一つ摘んで口に添えて見せる。
 これは、と言葉は続く。
「あなた方が、こんな時間に私のエミリーの部屋にいたのを見逃してあげるお代です。全部食べきらなくて、よかったですね」
「僕らの命はドーナツ二つ分か」
「上等でしょう」
 尖った舌先が甘いドーナツの縁をなぞり、らしくもなく大口を開け、半分ほどが口の中へと消える。
 背中と腹が密着するほどに抱き寄せられ、エミリーは必死にばたつくが、力の差は歴然で、片手だけだというのに、どうにも逃れようがない。言っていることもやっていることも恥ずかしすぎて、エミリーはもう消え入りたいほどに顔を赤くした。助けを請うように、イライとマーサの方へと視線をやってみたが、気付けば二人は既に退出しており、影も形も無い。薄情もの、と胸中で罵る。
 ドーナツが丸々一つ謝必安の胃の中へと消え、そしてノートンの手から皿がゆっくりとした動作で謝必安の細く長い指の上へと移る。
「これ以上、何をお望みで?」
「先生」
 淡く光った紫からノートンは視線を外し、その腕の中に閉じ込められたままでいるエミリーへと移した。何の脈絡もなく呼ばれ、エミリーは驚きを隠せぬまま、きょとんとした顔でノートンの方へと顔を向ける。
 爛れた皮膚が歪み、普段からあまり変わらない表情が笑みを作る。
「次は、僕の部屋で作戦会議をしよう」
 ドーナツは、持ってきて。
「え、ええ」
「ちょっと、待ちなさい」
 目を瞬き、エミリーはノートンの言葉になんと返すのが適当かを考える前に、戸惑いを隠せないままに返事をする。そしてノートンは、そのエミリーの返事に気を取られたハンターに手をかけられる前に、手早く部屋を後にする。
 二人になってしまった部屋の中で、エミリーは冷静さを取り戻し、謝必安の手を叩く。
「放して。あなた最近ひどいわよ」
「あなたがいけないんですよ」
「私のせいだって言うの」
「ええ」
 声を荒げたエミリーの体を背後から軽く持ち上げ、視線の高さを合わせる。思わずその顔の近さにエミリーは体を仰け反らせたが、それよりも近づけられた端正な顔が触れる方が早い。
「隙だらけで、気が気じゃありません」
 触れただけの唇は焼けたように熱かった。