おもてなし

 子供染みた、大人気ないことをした自覚は十分すぎるほどにあった。
 サバイバーには写真家と称されるハンターは、失血死寸前で雪面を這う医師の姿を映しだした写真を手の中で弄びながら紅茶を嗜む。
 しかし彼女にも非がある。非が、ある。
 ジョゼフは嵐のあの夜、いままで撮りためていた写真の整理をしていた。
 肌寒いので紅茶を口にしつつ、様々な写真を分類してまとめる。
 カップの紅茶がなくなったので、注ぎ足そうとしたところ、ポットの方も空になっていたことにも気付いた。
 茶葉も沸騰したお湯も食堂に行かねばない。
 時計を見れば、すでに午前0時は回っていた。時間を自覚した途端、眠気が突如襲ってくる。このままベッドに突っ伏して眠ってもよいが、お気に入りのティーカップに茶渋が付くのは我慢がならなかった。
 手を叩けば執事が来る場所ではなく、ジョゼフは諦めて、ポットとカップをトレーに置き、食堂へと足を向ける。
 そこで見た。
 白黒無常。
 それから。
 咄嗟に身を隠す。サバイバーとしての能力もあるのではないかと思えるほど瞬間的に、それこそ完璧に。気配すら断つ。声が聞こえる。
 おやすみなさい、謝必安。
 なんだそれは。
 足早にトレーを両手にしたまま部屋へ戻る。雷雨が激しく窓を叩く。テーブルにトレーを静かとは言い難く、激しく置いた。ポットとカップがぶつかって陶器の高い音が部屋に響く。
 ジョゼフはソファに倒れ込むように座り込んだ。そして顔を覆う。柔らかな声が耳から離れない。
「おやすみなさい。おやすみなさい、だと」
 慈愛に満ちた声。愛おしそうに頭を撫でる手。
「僕らはハンターだぞ。それを、あの、あの」
 エミリー、エミリー・ダイアーよ。
「あの!」
 謝必安。
「なぜ」
 そんなに、やさしいこえでよびかけるのか。
 片割れを失って久しい写真家は頭を抱えた。

 恵みの雨が降る。
 庭師などは喜んでいるのかもしれない。
 謝必安は、日が隠れてから降り始めた雨に溜息を落とした。
 陰鬱な気分になる。今日も、眠れそうにない。頭の奥がずきずきと痛み、目はおそろしいほどに冴えわたっている。
 夕食を終え、各人が自室へ帰り、自由な時間を満喫している中、謝必安は時間を持て余し、一人応接間にいた。
「そういうわけではないのです。無咎、決して、そういうわけでは」
 言い訳がましく、黒い傘を抱きしめる。
 彼女の来訪を待っているわけではない。暖炉の火が暖かいから座っているだけである。部屋に戻ったところで、雨は大きな窓を打ち付ける音をやめないし、カーテンを引いたところでその音は大きく響くばかり。
 だからここに今自分が座っているのは、多種多様な要因の結果であるから、あの時の口約束を律儀に守っているわけではない。
 謝必安はソファに毛布を三枚放り捨てて、息を吐きながらもたれ掛った。全身の体重をソファに預ける。
「あら、もう来ていたの」
 突然かけられた声に、油断しきっていた体は反応が遅れ、驚愕とともに大きく震える。
「驚かせたかしら」
「驚いてなど」
 いません、と最後の言葉はもごりと口に消える。
 エミリーの手の中には少し分厚い本が二冊ほど抱えられていた。今日はその肩に花柄のショールが掛けられている。二枚も毛布を奪ってしまった負い目に謝必安は、持ってきていた毛布をソファの隅に寄せる。
「それは」
「本よ。何かしている方が眠くなるかと思って。調子はいかが?」
「子供の寝かしつけに本を読むのと一緒と考えていませんか。私は子供では」
 腕に抱えられていた綺麗な表紙の本を一冊奪い取って、謝必安は目を本に滑らせる。そして思わず絶句した。
「エミリー、あなた」
「私の国の言葉は分からないかもと思ったから、絵本にしたの。私も読むけれど、こちらの方が目で見て楽しめるでしょう。少し座って待ってて。飲み物は何がいい?」
「え、」
「私はミルクティーにするのだけれど、あなたは?」
「あなたと同じものを」
 流されている。謝必安は十分に自覚していた。
 暫く経って、アッサムのミルクティーを前に置かれる。前回と一緒。カップは三つ。ポットが冷めないよう、保温のティーコージーが被せられる。
 今日の茶菓子はクッキーではなくてフルーツいっぱいのパウンドケーキ。
「気分はどう。いつもは眠れている?」
「気分は…そう、今は、驚いています。普段は、眠れています。寝付きは、よくないですが」
「夢見が悪くて起きることは」
「時折」
 問診を受け、謝必安は素直に答えてしまう。その必要などどこにもないのに。調子が狂う。
 上から見下ろせば、エミリーの頸がちらりとのぞき見え、思わず視線を逸らした。鼓動がやかましい。助けを乞う様に、手にしていた傘を握りしめる。
 顔色を下から覗き込むようして見られ、反射的に仰反るも、動かないでと制される。
 一通り確認して満足したのか、エミリーは口元に手を添えた。
「薬を処方しましょうか」
「…処方すれば、」
 すれば。
 どうだというのだろう。
 謝必安は紡ぎかけた言葉を飲み込んだ。
 誤魔化すように、紅茶に口を付ける。エミリーはといえば、少し考える様子を見せ、医師としての見解を述べた。
「ソファなんかじゃなくて、やっぱりベッドで眠る方が体にはいいもの。薬も一長一短。摂取しすぎは駄目だけれど、適切な量を服用すれば、日常生活の助けになるわ」
「いやです」
「え」
 謝必安は、自身が口にした言葉の意味を理解できなかった。
 しかし、口からは同じ言葉が零れ落ちる。
「いやです」
「でも、」
「いやです」
 駄々っ子のようだと自覚はした。けれども、謝必安はこれ以外の言葉を紡ぐことができなかった。
 そう、とエミリーは諦めたように小さく笑う。
「ならこうしましょう。今日と同じように雨の日はこの部屋に。他にどうしても眠れない日があれば、声をかけて頂戴」
「…私が、あなたの部屋を訪れても?」
「それは」
「ハンターだらけの居館に訪れるよりかは、ずっとよいと思うのですが」
 謝必安は押した。
 自分でも理由はわからなかったが、ここでごねておくと決めて、押す。
 いつも困ったような下がり眉が、さらに下がり、困り果てたように、それはとエミリーは口ごもった。謝必安はそれを逃がさない。
「何もしません。なにも。そう、なにも」
 迷っている。エミリーは、迷っていた。それを感じ取る。とどめの、恐怖の一撃ではないが、謝必安はエミリーの視線を捉えた。
「無咎に誓って」
 ここで誓うのは決して神でも鬼でも、自身でもない。
 謝必安の出した名前に、エミリーはとうとう折れた。
「何もしないのね。約束よ」
「ええ、何も」
「いいわ。ただし、どうしても眠れない日だけ」
「わかりました。どうしても、眠れない日だけ」
 自分の要求が通ったことが分かり、謝必安は声を弾ませる。エミリーもまるで子供のように喜ぶ謝必安の姿に、思わず頬を緩ませた。困ったように、笑う。
 しかし、突如その無邪気な顔が強張る。
 警戒する獣のような気配を漂わせ、その大きな手がエミリーの腕を掴むと、ソファから引きずり下ろし、壁とソファのわずかな隙間に押し込んだ。
 何やら訳が分からず、目を白黒させているエミリーに謝必安は傘を開いて、その姿を完全に隠す。
「静かに。隙を見て、逃げなさい」
 その言葉にエミリーは咄嗟に口を両手で塞ぐ。
 それと同時に、靴が床を叩く音がした。
 謝必安は、扉へと視線を注ぐ。
「どうしたんだい、こんな夜分遅くに」
 写真機を片手に、そこに写真家は立っていた。そのガラスのような眼がテーブルに置かれていたカップと食べかけのパウンドケーキへ注がれる。
 謝必安は唾を飲み込んだ。
「誰か、いたのかな」
 断罪するかのような言葉は重く、火を焚べられた暖炉へ水でもぶちまけたかのように、部屋の空気が冷える。
 刺すような、探るような視線を受けつつ、謝必安は姿勢を正し、白を切る。
「いいえ、誰も。私と無咎だけですよ、ジョゼフ」
「三セットあるけれど…ああ僕がくるのを見越して一つ余分に準備しておいてくれたのかな」
 エミリーが準備していた范無咎のものを目敏く見つけた上で、向けられる視線に謝必安は平静を装い、ゆっくりと傘を背に隠すように、ジョゼフと傘の間に立つ。
「私が、甘いものが好きなもので。無咎にも、いつも小言を」
「ふうん」
 ジョゼフは丁寧に写真機を置き、謝必安の方へとレンズを向ける。足元には、エミリーが隠れている傘がある。
 その動作に僅かな動揺を見せた謝必安に、ジョゼフは薄く笑う。
「ゲームの話だけれど」
 機器を触りながら、ジョゼフはひとりごつる。
「これを使う時のコツがあるんだ」
「コツ、ですか」
「そう。サバイバーは姑息で狡猾な生き物だ。サバイバーを見つけても、すぐに作動させてはいけない。少し、彼らを安心させる。窓を乗り越えたり、障害物が多い場所に逃げ込むその一瞬を狙う」
 ジョゼフの手が写真機のスイッチにかかる。
「写真世界の彼らの顔」
 白い指がスイッチをなぞる。
「無事に逃げ切れたという安堵の表情」
「悪趣味な」
「僕らは、ハンターだからね」 
 フラッシュが視界を奪う。
 白く奪われた視覚が一分一秒でも早くもどるように、謝必安は顔を振るうが、視覚が回復したときには、ジョゼフの姿はなかった。
 エミリー、と謝必安は即座に写真世界に入り込む。
「ジョゼフ!」
 ソファの後ろに回り込み、傘の後ろに佇むジョゼフの肩を掴む。しかし、そこにエミリーの姿はなかった。
 世界は彩りを取戻す。
 謝必安は掴んでいたジョゼフの肩から手を離す。背を向けたままのハンターのその表情は窺えない。剣先がこつこつと革靴を二三度叩く。苛立っているのは、表情を見ずとも、充分なほど汲み取れた。
「ジョゼフ」
 唾を一つ飲み込み、言葉をかける。
 一拍の後、ジョゼフは振り返り、写真機を片付ける。
「用事を思い出したよ。ああこのパウンドケーキ一切れいただいてもいいかな」
「どうぞ」
「ありがとう」
 足音が遠ざかり、完全に気配がなくなってから、謝必安は動揺もあらわに、ソファの裏を再確認する。
 エミリーの姿はない。
「エミリー、エミリーどこですか」
 周囲を見渡すも、その姿はない。
 エミリー、ともう一度呼ぶと、傘がかたりと動いた。動いた傘の先に、探し人が怯えきった表情で座り込んでいる。
 謝必安はその姿に駆け寄り、怪我がないかどうか確認する。
「怪我は」
「写真家が、写真を、撮る、前に、傘に、隠してくれた、の」
 それならば納得である。
 謝必安は開かれた傘から滴る黒い滴に目を見開いた。ジョゼフの写真世界は写真を撮った瞬間の世界を鏡像に映す。よって、その前に隠れてしまえば見つけられるはずもない。
 血の気が失せた真っ青すら通り越して、真っ白な顔色に、組まれた指先はひどく震えている。先のゲームを思えば、それは想像に難くない反応である。
「ああ、無咎」
 広げられた傘に謝必安は縋る。何か返事があったような気がした。
 傘を畳み、震えの収まらないエミリーをソファに座らせると、毛布でその体を包み込む。
 一寸考え、その体を自身の膝の上に乗せ、体を抱える。
 毛布越しに震えが伝わる。
「もう怖くありません」
 浅い呼吸が数度繰り返され、次第に包んだ体の震えが収まっていく。
 ごめんなさい、と小さな体から小さな声が落ちる。
「もう大丈夫。下ろしてちょうだい」
 しかし、謝必安はエミリーを膝の上から下ろさなかった。謝必安、と名を呼ばれ、名残惜しげにその体を毛布にくるんだままソファに戻す。
 まだ指先は震えていたが、エミリーはその手でカップを取り、冷めてしまった紅茶を飲んだ。
「パウンドケーキ、もう一切れ持ってきましょうか。写真家が、持って行ってしまったもの。それから、本を読みましょう。きっと、あっという間に朝が来るわ」
「ええ。無咎も、食べたいでしょうから」
 謝必安は傘を優しく撫でた。

 ジョゼフは、椅子に乱暴に腰かけた。
 見つけたと思ったのに。確実に、捉えたと。
 白黒無常の様子からも、間違いないと踏んだ。しかし、ソファの後ろには誰もいなかった。サバイバーなら、会話の隙に、ソファの後ろを這って、後は扉から逃げ出るのが定石だ。
 あの部屋にいるのは間違いなかったのだ。
 深く息を吐き、滲み出てくる怒りを抑え込む。
 次だ。
 まだ持っていたエミリー・ダイアーの写真を破り、ごみ箱に捨てる。
「次のゲームで会おう。リディア」
 写真家は、誰もいない部屋にぽつりと置かれた写真機を、優しく、優しく撫でた。