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ゲート目前で小さな体が倒れ臥す。麦わら帽子が一瞬、宙に舞い上げられ、大きく空気をはらんで地に落ちる。
軍手をはめた手には椅子を壊し尽くした工具が一つ。嗅ぎ慣れた血の臭いが鼻腔に充満し、滴る液体は新雪を染めあげた。
エマ、掠れる声で伏した少女の名を呼ぶ。
応えるように、伸ばした指先へと少女の細い、しかし日に焼けた腕が伸びる。届かない。指は力尽きて雪に埋もれた。
小柄な体躯が白に覆われていく。
時間が経過する毎に、唇はふるえ、顔からは血の気が引いていった。
エミリー・ダイアーは、息を大きく吸い込んだ。ハンターは余裕の表情でまだ背後に立っている。
圧倒的な威圧感。剣を擦る金属の音が、雪に混じり冷たさを増す。
もう一度。もう一度だけ立ち上がれる。
最後の内在人格に一縷の望みを託す。
ハンターの目をかいくぐり、しかしその動きを目敏く見つけるであろう一撃を避け、エマを回復して逃げる。目の目のゲートへ逃げこむ。すでにピアソンとライリーは脱出しているため、二人の動向を気にする必要はない。
エミリーは己を叱咤した。雪の冷たさで赤くなった素足に力を込める。吐いた息は白く、睫毛を凍らせる。
立て。躱せ。
汚れてしまったナースキャップが剣先に跳ね飛ばされる。
振り切った動作の後は、一定の時間が経過しなければハンターは動けない。
「エマ、エマ」
崩れるようにして、倒れた少女に手を伸ばし、治療を進める。せめて立てるまで。
ハンターが直近で剣を振るう動作を終える。 後少し。
間に合わないのを悟り、一瞬だけ少女から手を離す。体を転がし、振りかぶられた剣から逃れ、治療を再開する。
血色が僅かながらに良くなる。
「エマ!」
立って、と懇願を込めて叫ぶ。生まれたての子鹿のような脚で立ち上がったその体を支え、ゲートへ急ぐ。
後、三歩。
背後の気配が一瞬、呼吸をするのを躊躇う程に重くなる。喉が、恐怖で潰れる。
途端、支えていた体が吹き飛んだ。側面の壁に激突し、小さな体は力なく、再度雪中に埋もれた。
「エ」
マ、と安否を確認するために駆け寄った体の中心から剣先が生える。
肉が、鋼を押し上げる感触と同時に、抜き取られた剣の傷口から溢れた血が服に一瞬で広がった。喉奥からせり上がってきた血が吐き出され、自身の血で雪に赤が広がり、温かい血で雪が溶けた。
膝から崩れ落ちる。
無様な姿だけは晒すまいと両手を血の染みた雪につき、体を支える。四つん這いで、最早わずかにも動かない、或いは動けない少女の下へ這いずり寄る。自らの頼りない腕では不可能だと知りつつ、倒れた少女の体を引っ張る。
目の前の、すぐそこの、後ほんの僅かな距離を永遠のものに感じた。
ゲートが、果てしなく遠い。
「椅子が」
ハンターは、今回のゲームで初めて声を出した。
「椅子が壊されしまっていて」
失血死をお望みのようだ。
エミリーは悔しさで気が狂いそうだった。
失血死は苦しい。
一刻一刻と近づく死の足音に震え、次第に冷たく硬くなる体に、酸欠による意識低下。朦朧とする意識に恐怖を抱えながら死ぬ。
それを知ってか知らずか、とぼけた様子でハンターはのたまう。
「気の毒に」
これ見よがしにため息をつき、ハンターは壊れた椅子に優雅に腰掛けてみせた。
すらりと伸びた脚が組まれる。
「写真家…」
「ジョゼフ、と。エミリー・ダイアー」
名を請われたが、その意思に従うのは耐えがたい屈辱を覚え、唇を噛み、拒絶の意思を示す。反抗的な態度すら小気味好いのか、頬杖をついた写真家は手に持った写真を指先で弄ぶ。
写真は一瞬で指先から消え、どこからともなく取り出した厚みのある本を手の中でくる様はあまりにも自然体で、ここに何故紅茶と茶菓子がないのかと疑問にさえ思えてくるほどである。
「そうだ」
思い付いたとばかりに写真家は本から顔をあげ、戯けた声をあげた。
椅子に腰掛けたまま、エマの体を意味なく引っ張るしかできないエミリーへとその視線を注ぐ。
二人の血が混じった赤い道が雪にできており、その上へレッドカーペットを進むかの如く、ゆっくりと、足跡を残しながら写真家は今にも力尽きそうな二人へと近寄った。
ハンターは大きい。
ゲートの明りを、希望を絶望に塗り替えるようにさえぎった。
「助けてあげよう」
思いがけない提案にエミリーは目を大きく見開いた。
すでに二人が荘園に戻っている以上、サバイバー側の引き分けは確定している。後一人でもサバイバーがゲートを抜ければ完全敗北となる。辛勝とはいえど、勝利を手にするならば、ここで二人を逃す理由はどこにもない。
ここに至って初めて伺うような、疑惑に満ちた視線を送った医師に写真家はああと付け加えた。
「君がその腕に後生大事に抱えているお荷物のことだ。ほうら、早く決めないと失血死する」
そうだろう。
白衣を身にまとった写真家は剣の切っ先を意識のないエマの動脈に添える。
反射的にエミリーはその切っ先を手で跳ね飛ばした。手袋が裂け、すでに血の色が染みている手の甲に一線が入る。
死にかけの子供をかばう手負いの母親のように、エミリーはエマの頭部を抱きしめる。
神経はすでに怒りで焼けきれそうで、体が小刻みに震えた。
「あなたの、」
声すら震えるのは、失血からくる寒さからではなく、単純に怒りからである。指先まで、それに染め上げられ、痛みすら感じない。
エミリーは唇をわななかせた。
「情けをもらうくらいなら、ここで二人、倒れたほうがましよ」
「いいのかい」
当然だと返答した次の言葉は、写真家の言葉に喉で止まる。
「今度こそ絶対に助けるのでは?」
違ったかな、リディア・ジョーンズ。
薄ら笑いをこぼす写真家の手には先ほど手に持っていた本が一冊。
よく見ればそれは、見覚えのあるものである。ハンターが持っているから彼自身の物であると勘違いしていた。
言葉にならない声が、喉から落ちていく。
「なぜこれを?ああ、君は不思議に思わなかった?彼が無傷で逃げたことを」
「ライ、リー」
記憶さえ正しければ、ピアソンは鏡像内では椅子に括り付けられており、写真世界崩壊後に、這うようにして荘園へ脱出を果たしたはずである。
正解をすぐに導き出したエミリーに写真家は満足げに微笑み、小さな音を立てながら拍手をする。
「取引だ、リディア・ジョーンズ。同意すれば、君は君の腕で苦しみにあえぎながら死にゆく少女を助けることができる。さあ!ご存じのとおり、時間は有限だ。もうすぐ君の大事な少女の命は無残に尽き果てるだろう」
あ、あ。
エミリーは血の気の失せたエマの顔と、剣を慣れた仕草で振って見せる写真家を見比べる。
ハンターがいるからかそれとも己の動揺か、どちらかは分からないが心臓がひどくうるさい。鼓膜が破れそうだった。
「一言、その一言で彼女は助かる。目の前で今吹き消されようとしている命の灯。最後に消すのは君の意思か?医師の本質とは?信念とは、初心とは。エミリー・ダイアー。いや、リディア・ジョーンズ。君の、医師としての選択を尊重しよう」
「逃がして、くれるのね」
「勿論だとも。約束とは、守るためにあるものだ。そう、そうだろう?いや、君の方がよくわかっているか」
「エマを、助けて」
一拍すら持たせず、エミリーは空を仰いだ。
写真家は満足げに頷き、すでにぴくりとも動かない体を風船につなぐ。二歩の帰路に入らなければ、その体は即座に失血死する状態であった。
しかし、エマの体は空中で止まる。
「エマ」
その細い指先は、縋るようにエミリーの服を掴んでいた。意識などなくとも、彼女の意思はここにあった。
「許さなくて、いい」
エミリーはその指をゆっくりと外す。よくできましたとばかりに写真家は笑みを深くし、そして荘園へ繋がる道へとエマを落とした。その姿はゆっくりと掻き消える。
荘園に帰った。
エミリーは壁にその体を預け、写真家へと視線を注ぐ。
「望みは、なに」
途端、エミリーの視界は白く焼けた。
体は浮遊感を味わい、写真世界への入り口へと誘われ、その寸前で落とされる。傷ついた体に痛みが走り、体を丸める。
「どうぞ」
「え」
意図がつかめず、エミリーは写真家を見上げる。
「倒れたサバイバーを吊って写真世界へ入ろうとしても、世界の境界線は超えられない。けれども、サバイバー自身が超えれば問題はない。不思議に思っていたんだ。最後のサバイバー本人を写真世界で椅子に座らせればどうなるのか。現実世界ならば、全員荘園に帰って終わりだ。だが、ここならば。ここならばずっと、いてくれるのかどうなのか」
「椅子は全部」
「一つ、直しておいたよ」
先程まで写真家が座っていた椅子はつぎはぎながらも機能している状態まで戻っていた。
写真家は優雅な動きで写真世界へと誘う。駄目押しを決めるかのうに、そして。
「約束は、守るものだ。リディア」
「何故、私なの」
「何故?何故だと?君が!それを聞くのか!」
痛みを堪え、足を引きずりながら写真世界へ向かうエミリーに写真家は声を上げる。
エミリーの体はもうすでに写真世界へと転がり込んでいた。
白と黒のモノクロの世界。
色があるのは現実世界では色を持たないハンターと、そして命あるサバイバーだけである。
その後を追って、写真家も自身の世界へと入り込み、間髪入れず、朦朧とした意識の中どうにか立っているエミリーの背中を斜めに斬りつけ、ダウンさせる。血が流れ落ちる体が風船へと吊られる。
浅い呼吸を繰り返しながら、エミリーは薄れゆく中で意識を保つ。
そして、優しく、ひどく優しくその体は椅子へと下された。もう抗う体力すらなく、エミリーは椅子に自らを括り付けていく写真家の答えを待つ。
写真家はエミリーの胸部から流れ落ちる血を指先で拭い取り、血の気の失せた唇へと押し当てた。
血の紅を、引く。
「うん、いいね」
色のない世界に、ただ二つ。
目を張るような赤で口唇を彩る女は椅子に力無く凭れ掛かっている。
「しゃしん、か」
こたえをきいていない。
写真家は、剣を、血の気の失せた顔の横に添える。
「ジョゼフ、と」
「なに」
「雪が、雨のようだ。そう、思うだろう。リディア。先日も、雨の降る夜だった。そうだね」
写真世界が間もなく終わる。
エミリーは、写真家が紡ぐ言葉の意味が分からなかった。
「雨の夜を、君は覚えているか」
「あめのよる」
「誰に会い、何を話したか」
「だれに」
「ああもう時間だ。リディア」
冷たい両手が頬を挟み込む。乞う様に、祈るように。冷たくなった唇に、同じような冷たさの唇が触れる。その色だけは、鮮やかな赤だった。
エミリーは、その懇願を込めた瞳に混じるどうしようもない孤独を見た。
雨の日の夜。
そう。
「謝必安」
あの、あめのひの。まいごの。こども。
エミリーは目を開けた。痛みはない。
心臓は激しく脈打ち、首筋にはエマがかじりつくように抱き着いている。
「エマ」
「エミリー!もう!あんなこと!しないでなの!」
ごめんなさい、とエミリーは泣きじゃくるエマを抱きしめ返し、落ち着かせるように頭をなでる。先のゲームは一体なんだったのかと頭をふるう。
最後に聞いた写真家の言葉はチェアの発射音でかき消されてしまった。
しかし今はとエミリーは、暖かな血の通う体を抱きしめた。冷たくはない。
守れた安心感に胸を撫で下しながら、エミリーは目を閉じた。今は、ただこの時を願う。