かすかな音

 艶やかな黒髪を払う。
 謝将軍は本日の狩場を確認する。会場は湖景村。平地で障害物も少なく、獲物の動きがよく見える。水が近くにあるのはいただけないが、狩場としては申し分なかった。獲物の面子を見渡せば、傭兵、心眼、医師、呪術師。比較的バランスは取れている。傭兵の救助、解読の心眼、支援の医師、妨害の呪術師。
 一つ鼻で笑い、謝将軍は花が散らされている陰陽の傘を撫でた。試合開始まではまだ時間があり、待機室での会話に耳を傾ける。
「湖景村かよ…」
「あら、ナワーブ君は嫌い?」
「嫌いってほどでもねーけど、嫌いな椅子がある」
「嫌いな椅子?」
「割とトラウマ」
 深い溜息を吐き、傭兵は長いテーブルに突っ伏す。余程思い出したくもない救助の失敗でもあったことは想像に難くなく、そしてそれがどの椅子かは用意に想像がついた。他のハンター連中から、湖景村のある椅子に座らせると面白い光景が見られると耳にしたことがあった。
 あの、とそこで心眼が手をあげる。
「私、中治りつけてないんです。傍観者です。ごめんなさい」
「謝ることか?」
「最後、通電した時に足手まといになるから…それに危機一髪でもなくて、割れ窓で」
 顔を膝へと落とした心眼の肩に、呪術師がそっと手を添える。
「気にするな。お前を救助をいかせるような真似はさせない。解読を、頼んだ」
「そうよ、ヘレナ。治療は私が、救助はナワーブ君が、妨害はパトリシアが。得手不得手があるのだから、それを互いが補えばいいのよ。それに、私も治療優先だから傍観者に回しているもの。危機一髪と傍観者で、中治りは振ってないわ」
「それが仲間ってもんだろ、心配すんな。いざって時は、俺が助けに行く」
 傭兵はそう言って、こつんと心眼の細い肩を拳で軽く小突いてみせた。
 まったくの茶番である。謝必安は柔らかな一人がけのソファに深く腰掛け、笑いそうになるのを必死に堪えていた。
 手の内を明かすなどと、愚行の極みである。会話の内容から察するに、中治りと危機一髪が二人ずつ、医生は傍観者の上下。心眼は左上。さらにいえば、救助をすると言った傭兵は危機一髪と中治りの右下である。呪術師は左右あるいは右下。過信は禁物だが、仮定して動くことができる。
 間も無く待機時間が終了する。待機席では、和気藹々と互いを鼓舞する言葉が飛び交う。どうせ、その声は息をつく間も無く血反吐に塗れるのだから、そう焦らずともよいのにと謝将軍はゆっくり目を閉じた。

 波の引く音に目を開ける。
 くるりと周囲を見渡すと同時に、心眼が杖を叩く音が小屋の方角から鳴り響く。心眼の暗号機解読速度は危惧すべきものであるし、他の獲物に自身の位置がバレるのはまったく望ましくない。心眼の足であれば、范将軍の足でも追いつける。
 謝将軍は傘の先端を音のした方角、そしてそれから暗号機の中間地点へ向ける。
「さあ、狐狩りだ。范将軍」
 くるりと傘が回った。
 白銀の髪がヘレナの前で踊る。真っ暗な視界の中で、ヘレナは一際大きく心臓が揺れたのを知る。咄嗟に踵を返すが、その行動は少し遅く、先に出された傘に肩口を抉られる。痛みで足が絡れ、転びそうになるのを堪えて暗闇の中を駆け抜ける。
 まだ、暗号機に一度も触れていない。
「ごっごめ、ごめん、なさ、っ」
 私ができることは、ひたすら解読をすることだけなのに。
 情けなさに涙が溢れそうになる。背中から追いかけてくる、その足音は断頭台へと導く処刑人のそれである。
 杖を鳴らした瞬間に、ハンターの姿を耳が捉えていた。白黒無常である。初手のワープで飛んできたということは、今自身を追いかけているのは、黒無常の方で、幾分か足は遅く、攻撃射程の範囲も狭い。救いはただそれのみである。板を先倒しするような時間はなく、窓を乗り越えようものなら、その攻撃速度で一撃が入ってしまう。
 風を切り裂く音が鼓膜を震わせる。だめだ。
 ヘレナはぎゅうと来る衝撃を堪えるため、目を瞑った。しかし、耳がとらえたのは、痛みではなく轟くような叫びと、壁にぶち当たる肘当ての音である。
「ヘレナ‼︎」
 先程の攻撃を代わりに受け、その痛みから漏れた声が誰のものか知る。溢れそうになった涙を拭い取り、白黒無常の視界から消えるように精一杯走り抜ける。なんとしてでも逃げ切って、暗号機に触れる。立て直しを図る。
 傘でワープするときの音にヘレナは肩を震わせる。それでも、逃げる。仲間を信じて、逃げる。傘のワープ音がやむ。遠くで、耳が、微かなパトリシアの呪術が弾けた音を拾う。
 来てくれた。みんな、来てくれた。
 エミリーがチャットを飛ばして治療に向かってきてくれているのが分かる。もう、心音はしない。
 舟の降口でヘレナはエミリーと邂逅する。エミリーは周囲を一度確認し、地下室へとヘレナの手を引いて連れて行く。
「ダイアー先生?」
「今日のハンターは東風遙の白黒無常よ。万全を期しましょう」
 階段下、一見して姿が見えない場所で治療を受ける。傍観者の効果で負傷状態であるナワーブとパトリシアの姿が確認でき、未だハンターを足止めしてくれていることが分かる。治療が終わり、ヘレナは立ち上がった。
「舟上に暗号機が一台あるわ。そっちをお願い。私は浜辺の暗号機を」
「いいえ」
 ヘレナは首を横に振った。
「浜辺には暗号機が固まっています。私が、二つ、同時に上げます」
「でも」
「解読速度だけは、誰にも、私は誰にも負けません」
 エミリーが既に一つ暗号機を開け、残りは四台。エミリーはヘレナの両肩に手を添える。
「任せたわ、ヘレナ」
「はい。ダイアー先生も、御無事で」
 駆け出したヘレナに背を向け、エミリーは船内の階段を駆け上がり、舟上の暗号機を回し始める。ヘレナが暗号機を二つ。回さねばならない暗号機は新規が一つ。解読速度は決して遅い方ではないが、それでもその時間がまるで永遠のように感じた。
 存在感は十分に溜まっている。暗号機は残すところ四つで、負傷が傭兵と呪術師、回復した心眼と無傷の医生。しかし、それでも范無咎はそれほど焦ってはいなかった。呪術師の呪いが少しばかり厄介であるが、あまり気に留めてはいない。
 銀糸が揺れ、眼前で倒された、あるいは倒させた板を踏み抜く。板は、もう随分と減った。後は解読中の暗号機周りの板だけである。足止めが二人で、浜辺の暗号機と舟上の暗号機が揺れている。で、あるならば、ほぼ新規の暗号機が一つ残っている。
 さてそろそろ、と范将軍は、手を上げ呪いを発動した呪術師の攻撃を受け、そして俯きほくそ笑んだ。
 それに先に気付いたのは傭兵である。
「パトリシア!そいつは」
 長い間痛み、苦しむような真似をするのは、些か疲れた。
 傘を手の中でくるりと回す。
「怒り持ちだ!」
 突き出した傘の先端は呪術師の手の中の像を打ち砕く。溜め攻撃を食らったその体は容易に吹き飛び、背中が地面を擦る。余程痛むのか、声も上げずに呪術師はその場に倒れ臥す。
 攻撃をし、踏み出した足先を傭兵の方へと向け直し、鐘を大きく打ち鳴らせば、傭兵の足が絡れ、膝をつく、その一瞬でよかった。范将軍は、傘を突き出し一撃を加える。
「くっそ、」
 肘当てを使ってその場から離れた傭兵に背を向け、范将軍は呪術師の体を風船で浮かせて、椅子に縛りつける、ダウン確定の傭兵は救助に来ない。中治りが如何に便利な内在人格といえど、通電しなければ何の意味も持たない。
 舟上の暗号機が揺れ始めてそう時間は経過しておらず、まだ半分程度。舟上の暗号機の揺れが止まる。で、あるならば舟上を回していたのは医生である。
 范将軍は傘を浜辺へと向ける。ゆっくりと、正確に。
「随分と待たせる」
 白い波から伸びた手が傘を受け取り、謝将軍は暗号機に触れていた心眼の背後に足をつける。傘を振りかざすも、まだ心眼は暗号機から手を離さない。このままでは恐怖の一撃が入る。なるほどと謝将軍は納得した。
 攻撃が届くその一瞬前に暗号機が上がる。振り返った瞳は強い。傘は心眼の脇腹を抉るが、心眼はそれすら構わず、まっすぐに直近のもう一つの暗号機へと走る。
 ヘレナは手を伸ばす。攻撃硬直は白無常の方が長い。間に合う。触りさえすれば、この暗号機は点く。もう少し。もう、少し。
「惜しまれるは、その足の遅さか」
「あ、」
 後一歩。
 あと、いっぽ。
 ヘレナは頬が地面についたことに気付く。う、と呻いても倒れた体は容易に起き上がることはできない。起死回生で立ち上がるしかない。しかし、その体は簡単に持ち上げられ、暗号機側の椅子に縛り付けられた。
 さて、と謝将軍はゲージを確認した。耳鳴りはする。傭兵の治療は半分が終了し、立ち上がる。呪術師の椅子は半分を超えた。上々。
 傭兵が逃げた方向と舟からの方向、治療音がする方向へと傘を向ける。ハンターの目を掻い潜って治療するならば、ちょうど桟橋の下、死角となる場所である。賢い者の行動は愚者よりもずっと読みやすい。
 雨粒の中、范将軍は傘を掴み取り、足を波につける。治療の調整が失敗し、通知音が響く。見上げた顔は、どうしてここがといった驚愕のそれである。
「く、っそ」
 肘当てももう残すところ、二個。二つ使って、呪術師の救助に成功するくらいである。肘当てを使って逃げられるより早く、傭兵に先に一撃を入れる。時間差ダウンが確定した。こうなれば、呪術師を救助するためには残った肘当てを全て使い切るしかない。
 案の定肘当てを使い呪術師の方向へと走った傭兵を無視して、先に医生に一撃を与えておく。荘園旧友の効果で移動速度はあがり、その足は呪術師とは別の方向、心眼へと向かった。これも、問題はない。
 傭兵が走った方向へと視線を向け、范将軍は口角を軽く持ち上げ、その姿は赤い光とともに消えた。
「パトリシア!」
 残り二つの肘当てを使い切り、あと僅かでダウンするナワーブはパトリシアの体を戒める縄に手を伸ばしたが、ナワーブはその視界に映ったパトリシアの表情が一瞬で凍りついたのを見る。嫌な、あるいは嫌と言うほどに聴きなれている音だった。
 赤い、光。引き留めるではない。
 顔の横で番傘がちかりと動いた。
 呪術師が飛ぶのと同時に、殴った傭兵の体が地面に伏す。その後を見ることなく、范将軍はクールタイムが終わった傘を心眼の椅子へと向ける。ずる、と入れ代わり立ち代わり、謝将軍は砂地に足をつける。着地の吸魂が驚愕の顔に満ちた医生に当たる。救助は、できない。
 椅子は半分を超える。
「ダイアー先生!私のことは、私はいい!」
 いいもなにも、そもそも救助ができない。切り返すも、攻撃を溜めれば、その背中に当てるのは容易い。すでに負傷していることから、医生のその体は砂地に倒れ込む。ずる、と心眼の方へと這った体を躊躇無く持ち上げ、椅子に座らせる。
「謝、将軍…!」
 苦々しく吐き出された名前に謝将軍は肩を揺らして、嘲りをその顔に滲ませる。後は、傭兵が起死回生で立ち上がるのを待つばかりである。ハッチは舟下、ここから視認できる位置にあるため、ハッチ逃げはできない。
 心眼が飛ぶ。
「あなたがキャンプなんて、珍しいこともあるものね」
 椅子付近で立っていれば、医生が口を開く。生意気な口に、取り立てて怒ることはなく、謝将軍は周囲への警戒を怠ることなく、返答する。傭兵が起死回生で立ち上がった。
「なに、お前が無様に飛ぶ姿でも見てやろうと思ってな」
「悪趣味。…あなた、どうして私の場所がわかったの」
 監視者は置いていなかったと続けた言葉を鼻で笑う。
「お前の行動は読みやすい。お前も、傭兵も、だ。光に集る羽虫のようだ。習性とでもいうべきか」
「それ」
「続きが聞きたければ、後で私の元へ来るといい。愚かなお前でも分かるように教えてやろう」
 す、と謝将軍は視線を巡らせる。耳鳴りがする。障害物がない狩場で、まっすぐ最短距離で向かってくる傭兵の姿をいとも容易く発見する。負傷状態のままだが、一撃を受けてすぐにダウンすることはない。ダウンするのであれば、恐怖の一撃のみである。
 傭兵は立ち上がってからすぐに救助に来たわけではない。それにしては、ダウンした位置からでは時間がかかりすぎている。箱でも漁っていた、というのが見解である。肘当てを全て使い切り、すでに一撃が入っている状態では、その選択肢しかない。
 謝将軍は向かってくる傭兵へと向かい、十分な余裕を保って吸魂を発動させる。しかし、それは板を倒されて防がれた。
「知ってるんだよ!何度も!白無常にやられてっからな!」
「成程」
 ナワーブはエミリーの椅子へと向かう。赤い光は確かに足元を照らしている。ここだ。ナワーブは伸ばしかけた手を止め、体を反転させ、箱から出た信号銃をハンターへと向けた。いかに怒りに振っていようが、少なくとも救助の時間は稼げる。危機一髪はまだ使っていない。
「くら、」
 え。
 ナワーブは引き金を引く。煙が一瞬充満し、その中で、ナワーブはエミリーの体を縛る縄に手をかけた。だが、くるはずのなかった一撃が、背をえぐる。恐怖の、一撃。
「あ、っが」
 黒く艶やかな髪が煙幕の中で揺れる。
 はは、と堪えきれない笑いが、煙に紛れて響く。
「使い慣れぬ武器は、持たぬ方が賢明だと教わらなかったか」
「しょうがい、ぶつ、かよ…!」
 うっすらと刷かれた笑みに、ナワーブは地面に額を擦り付けた。
 さて、と謝将軍はエミリーへ向かい、長く白い指で土で汚れた頬を拭い、そのまま唇を親指で押し潰しながらなぞる。もう間も無く飛ぶ椅子に座るエミリーの前で、突然謝将軍は痛みに顔を歪ませ、その手を引いた。親指についた歯形から血が滲む。
「あまりにも手応えがなさすぎて忘れていた」
 噛みつかれた指の傷を舌で舐めると、謝将軍は反対側の手で力任せにエミリーの両頬を掴み、その頭部を乱暴に椅子の背に打ち付けた。
「気をつけねばな」
「次は、喉元に食いつくわよ」
 ぞわりと、興奮が背筋を撫でる。捨て台詞にはいささか強烈な一言を残して、その姿は椅子と共に飛んで消える。
 足元に這いつくばった傭兵に視線を落とすと、謝将軍は喉を鳴らして見せた。
「いい女だろう」
「噛みつかれてりゃ世話、ねーな」
 そして最後の獲物は椅子に座らされた。

 エミリーは医学書をめくる。
 そして、白い波と共に部屋に現れたハンターを半眼で睨みつけた。
「何か御用」
「お前が噛んだのではないか」
「唇を触るから、噛んでほしいのかと思ったわ」
 当たり前のようにベッドに腰かけた謝将軍にエミリーは苦い顔を隠そうともせず、しかし、差し出された、自身が噛み付いた指の消毒を手早く済ませ、再度医学書へと没頭する。けれど目を通していた医学書は目の前から素早く取り上げられ、手の届かない棚の上に置かれる。
「意地悪はやめてちょうだい」
 憤慨したエミリーなどどこ吹く風で謝将軍はしたり顔を見せる。
「私が来てやっているのだ。私の相手をせよ」
「高慢で性格の悪いあなたの相手を私がしたいとでも思ったの」
「お前のような礼儀も礼節も知らぬ女の相手は私くらいしかせんだろうよ」
 ありがたく思えという続きが聞こえてきそうである。そして、出て行ってとエミリーの大声が部屋に響き渡った。