彼らの髪は長く美しい。
だから、その頸が無防備にさらされているのは意外であったし、理由も無くそわそわとした。それが理由というわけではない。わけではないが、確かにそこに視線を注いでしまっていたのは揺るがしようのない事実であった。
「お嬢さん。そんなに見つめないでくださいな」
穴が空いてしまいます。
そう、片眼鏡を眼孔に嵌めたハンターは言った。
普段とは違う鎮魂歌の装いで、その人格すら異なる白黒無常はソファに体を預けたまま、頭を背もたれに乗せ、薄笑いを浮かべてみせた。注視していたことに気付かれ、気恥ずかしさを覚えてエミリーは視線を下へと落とす。
「なにかご用でも?」
「今日はなにも持っていないわ」
危ないものは、とエミリーは両手を上げて敵意がないことを示す。もう十分に懲りた。初対面での出来事は思い出したくもない。
そんなエミリーの様子に謝必安は喉を鳴らして笑い、背もたれに腕を乗せて、エミリーの方へと顔を向ける。その表情だけで、先程の行動の答えを聞いている。黙っていたところで、いいことなど何一つなく、下手を打てば先日の二の舞であるのは火を見るよりも明らかで、一つ溜息を吐いてエミリーは白状した。
「その刈り上げ、触ってみてもいいかしら」
その言葉に、謝必安は珍しくも意表を突かれたように、眼鏡奥の瞳を大きく丸くした。その反応はエミリーにとっても想定外と呼ぶべきもので、変に緊張する。
「変な意味じゃないわ。いつものあなたは髪が長いし、そんな風に髪を刈り上げた姿は見たことがないの。だから、それと、その、どんな手触りがするのか、少し気になったのよ。それだけ」
「構いませんよ、どうぞ」
そう言うと、常に持っている本を開き、無防備な頸をエミリーへと向けたまま、開いた本を読み始めた。あまりにも予想外の行動にエミリーは唖然とし、次の行動を忘れる。
「どうぞ。とって食いやしません」
躊躇いを見せているエミリーに謝必安は続けて誘う。若干の疑いを捨てきれないまま、エミリーはおずおずとソファに腰掛ける謝必安に近付き、手袋を外す。
「本当に、いいの」
「ええ」
「…なら、お言葉に甘えて」
そろりと指先が刈り上げ部分に触れる。普段の柔らかな髪からは想像ができない感触が指先に残る。刈りたての芝を踏んでいるような感覚が表現するに一番近い。あるいは、少し硬めの毛皮を逆撫していく感触である。
これは、癖になる。
一心不乱に、とまではいかないものの、その感触を指先と言わず掌でも堪能する。髪の流れに沿い、頭の形をなぞるかのように掌を這わせれば短毛種の犬を撫でているような、そんな感覚に襲われる。
「お気に召しましたか」
「ええ。なんだか短毛の大型犬を撫でているみたい。とても気持ちがいいわ」
目をキラキラと子供のように輝かせながらその刈り上げを撫でさすっていたエミリーはそこまで言って我に返り、慌てて手を引く。
「あ、その、我儘を言ってごめんなさい」
「気の済むまで撫でてもらっていいんですよ。さあ」
両脇に手を差し込まれ、体は軽々とソファの上を通過して細い腰の上に乗せられる。両脇で体を支えていた手は、状況を飲み込めないままの両手を掴み、そのまま自身の後頭部に誘う。近い。
「思う存分、心ゆくまで」
端正な顔立ちであるのは心得ていたが、間近で見ると、本当に目鼻立ちがよい。すっと通った鼻筋に、切れ上がった涼やかな目。
上から添えられた手の力で指先が髪にわずかに沈む。気恥ずかしさを覚え、もう十分よとエミリーは小さく言葉を落とす。それでも、重ねられた手が離れることはない。手を軽く引いてみるが、込められた力に勝てるはずもなく、手は回した後頭部から一寸たりとも動かない。
「ねえ」
「ご存じですか、お嬢さん」
眼前の瞳がゆるやかに弧を描いて歪んでいく。
「ただより高いものはない、と」
その瞬間、エミリーの視界は天井を見上げており、不敵な笑みを浮かべたハンターが影を作っている。ソファに押し倒されたことに気付き、慌てて体を起こそうと試みるが、両手首は片手でひとまとめにされており、微動だにしない。
押し倒している張本人は、口元に薄い笑みを浮かべながら、首を絞めている赤いタイを緩め、舌舐めずりをする。
「私を犬扱いですか。大変いい度胸です。猟犬如きと一緒にしていただいては困りますね」
赤く発光する瞳は落とされた影の中で煌々と光を放ち、エミリーを見下ろしている。蛇に睨まれた蛙のごとく、エミリーは瞬きひとつできないまま、唾を飲んだ。先日のように抱かれるのは二度と、二度とごめんである。
呼吸を繰り返すたびに上下する胸の丘を切りそろえられた爪がゆるりとなぞり、ボタンを外していく。ぷつん。ぷつん。
ケープが外され、体のラインもあらわな看護衣が男の眼下にさらされる。たわわな胸が下から持ち上げられ、揺すられる。くつくつと喉が鳴らされ、指先はブラジャーのラインを服越しになぞっていく。
緊張で強張ったエミリーの頬を革手袋がなで、そして部屋に弾けたような笑い声が響き渡った。
拘束は外され、先程まで押し倒していた男は、腹が捩切れそうな勢いで大笑いし、ソファに縋り付いてひいひいと肩を揺らしている。エミリーは状況が把握できないまま、瞬きを二、三度繰り返し、呆然と笑い続ける謝必安を見つめる。
ひとしきり笑い倒し、ああと男は浮かんだ涙を拭って息をついた。
「あなたなんて顔してるんですか。ああ、面白い」
「あ、あなた」
「なんです?それとも抱かれたかったですか?そんな処女のような反応しないでくださいよ。笑ってしまう」
「しょ、」
「まあもっとも、処女どころか我々を二人とも食い込んで悦んでいたアバズレですけどね」
その言い様に、反論しようと口を開けたエミリーの唇に指先が添えられ、言葉は封じられる。
「否定などできないでしょう?膣に二本咥え込むどころか、後ろの穴にまで突っ込まれてよがっていたのはあなたですのに」
「あれ、あれは」
「ねえ、無咎」
「ああ、まったくだ」
ソファの肘置きの方へと顔を向けて、求められた賛同に、同意があっさりと寄せられる。一体いつ部屋に入ってきたのか、エミリーにはとんと分からなかった。
慌ててそちらを体をひねって確認すれば、肘置きに尻を乗せた范無咎が青い炎を瞳の中で揺らめかせている。
范無咎は口角を吊り上げ、目を細める。
「俺のも、触らせてやろうか?」
その言葉に、はくりとエミリーは口を酸欠のように開閉し、ようやっと言葉を絞り出した。
「いつから」
「お前が必安の刈り上げを満喫しているくらいからか」
「ほぼ初めからじゃない」
「犬扱いは頂けんな」
「それは、いえ、結構よ。ただより高いものはないんでしょう」
「誰がただと言った」
何を言っているとばかりに、范無咎はエミリーの手を乱暴にとり、己の後頭部へと持っていく。広げられた掌に、寸分違わぬ感覚が触れる。するりと背後から腰が撫でさすられ、骨盤の上に手が乗せられた。
范無咎が腰掛ける肘置きの端に白い革手袋が置かれ、耳朶に笑いを含んだ呼吸がかかる。
「無論、有料だ」
取り立てはきっちりする。
両頬に触れたその互いの頬に、エミリーは自らの発言を死にたくなるほどには後悔した。